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第1話:シェリーの不遇な結婚生活・前

 シェリーが十五歳の時、男手ひとつで育ててくれていた父が亡くなった。彼は薬草や魔獣の素材から魔法薬を作る優秀な魔法薬師で、ひとり娘のシェリーに魔法薬作りの手ほどきをしてくれた師匠でもある。


 真面目で、お人好しだった父は流行病で封鎖された村へ魔法薬師として赴き、その帰り道、賊徒に襲われて落命した。八の月も半ばを過ぎた、暑い日だ。父に恩を感じていたその村の人々が、たとえ亡くなってしまったとしても、なんとか故郷に帰してやりたいと決起し、氷結の魔法を使える魔法使いをなけなしの財産で雇ってくれた。そして遺体は腐敗することなく、シェリーの元へ帰って来たのである。


 父の葬儀は冷たい夏の雨が降る中、小高い丘の上にある墓地で執り行われた。町の人にも商売相手にも、たくさんの人に慕われていた父の葬式は、深夜になるまで弔問客が途切れなかった。彼女はその対応に追われて息をつく暇もなく――


 ――ようやく家に帰れたのは明け方のことだ。


 窓際の椅子に腰を下ろし、見慣れた町並みをぼんやりと眺める。薬草の匂いが染みついた小さな家。開け放たれた窓の向こうから風が運んでくる夏の朝の光と、朝露の香り。ひとりきりの家の静けさの中で、ああ、これで本当にひとりぼっちになったのね、と、シェリーは力なく涙を流した。


 そんな時に、彼女の元を訪れたのが、二歳年上の幼馴染みであるエレズ=シドニアだ。シェリーは涙を拭って、彼を玄関で出迎えた。


 エレズは両親と共に葬式にも参列してくれたが、昨日の夕方に墓地で別れている。ひょろりとした体躯の彼は、ドアを開けた先でスープの入った鍋を手にして立っていた。おたまが挟まってできた鍋とフタとの隙間からは白い湯気が上っている。明け方の早い時間にも関わらず、どうやら作りたてのようだ。


「食欲はないだろうけど、スープなら食べれるかと思って」

「……おばさんが作ってくれたの?」

「うん。母さんも心配してるよ。無理しちゃダメって言ってた」

「そうなの……」


 気力は依然として湧かないが、エレズが持ってきてくれた鍋を受け取った。持ち手の仄かな熱に、すっかり冷たくなっていた指先がじんわりと温かくなっていく。


 ひとりぼっちだと自覚してすぐだったからだろうか。喪失感や悲しみでできた罅割れに、彼の優しさが染みていく。エレズや、スープを作ってくれた彼の母親、葬儀のあれこれを手伝ってくれた彼の父親の顔が、頭に浮かんだ。自分では制御できないくらい胸が熱くなって、少しでも深く呼吸をすれば、せっかく拭った涙が今度は止まらなくなりそうな気がした。


「ありがとうって、伝えておいて」

「わかった」

「?」


 もう用事は済んだはずなのに、エレズが動こうとしない。話す気力はないが、スープを受け取っておいて追い返すわけにもいかないだろう。シェリーはドアを閉めることも、口を開くこともできないまま、幼馴染みが動くのを待った。


 彼はしばらく唇を引き結んでいたが、やがて意を決したように真剣な顔をすると――


「シェリーが、落ちついたらでいいんだけど……もし良かったら、これからはうちで暮らさないか?」

「……え?」

「おじさんがいなくなって、急にひとり暮らしなんて大変だろうし、母さんも父さんも放っておけないって言ってるんだ。ほら、うちのシドニア商店は魔法薬屋だし、シェリーの勉強にもなるだろ?」

「あ、うん、そうだけど――」

「それにさ!」


 困惑する彼女の言葉をエレズが遮った。


「僕もシェリーがうちに来てくれたら、いいなって思ってる。心配なんだよ。君は、僕の大事な人だから」

「エレズ……?」

「と、とにかく、一度考えてみて!」


 言っている途中で恥ずかしくなったのか、幼馴染みはそう言い残すと、走って帰って行った。シェリーはいい香りのする鍋を持ったまま、小さくなっていく彼の背中を見つめていた――


