第2話:シェリーの不遇な結婚生活・後
――淡々とした日常が続く。
ほんのお小遣い程度の報酬で魔法薬を調合し、義母にケチをつけられないように家事に従事する。料理も掃除も洗濯も言われた通りにして、細心の注意を払っているのに、粗を探されては棘のある言葉を向けられた。
自分の家であるはずなのに、苦しくてたまらない。息ができない。深く暗い、誰もいない湖の底に沈んでいるかのような、毎日だ。居候だった時のほうが、よほど身軽に、気楽に、生活することができていた。
活き活きと仕事をする夫は話を聞いてくれず、ただただ身体ばかりを求めてくる。なんの快楽もない、彼女の尊厳を踏み躙るかのような苦痛な時間――息を殺してその時間が終わるのを待つシェリーに気づきもせず、エレズは自分だけが満足して精を吐き出す。独りよがりの行為だった。そこにはもう、優しい年上の幼馴染みはいない。何度も、何度も、身体を暴かれ――だがしかし、それでも、シェリーは妊娠しなかった。
「どうして子供ができないのかしら? シェリーちゃん、草ばっかり触っているから身体に悪い影響が出ているんじゃないの?」
子供を孕まない嫁に、姑はわざとらしく大きな溜め息をつきながら言う。シェリーはかつて大恩を感じていた夫人に対して愛想笑いを浮かべ、謝罪の言葉を紡ぐことしかできなかった。
何度も出て行こうと思ったが、その度に、亡くなってしまったおじさんの顔が頭をよぎる。大恩のあるもうひとりの人で、彼は常に愛情深く接してくれた。そして、おじさんの顔が浮かべば、その隣に優しかった頃のおばさんと幼馴染みの顔も現れて、消えてくれなくなるのだ。もうそんなものは存在しないのだと、ちゃんとわかっているはずなのに。
天涯孤独の身となって、少し先の将来さえ見えなかった時、シドニア家の人たちに手を差し伸べてもらった。子供から大人への転換期、薬師見習いから薬師へと至る成長期ともいえる三年もの間、温かく接してもらっていたのもまた、事実なのだ。全て過去のことで、現在は踏み躙られているとはいえ、それで過去の恩がなくなるわけではない。
延々と心の中でふたりの自分がせめぎ合い、ストレスだけが蓄積していく。食事が喉を通らなくなり、深く眠ることができなくなった。体重が減っていき、ついに生理が止まる。義母と夫は妊娠したと勘違いし、違うとわかると彼女を責めた。蔑むような表情で見下され、告げられる。
「どこまで期待を裏切れば気が済むんだ?」
「役立たずにもほどがあるわ」
軽蔑の視線で見据えられて――頭の中で、何かが砕け散る音がした。あとのことはあまり覚えていないが、その後、料理の味がわからなくなった。
そんな生活の中、魔法薬を調合する時間だけが、彼女の気持ちを落ち着かせてくれた。味覚は鈍くなったが、嗅覚は生きている。素材となる薬草を選別し、下ごしらえを念入りに行う。細心の注意を払いながら、その日の気温や湿度に合わせて薬草を煎じ、魔力を込めた水と攪拌し、不純物が入らないよう空き瓶に詰めた。魔法薬作りは繊細さとセンスが求められるが、慣れてしまえば作業自体はそう難しくない。
精神的に追い込まれ、肉体に影響が出るようになってもシェリーが倒れなかったのは、偏に魔法薬のおかげだった。腕のいい薬師と成ったことが、幸か不幸かわからない。薬がなければ倒れて、結果それが休息へ繋がっていただろう。自分の体調に合わせて、自分に効く薬を調合し、自分で飲む。医者へ行くことなかった。
冷え切った、淡々とした日々が続く。なんの楽しみも見いだせない、触れられるものも、触れられないものも、何も与えられず、心の拠りどころがどこにもない生活を送る。気付けばシェリーにとって二十二回目の夏が来て、結婚してから三年の月日が経っていた。
そして、その日……事態が動く――
夏の太陽がぎらつく中、夫のエレズが珍しく昼間に帰宅した――らしい。調合室にいたシェリーは義母によってリビングに呼び出された。義母は怒鳴るように「早くなさい!」とシェリーの痩せた身体を押す。躓くように、開けたままだったドアから脚を踏み入れた彼女は、目の前の光景に傾いた体勢のまま固まった。
