第3話:新しい街、新しい出会い・前
夏の日差しが眩しい。
離婚届を提出した足で乗合馬車に乗り、シェリー=グリーンは生まれ育った町を離れた。
かつて住んでいた家は、物件を取り扱うギルドに間に入ってもらい、もうだいぶ前から人に貸している。借家人はよその町から出稼ぎに来た若い姉妹だ。相場よりも安く貸す代わりに家と墓の管理を任せていた。
家賃は手数料を払えば物件を取り扱うギルドで回収を請け負ってくれる。そのお金は銀行ギルドのシェリーの個人口座に預けてもらっていた。毎月少額とはいえ五年以上も手をつけていなかったため、けっこうな金額になっている。新たな旅立ちの元手があることは、わずかではあるが彼女の心を軽くしてくれた。
(次の生活が落ち着いたら手紙を書きましょう)
これからどこに居を構えるか決めてはいない。だが少なくとも、生まれ故郷の町に戻るつもり気はまったくなかった。尊敬する父との思い出が残る家だが、今後のことを考えれば所有しておくのは難しいだろう。今のタイミングで姉妹に譲るか、ギルドに売り渡してしまうのも選択肢だ。
町に繋がりを残したままではいつまでも振り切れないし、もしかすると、幸せだった頃の記憶に甘えて進めなくなるかもしれないから。
そんなことを考えながら、シェリーは馬車の揺れに身を任せていた。六人乗りの馬車には彼女の他に、壮年の男性、仲の良さそうな老夫婦とその孫だと思われる五歳くらいの少女が乗っている。シェリーは自分の大きな鞄とトランクケースが、少女のほうへ倒れてしまわないように気をつけた。
ガタゴト揺れる馬車は、人を乗降車させながら一定の速度で進んでいく――
――空高くにあった太陽がだんだん傾いてきた。夏の日は長い。それでも、彼女が馬車を降りる頃には辺りは薄暗くなっていた。居を構える場所は決めていないが、行き先は決めていた。
(ここが、エラヴァンスの街――)
潮風の匂いがする。
港に面した大きな街は夕方になっていても活気に溢れており、多くの人々が広い道を行き交っていた。彼女が生まれ育った町も決して小さくはないが、エラヴァンスの街はそれと比べ物にならないほどの規模だ。整然とした石畳の道を進む。
穏やかな海域に属しているエラヴァンスの街は、古くから王都の港と主要都市の港を繋ぐ、海路の中継地点としての役割を担っていた。船で荷を運ぶ商人たちが、必ず寄港する温暖な地――中継地でなんの商売もしないはずがない。そのため必然的にエラヴァンスの街は交易の要所としても発展していった。
今では海路だけでなく、国主導で陸路も整備されている。海路と陸路を有するエラヴァンスの街は、国内の交通の要所としてすぐに名が挙がるほどの街だ。朝から晩まで賑やかで活気に満ちているのは、商売人やギルドや冒険者など、多種多様な業種の人間が集まっているからだろう。
人の波に飲まれないように、シェリーは大きな荷物を持って道の端に寄る。雑踏を行く人々の声を聞きながら、彼女は小さく息を吐いた。いつも調合室にひとりでこもっていたから、これほどたくさんの人間の中にいるのは久し振りだ。人酔いしているのか、頭が鈍く疼く。
けれど、気分は悪くない。むしろ爽快だ。たった数時間でこんなにも簡単にあの家から離れることができるなんて、複雑な気持ちだった。恩があるからとこだわらず、もっと早く行動に移しておけば良かった……と思ってしまう自分がいる。そんな自分は薄情な恩知らずなのだろうか。シェリーは確かに爽快な解放感を感じる自分が、酷く薄情な人間に思えた。
緩く首を振って、トランクの取っ手を持ち直す。そして道の端を歩いて、目的地を目指した。
エラヴァンスの街は初めてくる街だ。当然、地理に明るくはない。それでも道行く人に目的地の住所を告げれば、ひとり目にしてそこまでの道を教えてくれた。幸運なのではなく、彼女の目的地は誰もが知っている場所なのだろう。
街の中心地を目指す。荷物を抱えて、久し振りに長い距離を歩いた。靴の中の足が熱を持つ。食が細くなっていたこともあり、筋力も体力もだいぶ衰えてしまっているようだ。時々足を止めながらゆっくり進んで行く。
しばらくすると、屋根に盾と十字架を頂いた建物が見えてきた。
聖教会のエラヴァンス支部の建物だ。大陸でもっとも多くの信奉者を抱える宗教の支部のひとつで、街の規模に見合った大きさだった。宗教施設であるため決して華美ではないが、建物は洗練された美しい造りだ。
そこにはシェリーの、顔を知らない知人が身を置いている。正面の入口から入ろうとして、ふと彼女は足を止めた。祈りに来たわけでも、告解に来たわけでもない。そんな自分が正面から入ってもいいものだろうか。少し迷った末に、彼女は教会の裏口へ回った。