 父を失い、心にぽっかり穴が開いてしまった。腕利きの魔法薬師である父は、今回のように家を空けてなかなか帰って来ない日があった。シェリーが大きくなってからは頻度も増えている。それでも父の存在は確かに感じていて、家にいないからと、不安を覚えることはほとんどなかった。


 それなのに、今はどうしようもなく不安だ。足元がぐらついている。静かな家が怖くて、たまらない。薄ぼんやりとした冷たい闇が背中に張りついているような、あるいは触れられて飲み込まれる直前のような、そんな言い様のない漠然とした恐怖がすぐ傍にある。


 師匠でもあった父がなくなったことで、魔法薬師になるための教えを乞う相手もいなくなったのも、不安の要因だろう。見習いの魔法薬師として描いていた、将来のビジョンが輪郭を失った。これからどうすればいいのか、先行きが見えない。


 シェリーはシドニア一家の申し出を、ありがたく受けることにした。他にどうすればいいのかわからなかったし、何より、ひとりで暮らすのに、父との思い出がつまった家は広すぎた。大切なこの場所を、怖い場所だと思って暮らしていきたくはない。


 遺品の整理や葬儀から遅れて届けられるお悔やみの手紙への返信、父の仕事関係の手続きなどをなんとか終えて――およそ三か月後、彼女はシドニア家に身を寄せた――


「シェリーちゃん、なんの心配もいらない。落ちついたら、うちの商店で契約している魔法薬師を紹介してあげよう」

「本当に、大変だったわね。何か困ったことがあれば、本当の家族だと思って、すぐに相談してちょうだい」


 エレズの両親はシェリーにもよく知る人たちだ。父が魔法薬を卸していたシドニア商店の店主であるジョンと、その妻で母のいないシェリーを気にかけてくれていたルイーザ。ふたりは天涯孤独の身となった彼女を温かく迎えてくれた。


 幼馴染みのエレズもシェリーを気遣い、それまでよりもたくさん話しかけてくれるようになった。二歳の年齢差があるからか、幼馴染みという関係性は、いつしか兄妹に似た関係へと変化していく――


 シェリーはシドニア家の三人に恩を感じていた。


 だから、父に師事していた時よりも真剣に――見る人が見れば鬼気迫るという言葉がぴったりの勢いで――魔法薬について学んだ。何人もの魔法薬師に頭を下げて教えを乞い、寝る間も惜しんで専門書を読み漁る毎日だった。


 父親譲りの才能と本人のたゆまぬ努力の結果、シェリーの腕はみるみる上がり――三年が経ち、十八歳になった頃には、シドニア商店に並ぶ各種魔法薬のひと通りの調合ができるほどになっていた。


(そろそろ、ひとり立ちしないといけないわね)


 その頃になると、シェリーはシドニア家を出ることを考えるようになった。親切に甘えて、いつまでも居候のままでいるのは申しわけない。必死に学び続けた三年という時間は、父を亡くした心の傷を完全にではないが、癒してくれた。


 だから彼女は父の命日を来月に控えた、夏の訪れを告げるかのような激しい雨が降るその日――あくまでも相談という形で、まずはエレズに話をすることにした。


 二十歳になった彼は相変わらずひょろりとした体躯だが、顔つきは穏やかさが滲む大人びたものへと成長している。昨年から本格的に家業を手伝いはじめたエレズは、シドニア商店の地下倉庫にいた。


 いくつもの収納棚が所狭しと並ぶ中、彼は棚卸し前の魔法薬の個数を数え、紙に記入してまとめている。そこへ足を運んだシェリーは彼と当たり障りのない会話をしつつ、やがて本題を切り出した。