ソファに座るエレズの隣には、シェリーと同年代ほどの女性がいる。彼女はエレズに寄り添っていて、そして、彼の膝の上にはおしゃぶりを咥えた男の子がいた。
誰も口を開こうとせず、沈黙が落ちる。現状を理解できないシェリーはもちろん、普段は口うるさいくらいおしゃべりな義母も、当事者であろうエレズも何も言わなかった。時計の針の音が、嫌に大きく聞こえる――やがて、最初に言葉を発したのはエレズだった。
「シェリー、彼女はミッシェル=ソーク。シドニア商店で接客を担当してくれている女性だ。それから彼女の息子のユアン。一歳と二か月になる」
「そう……でもどうしてミッシェルさんと、息子さんがここに?」
話しかけられたから、言葉を返す。久し振りに人と話したからか、緊張からか、声は震えて、ほんの少し枯れていた。エレズが「それは」と真面目な顔で言う。
「それは、ユアンが僕の息子でもあるからだよ」
何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
膝の上の男の子が息子ということは、夫が店の従業員である女性と、肉体的な関係を持ったということだ。一歳と二か月ということは、ちょうど二年ほど前に授かった子供ということになる。それが一度目の関係で、たった一度の関係で子供を授かったのだろうか。それとも、ふたりはもっと前から関係があったのか――その手で、自分に、妻に触れたのか。抱いたのか。何度も、何度も――
吐き気が込み上げる。
シェリーはふらつき、壁に手をついて身体を支えた。あまりも不快さに、自分の足で立っていることができなかった。
「ミッシェルには身寄りがなくてね。これまでひとりで僕らの子供を育ててくれていたんだ。でも最近、体調を崩してしまって……」
視界が歪む。気を抜けば意識を失って、倒れてしまいそうだ。妻である自分の話をロクに聞いてもくれなかった夫が、義母の棘から守ってくれなかった夫が、よその女の上で腰を振り、子供まで作っていた事実に眩暈がする。足元が崩れていく。今よりも下があったのかと思うほど、落ちていく。
「赤ん坊の世話と仕事の両立が負担になっていたんだ。そのことを長らく僕にも言わないで……頑張ってくれていた。健気な女性だろう?」
いっぱいいっぱいだった。涙なんて出てくれない。呼吸すらままならない。叫び出してしまいたかった。口元を押さえた手は、叫び出さないように塞ぐためか、込み上げる吐き気のせいか。自分のことなのに、それすらわからない。
けれど、次にエレズが吐いた言葉は、そんな彼女を更に追い込んだ。
「僕は覚悟を決めたんだ。これ以上、彼女ひとりに負担をかけはしないって。ユアンとミッシェルをシドニア家に迎える。だから、シェリー。離婚して。僕たち、幼馴染みの関係に戻ろう」
夫と、義母と、愛人の、三人の目がシェリーに向いている。気持ちが悪い。おしゃぶりを咥えた子供の視線さえも、自分に向けられている気がした。気持ちが悪い。その場にいる全ての人間が、シェリーの言葉を待っている。ああ、本当に、気持ちが悪い。
「自分が、何を言ってるのか、わかっているの?」
「ああ、わかってるさ。どんなに愛し合っているとしても、僕とミッシェルは不貞の関係だ。彼女は愛人で、ユアンは愛人の子……このままだと日陰の道を生きるしかない。ひとりの男として、大事な女性とかわいい我が子をそんな存在のまま置いてはおけないんだ」
凛とした表情ではっきりとそう言う彼が、シェリーには、バケモノか何かのように見えた。なんて、おぞましいのだろう。そう思う彼女の気持ちに気づかず、エレズは己に陶酔しているかのように言葉を続ける。
「ミッシェルとユアンに苦労をかけたくない。家族として得られる権利も愛情も、全てを渡してあげたいんだ……幸い、僕たちの間には子供がいないだろう? 今なら最小限の傷で別れられる――」
「エレズ!!」