裏口は教会に食材や消耗品などの品を卸す商人たちが出入りする場所だ。そこで戸を叩いて中の人に声をかけ、鞄から一通の手紙を取り出す。そしてシェリーは知人――シスター・リネットを呼んでもらった。
教会の裏口で待つこと数分――
「あなたがシェリー=シドニアさん?」
出てきたのは、修道服を身に纏った、シェリーよりも少し年上であろう女性だ。普段から外に出ることが多いのだろう。シスターは日に焼けた肌をしており、頬には愛らしいソバカスが散っている。明るく活発そうな風貌の彼女は、目を輝かせながら近づいてきた。
温かい笑顔を向けてくれるシスター・リネットに、笑みを返しながら、シェリーは小さく首を振る。
「はい。でも離婚したので、今はシェリー=グリーンです」
「あら……そうなのね。ごめんなさい」
正直に話せば、シスター・リネットは申しわけなさそうに眉尻を下げた。謝られるようなことではない。シェリーは「気になさらないでください」と首を振った。
「悲しみはまったくないんです。それよりも……こちらこそ、すみません。急に訪ねて来てしまって……」
「シェリーさんならいつでも大歓迎よ」
「そう言ってもらえて良かったです」
突然の来訪になってしまったが、迷惑がられていないようだ。シェリーはホッと胸を撫で下ろす。初めて会ったにも関わらず、彼女はシェリーの気持ちを察してくれたのか、優しく微笑みかけてくれていた。
シスター・リネットと文通することになったきっかけは、五年前にまで遡る。
魔法薬師見習いとして修行に励んでいた頃、教えを乞うた魔法薬師のひとりが教会に魔法薬を提供していた。彼は引退間際の老いた魔法薬師で、知識を与える条件として、自身の引退後にその寄付を引き継ぐならばと提示してきたのだ。シェリーはその条件を飲み、一人前の魔法薬師となった四年前から聖教会エラヴァンス支部に魔法薬の寄付を続けていた。
その窓口となっていたのが、シスター・リネットだ。若くして周囲の信頼が厚いだけでなく、彼女は魔法薬に関する知識が深い。そのため寄付される品の中でも、魔法薬に関するものを担当していた。
皆が皆そうなのかはわからないが、シスター・リネットは必ずお礼の手紙を送ってくれる。シェリーは魔法薬を送るのと一緒に、お礼の手紙への返事を送った。何度もやり取りをする内に、どうやら年齢が近い相手だとわかり、その内、儀礼的な内容の手紙だけでない文通が始まったのだ。
「それでシェリーさん、今日はどうしてエラヴァンスの街へ? 傷心旅行……ではないのよね。悲しみはないとおっしゃっていらしたし……心機一転のための、ご旅行かしら……?」
彼女の疑問に、シェリーは苦笑いを浮かべる。
トランクケースと大きな鞄を見れば、旅行だと思われても不思議ではない。確かに大荷物ではあるが、家を出てきた人間の全財産として見るには少なすぎた。
「シスター、情けない話になるのですが、聞いていただけますか?」
察しのいいシスターは、そう言うシェリーの顔に思うところがあったのだろう。
「ええ、もちろんよ。中に入ってちょうだい。こんなところで立ち話をするような内容ではなさそうだもの」
シスター・リネットは共用のスペースではなく、私的な彼女の部屋に招き入れてくれた。木製のベッドと机と椅子、本が詰まった本棚と、小さなクローゼットがあるだけの簡素な部屋だ。花瓶には優しい色合いの野花が飾られ、壁には子供が描いたのであろう絵が貼ってあった。
椅子を勧められたシェリーは腰を下ろし、シスターが用意してくれた冷たいお茶で喉を潤した。夏の暑さで火照った身体に、その冷たさが心地いい。何も言わずとも、彼女はもう一杯お茶をくれた。ありがたく受け取ったそれを半分ほど飲むと、鈍く疼いていた頭痛が少し治まった。
シスター・リネットはベッドに座る。先ほどお茶を取りに行った時、同僚に言づけて時間を作ってくれたらしい。シェリーは特に信心深いわけではないが、やわく微笑むシスターを前に不思議と口が軽くなる。
ポツポツと、全てを――これまでの人生を語った。父が亡くなった夏の日のこと、魔法薬師として学んできたこと、居候生活のこと、結婚のこと、夫と義母の変化を受け入れられずにいたこと、愛人と子供の存在を知った日に離婚したこと――
全て話し終えると――シスター・リネットは修道女らしからぬ言葉で、シェリーの元夫と元義母に怒りを表してくれた。シェリー本人でさえも思いはしたが口にはしなかったような罵倒だ。神に仕える敬虔な信者であるシスターが、自分のために怒ってくれているのが、嬉しくて、おかしくて、なんだか無性に泣きたくなった。