 今度こそひとり暮らしをしようと思っている、と。


 エレズが信じられないとばかりに目を見開いた。


「ひとり暮らしって、なんで、急に?」

「もう子供じゃないんだし、いつまでも居候のまま迷惑をかけられないでしょう?」

「シェリーは商品になる魔法薬を作ってくれてるし、僕も、母さんたちも、誰も迷惑だなんて思ってないよ。だから出て行こうとしなくてもいい」

「でも、いつかは出て行かないといけないわ。あなただって、そろそろ結婚しないといけないでしょ?」

「っ、結婚の話は関係ないだろ!」


 何故か声を荒げるエレズに、シェリーは静かに首を振った。


「関係なくないわ。異性の幼馴染みが同居してたら倦厭されるわよ。もっとも、この町の人には知られていることだし、もう遅いかもしれないけど……」

「だったら!」


 紙の束が床に落ちる。彼の大きな手に肩を掴まれ、シェリーは目をまたたかせた。エレズは、いつか見たのと同じ、真剣な顔をしている。


「だったら、君が僕と結婚してくれればいいじゃないか」

「……え?」

「ずっとこのまま一緒にいたいって思うのは、僕だけなの?」


 告げられた言葉は思いもよらないもので、シェリーは反応に困る。エレズのことは嫌いではない。一番親しい異性で、恩があり、少なくとも親愛の情は感じている。けれど結婚相手として見たことはなかった。


 そもそも、彼女は結婚というものへの興味関心が薄い。魔法薬の素材となる薬草や魔獣について学び、知識を探求する道はどこまでも果てしなく続いているのだ。恋愛や結婚をするよりも、魔法薬師の道を邁進していくことに意欲を向けていた。学べば学ぶほど、亡くなった父の優秀さが理解でき、日々目標が高まっていくのだ。


 言葉を紡げずにいると、エレズが眉を寄せる。


「シェリーは僕のこと嫌い?」

「そんなことはないわ。ただ、考えたこともなかったから……」

「じゃあ、考えてみてよ。僕たちならいい夫婦になれる。父さんと母さんだって、口にしないだけで僕たちが夫婦になるのを望んでる」

「え……」


 シドニア夫妻は、店を経営していて生活にある程度の余裕があるとはいえ、親戚でもなんでもないシェリーの面倒を見てくれた恩人だ。魔法薬師としての道を切り開けたのも、夫妻の応援があってのことと言っても過言ではない。だから、一人前になって、これからはできる限りの恩返しをしたいと思っていた。


 とはいえ、急に結婚と言われても、即座に踏み出せるわけもなく――


「少し、時間をちょうだい。真剣に考えてみるわ」


 シェリーにはそう答えるのが精いっぱいだった。


 自分の将来についての決断だ。これまで魔法薬ひと筋に打ち込んできた彼女も、この時ばかりはさすがに調合も勉強も横に置き、使ったことのない方面へ頭を使った。魔法薬の道を進む速度は遅くなるだろう。嫁ぎ、嫁となり、妻となり、いずれ母となるというのは、そういうことだ。


 将来や夢と、恩に報いたい気持ちを天秤にかけること、三日。出した答えは――


「わたし、あなたと結婚するわ、エレズ」

「ほ、本当に?」

「ええ。これからもよろしくね」

「っ、ああ! 大事にする!」


 最終的に答えを決めたのは頭ではなく、心だった。


 エレズの両親――シドニア夫妻は何も言わないが、シェリーが息子と結婚するのを望んでいる。エレズのことは好きだ。今はただの親愛でも、同じ方向を向いているのだから、いずれ男女の情を孕んだ好きへと変わってくれるだろう。そもそも、本当の家族になるのなら、恋愛感情でなく親愛の情があるだけで充分なのかもしれない。受けた恩に報いたいと、彼女の心は言った。


 エレズがシェリーを抱きしめた。彼の腕の中で、彼女はそっと目を閉じる――


 ――ふたりの結婚を、シドニア夫妻は温かく受け入れてくれた。義理とはいえ、シェリーを娘として迎えられるのが嬉しいと言ってくれたのだ。シドニア商店の人間も若旦那と優秀な魔法薬師の婚姻を祝福した。


 式には準備の時間がかかる。そのためひとまず婚約という形にし、翌年、シェリーとエレズの結婚式を執り行う――はずだった。結婚式は頓挫する。何故ならその年、エレズの父が帰らぬ人となったからだ。義理の父となるはずだったその人は、商談の帰りに通った森で魔獣に襲われ死亡した。