エレズの言葉を遮るように声を上げたのは、義母のルイーザだった。
(お義母さん……)
シェリーは縋るように義母へ目を向ける。エレズと結婚して、幼馴染みの母親から姑へと変わったことで、酷く冷たい仕打ちをするようになった。それでも、父が死んでしまったあの時、鍋ごと渡してくれたスープの味が記憶に残っている。味覚がなくなり、新しい味を覚えることができなくなったからこそ、ずっと忘れることができなかった。
息子の非道を咎めてくれるのだと、棘のある言葉を吐いていたけれど、心の奥底には昔の優しかったおばさんがいるのだと、そう信じて――だが、シェリーのそんな気持ちを裏切るように、ルイーザ=シドニアは笑っていた。嬉しそうに、頬を染め、興奮を隠しもせずに……。
「どうしてもっと早く言ってくれなかったの!? 私に孫がいるのなら、そう言ってくれれば良かったのに!」
「ごめんよ、母さん。僕も早く伝えたい気持ちはあったけど、褒められた関係じゃないって自覚はあったから、言い出しにくくて……」
「何言ってるの! うちの大事な跡取りなのよ? 生まれてきてくれただけでありがたいことだわ。褒められないなんて、そんなことあるはずないじゃない!」
「母さん……!」
ルイーザがミッシェルの手を握った。
「ありがとう、ミッシェルさん。エレズの子供を産んでくれて……産前も産後もひとりで大変だったでしょう? 知っていれば力になったのに……」
「大奥様……」
「そんな堅苦しい呼び方はやめてちょうだい。これまで女手ひとつで乳飲み子を抱えて生きていたなんて、立派だわ。でもね、無理は禁物よ。身体を壊してまで頑張る必要はないの。これからは義母として、私を頼ってちょうだい。遠慮はしないで。貴方たちと私は家族になるんだから」
「っ、お義母様、ありがとうございます……!」
「良かったね、ミッシェル」
ミッシェルが涙を浮かべ、そんな彼女の肩を抱き、見つめるエレズの目には優しい色が湛えられている。穏やかな義母の声を聞くのはいつぶりだろうか。きゃっきゃとはしゃぐ、丸い頭の男の子に、三人の慈愛に満ちた瞳が向けられ――
(何を、見せられているのかしら)
ぐるぐると不快感が渦巻く。頭の中でも、お腹の底でも、目の前の『家族』の姿に対する嫌悪感が湧き立ってきた。
エレズがシェリーのほうを見て微笑む。
「かわいいだろ? シェリーも抱いてみる?」
彼の顔を見て愕然とした。そこには罪悪感も反省の色もない。ただただ純粋に、自分の息子を幼馴染みに紹介したいと言わんばかりの、無邪気な表情が浮かんでいる。ずっと昔に見ていた、年上の幼馴染みの顔だ。
一分でも、一秒でも早く、この異様で不快な空間から立ち去りたかった。シェリーはエレズの投げかけには答えずに、無言のまま近付く。足に意識的に力を入れなければ、そのまま崩れ落ちてしまいそうだった。
彼らが腰を下ろすソファの前のローテーブルには、記入済みの離婚届が置かれている。シェリーはペンを手に取って空欄だった箇所を埋めていく――彼女の字は震えて歪んでいた。役所に提出する書類だ。不備があってはならない。こんなこと、とっとと終わらせてしまわなければ。
丁寧に、決して間違えないように書いている内に、不思議と心が凪いでいった。投げやりになっているのではない。揺れ動く感情を向けるほどの相手ではないと、心が整理できつつあるのだ。裏切られたと、怒りを抱くだけの信頼は、もうとっくになくなっていた。
全ての記入が済んで、ペンを置く。
エレズが満足そうに頷いた。
「これは今日中に出しておくよ」
「ええ」
「それから今後のことだけど、シェリーは行くところがないだろう? 昔の家は人に貸してるし、身内もいないし……ああ、でも大丈夫だよ。シドニア商店は従業員が借りれる部屋を用意してるからね。うちの魔法薬師として働いてもらうわけだから、ちゃんと君の分の部屋を空けておいたんだ。一番広くて、いい部屋だよ」
「そう」
「心配しないでいい。放り出したりしないよ。君は、僕の大事な人だから」