――ひとしきりの話を終え、ふたりで温かいお茶を飲んだ。冷たいお茶を飲む気分ではなく、それを察してくれたのか、はたまた彼女もそうだったのか、シスター・リネットが一度部屋を出て用意してくれた。
ほう、と小さな息が漏れる。
「境遇に納得はできないけど、あなたがそんな家を出てくれて本当に良かったわ。それでこれからのことだけど、エラヴァンスの街に定住したいのね?」
最初はそんなつもりでエラヴァンスの街に足を踏み入れたわけではなかった。だがシスターと話している内に、そうしたいと思った。多くの人で賑わい、誰をもを受け入れるかのような忙しい街――ここで、やり直してみよう、と。
「はい。この規模の街なら同業者と顧客の取り合いをすることもないでしょうし、どこかに居を構えて、魔法薬師として働ければと思っています」
「そうね。魔法薬師はどんな場所でも必要とされているわ。仕事には困らないでしょう。この街には冒険者ギルドもあるしね。でも……高いわよ」
シスター・リネットは一度言葉を区切り、真剣な顔で言った。
「交通や交易の要所というだけあって、エラヴァンスの街の家賃相場はシェリーさんが考えている以上に高額だわ。魔法薬師の職場って、どこでもいいというわけではないんでしょう?」
「そうですね。薬草の独特な匂いもありますし、乾燥させるために日当たりも重要になってきます。それに理想を言えば、よく使う薬草くらいは自分で育てたいので、小さな畑があれば……」
「悲しいけれど、盗難に遭わないくらいの安全性も確保しないと。そうなるとやっぱり……高くつくわね」
寝耳に水ではない。家賃をはじめとする初期投資の資金については、シェリーなりに考えていた。貯まっていた家賃収入で賄えればと思っていたが、どうやら考えていた以上に費用がかさみそうだ。
魔法薬師の仕事を行うには、まず材料を手に入れる仕入れ先と、調合するための工房を手に入れなければならない。商店や魔法薬の専門店に所属すれば、ひとまず住居を用意するだけでいいが――
(今はまだ、どこかに所属したいとは思わないわ)
誰かに指示をされて淡々と調合をこなすのではなく、ある程度の自由が欲しい。せっかく抜け出したのにまた抑圧されたくないと、もう少しだけ落ちつく時間がほしいと、彼女の心の中で叫んでいる声がある。それでも生きていくには金が必要で、得るためには多少でも心の叫びを無視しなければならないのだろう。
沈黙が落ちた。
よほど暗い顔をしていたのか、青白い血管が浮いたシェリーの手に、シスター・リネットの手が重なる。目線を挙げれば、シスターはにっこりと微笑んでいた。
「シェリーさん、もし良ければ紹介したい方がいるの」
「え?」
「もちろん身元のしっかりした方よ。聖教会への寄付を毎月行ってくださって、バザーでも協力してくださる女性なの。もしかするとその方なら、シェリーさんの懸念を払ってくださるかもしれないわ」
「そんな方がいらっしゃるんですか?」
「詳しいことはあとで説明するわね。そろそろお役目に戻らないといけないの」
「あ……すみません。わたし、そろそろお暇を――」
気付けば随分と引き留めてしまっていた。慌てて椅子を立とうとしたシェリーの動きを制すように、シスターの手がそっと肩に触れる。
「街に来たばかりで泊まる宿も決まっていないのなら、どうか今夜は私の部屋に泊まっていって。あまりいいベッドではないけどね」
シスターが冗談ぽく言う。なんの下調べもしていない、右も左もわからない街だ。ありがたい申し出だが、文通はしていても、初めて会う相手にそこまで甘えてしまってもいいのだろうか。
「ご迷惑ではありませんか……?」
「いいえ。そんなことないわ。私、ずっとあなたに会ってみたかったの。手紙の字を見ながら、どんな女の子なのかしらって。とても優秀な魔法薬師さんだというのとは別にして……勝手に友達のように思っていたのよ」
リネットの言葉にシェリーは目をまたたかせた。そして言葉の意味を飲み込むと、青灰色の目を細めて口元を緩める。優しい年上の幼馴染みは消えた。魔法薬師になるためにずっと勉強をしていたから、友達と呼べるだけの関係を築いた者はいない。
「ありがとうございます。そう言っていただけて、嬉しいです。今夜は……お世話になります」
シェリーが素直な気持ちを口にすると、彼女は眩しいほどの笑みを返してくれる。シスターの醸し出す親しげな雰囲気のおかげだろう。彼女が触れている肩の力が、すっと抜けて行く気がした――