 喪に服すべき時に結婚式など挙げられるはずがない。シェリーとエレズは話し合い、式を挙げず、婚姻届を役所に提出するだけに留めた。


 ――思えば、歯車が狂いはじめたのは、この時からかもしれない。


 若くして店を継いだエレズは、ほとんど家に帰ってこれなくなった。当然だ。先代の死は急なもので引き継ぎは何もしていない。シドニア商店は近隣の町を見ても一、二を争う規模の商店だ。抱えている従業員は数十人、その家族や下請け、取引先の者たちの生活を考えれば、潰してしまうわけにはいかない。


 義母となったルイーザは、それまで商売のことにほとんど関知していなかったが、非常事態のため経営者の親族として店に顔を出すことが増えた。そうすると自然と家の中の仕事はシェリーの役割となってくる。魔法薬を調合するのと並行して、彼女は家事に従事することとなった――


 恋愛感情で結ばれた夫婦ではないとはいえ、新婚の家庭とは思えないほどの時間、すれ違いが続く。エレズは一日のほとんどを店で過ごし、家にはまとまった睡眠を取る時か、着替えなどの洗い物が溜まった時くらいしか帰ってこない。作った食事が無駄になることも多かったが、疲れて帰ってくるかもしれないことを思えば、作らないという選択肢は彼女になかった。


 時折、夫婦の営みを求められたが、彼は疲労やストレスからくる苛立ちをぶつけるかのようにシェリーの柔肌を暴いた。


 初めての夜は痛みと衝撃に涙を流したが、何度も抱かれている内にこんなものだと割り切れるようになった。子供を作るための行為だ。挿入し、子宮に精を吐き出す……その工程を辿っている以上、夫婦間のコレは欲求の捌け口などではなく意味のある行為だと、思うことができた――


 ――およそ一年半、そんな生活が続いた。


 バタバタしていたシドニア商店はひとまずの落ち着きを見せ、義母のルイーザは家を守る立場へ戻ってきた。最初は些細な違和感だ。優しく、本物の母のように温かかった彼女の雰囲気が変わっている、ような気がした。


「シェリーちゃんのお料理は味が単調なのよね。でも大丈夫よ。私がシドニア家の味をしっかり教えてあげるわ」


 義母は笑顔で言う。


「魔法薬作りで忙しいのはわかるけれど、シェリーちゃんはエレズのお嫁さんなのよ? もっと家のことにも目を向けないとダメでしょう?」


 居候だった頃には感じたことのない空気だ。義母の言葉には微かな棘があり、大きな傷にはならないが、無視することのできない程度の痛みを与えてくる。だが、言い方はともかく、ルイーザの言葉は間違っていない。


「魔法薬の報酬? シェリーちゃん、まさか家に入れないつもりなの? エレズと夫婦になって、財布はひとつになったのよ。貴方だってシドニア商店の売上で生活しているでしょう? 金銭管理ができないと家計は任せられないわ」


 間違っていないからこそ、余計に胸に刺さるのだ。


「ねえ、子供はまだなの? 人生っていつ何が起こるかわからない……夫が亡くなって、それを実感したわ。シェリーちゃん、早く子供を産んでちょうだい」


 ルイーザの言葉は、シェリーの心の内側に重く圧し掛かり、消えることなく沈殿し続ける。直接的な罵倒の言葉ではなくても人を攻撃する言葉があるのだと、シェリーは初めて知った。


 エレズに相談したこともある。


 結婚してから、おばさん――お義母さんが変わってしまった、と。しかしエレズは真剣に取り合ってくれない。


「母さんも悪気はないんだよ。シェリーを本当の娘だって思ってるから、気を遣わない言い方になってるんじゃないかな。そんなことより、ねえ、いいだろ?」

「ちょっと待って、話を――」


 答えたくないからか、それとも真剣に答える必要がないと思っているからか、エレズはシェリーを黙らせるかのように貪った。こういう行為がしたいのではない。ちゃんと話がしたいのだ。それを伝えようとしても、夫となった彼は会話よりも肉体の繋がりを優先した。


 大事にすると言ってくれたのに、その言葉はもうすでに、彼の中にはないらしい。結婚して二年目のその日、二十一歳になったシェリーは夫の仲裁による、状況の改善を諦めた――





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