本気で言っているのだろう。
いつか、父が死んだ時に家へ誘ってくれた時のように。
いつか、結婚しようと言ってくれた時のように。
いつかと変わらずひょろりとした体躯の彼は、穏やかな笑みを浮かべてシェリーを見つめてくる。悪意は感じない。嘲笑も軽蔑もなく、彼の中のシェリーは、行き場をなくした幼馴染みなのだ。
一度は自分を救ってくれた優しさと、穏やかさに――嫌悪感を覚える。気持ちが悪くて、たまらない。裏切られたことへの怒りは湧かないが、不快な存在を叩き潰してしまいたい衝動に駆られる。もしも体調が万全なら、その細い身体を押し倒して馬乗りになり、顔面が潰れるくらいボコボコに殴っていたかもしれない。
「わたしが、元気じゃなくて良かったわね」
「え?」
首を傾げるエレズに、シェリーは微笑む。彼のように、穏やかに、優しく。姑のように毒の棘を生えさせて、彼女は別離の言葉を紡いだ。
「あなたの助けはもういらないわ。さようなら」
「ちょっと待ってよ、意味がわからないんだけど――」
「今さら話すことなんてないの。もういいでしょう? これ以上、あなたたちの傍にいると……わたし、おかしくなりそうだから。離婚届はわたしが出しておくわ」
振り回されて終わらせられるよりも、自分で終わらせてしまいたかった。シェリーは記入済みの離婚届を手に取る。そして重い足を動かすと、リビングの出口に向かって一歩ずつ、一歩ずつ、歩みを進めた。後ろから聞こえる夫――幼馴染みの声は無視する。
シドニア家を出て行こうとする足を止めるかのように、亡くなったおじさんの顔が頭をよぎる。優しかった頃のおばさんと、年上の幼馴染みの顔も浮かんできて、脳裏から消えてくれない。
もうひとりの自分が叫ぶ。
天涯孤独の身となって、少し先の将来さえ見えなかった時のことを思い出して。シドニア家の人たちに手を差し伸べてもらったでしょう? 子供から大人への転換期とも、見習いから魔法薬師に成った成長期ともいえる、大事な大事な三年間。その間の『わたし』を守って、温かく接してもらっていたでしょう? それなのに恩人を捨ててしまうの? と――
シェリーは、足を止めて振り返る。
夫だった男の子供を産んだミッシェルは俯いていた。肩が震えている。結局謝ることも、言いわけすることも、シェリーに意識を向けることもなかった女だ。泣いているのではなく、笑っているような気もしたが、もはやどちらでもかまわない。
こちらを見ていたエレズとルイーザと目が合った。自分の中で綺麗に整理ができつつあるようだ。自分を心身共にボロボロにした相手を見ても、不快感と嫌悪感以外、何も思うことはない。名残り惜しさも、引き留めてほしいという気持ちも、探したけれどどこにもなかった。
三年間、居候として大事にしてもらった。プロポーズされてから一年の婚約期間は可もなく不可もなく過ぎていった。大事にしてもらった事実があるのと同じだけの時間――結婚して三年、シェリーはこの居心地の悪い家の中で耐えてきた。
恩を感じた三年間と、恩がすり減っていった三年間――充分な時間だ。
(もういいでしょう?)
もうひとりの自分に尋ねれば、十五歳の時のシェリーの姿をした『自分』が悲しげに笑って、消えていく。
「長い間、お世話になりました」
シェリーの顔は心身的な疲労で、すっかりやつれてしまっていた。二十二歳の若い肌にはハリがなく、父譲りの茶色の髪もパサついている。けれど、もうすぐ元夫と元義母になるふたりへ別れを告げた表情は、晴れ晴れとしていた。
夏のよく晴れた午後。
彼女は必要最小限の荷物を大きめのトランクケースと鞄に詰め込み、十五歳から二十二歳まで――七年という長い時間を過ごしたシドニア家を出た。そのままの足で役所へ向かい、いいことも、悪いことも、過去の全てを捨てるべく離婚届を提出する。
そして彼女は、尊敬する父の元で魔法薬師になる夢を持ち、意欲的に学び、精いっぱい生きていたあの頃の自分へ――シェリー=グリーンへ、戻ったのだった――。