第一章②
「バイク事故、ですか?」
「そうなんだよ。彼女は、まぁいわゆるレディース、女性だけの暴走族みたいなものの、取りまとめをやっていてね」
俺の質問に答えたのは、生徒指導を担当しているという高橋 昌也先生だ。先生が歩みを進める度、廊下にスリッパの足音が響く。
あの後俺たちは二階の職員室に移動し、編入のための諸々の手続きを済ませた。そして、盛大に謝られた。
四階から椅子を投げ落としたのは三年生の鈴木 百合子という生徒で、一年間の休学を経て、今日復学したのだという。
休学していた理由は、先ほど高橋先生から聞いた通り、バイク事故による入院。その際網膜剥離が発見され、その手術も受けたのだそうだ。
では何故かの鈴木さんの事情を、俺たちが高橋先生に廊下を移動しながら説明してもらっているのか、と言うと――
「はんっ! レディースだかなんだか知らないけど、私のさっちゃんに手ぇ出したんだから、一発焼きの一つでも入れてやらないと、こっちは気が済みませんよっ!」
とまぁこんな具合で、鈴木さんが今保健室にいると知った姉貴がどうしても一発、いや一目見たいと言って聞かなくなってしまったからだ。焼きがどうのというのは、姉貴の冗談に違いない。今はそう思わせておいてくれ。
興奮冷めやらぬといった感じの姉貴が、大股で俺と高橋先生の後ろをついてくる。自分の足を廊下に突き立てるような足音が、どう考えても授業中の教室に迷惑をかけている。
「その考えが既にレディースだよ、姉貴。後、もう少し静かに歩いたほうがいい。授業中なんだし」
「何? さっちゃんは、あの女の肩を持つっていうの?」
「そんな話はしてないだろ? もう少し静かに歩いてくれ、っていう俺からのお願い」
そのやり取りを聞いて、メガネの位置を直しながら、高橋先生が朗らかに笑う。
「お二人は、随分仲がよろしいんですね」
「ええ、そりゃあもう! 入院中も、ずっっっっっっっと一緒だったんですよ! そしてこれからも。ね? さっちゃん」
「入院中は確かにお世話になったよ。今後は姉貴に迷惑をかけないよう、早く自立して生きていくつもりです」
そう言いながら、俺たちは階段を降りていく。
今姉貴が話した通り、俺も入院生活を送っていた。だから、俺は気になっていた。
俺と同じように一年間休学し、復学と編入という差があるものの、十九歳で高校三年生を迎えることになる、彼女のことを。
やがて俺たちは、保健室という札がかけられた部屋の前までたどり着いた。
しかし、どうにもその部屋の中が妙に騒がしい。
『だから、触るなって言ってんだろうがっ!』
『こら! 大人しくしなさい!』
『ふざけんな! 誰がお前らみたいなバケモノの言うことなんか聞くか! 聞いてたまるかっ!』
『先生に向かって、バケモノとは何事だっ!』
バケモノ。
部屋の中からそう聞こえてきた単語に、俺の心臓は、まるで誰かに動いたのを悟られたくないとでも言うかのように、鈍く動いた。
そんな俺の隣で、高橋先生が扉を二回叩く。
「竹内先生。高橋です。失礼しますよ」
『はい。今開けま――』
『ばっきゃろー! これ以上バケモノを増やすんじゃねぇっ!』
『痛っ! ああ、まだ危ないですから、しばらく待っていてください!』
中は思ったよりも、混沌としているらしい。
困ったような顔をした高橋先生が、俺に視線を送ってくる。その視線の意味を、俺は正確に理解した。
わかってますよ。面倒事は懲り懲りなので、ここで引き返しましょう。
「どうもトラブってるみたいなので、今日はこの辺で引き上げ――」
早々に保健室から離れるために俺が話をまとめようとした所で、憤怒の表情をした姉貴が俺と扉の間に割って入ってきた。
「うちのさっちゃんに手を出した奴は、どいつだっ!」
「姉貴っ!」
止める間もなく、目の前の扉が勢い良く開かれる。
そこにいたのは、保健室で暴れるマスクをしたセーラー服姿の少女と、それを取り押さえようとする二人の男性職員。男性職員の内、一人は白衣を身に付けていることから、この人がこの学校の保健医なのだろう。
事情を知らなければ強姦現場か何かと勘違いしそうな場面だが、暴れているあの少女が鈴木さんで間違いなさそうだ。保健室で起こっている事象のあまりの異常さに、流石の姉貴も固まっている。
鈴木さんは苦悶の表情を浮かべ、学校指定のセーラー服を乱しながら、先生たちの手から懸命に逃れようとしていた。レディースと聞いていたのだが、セーラー服は改造した様子もなく、普通の学生にしか見えない。それっぽいところといえば、髪の毛を、これでもか、というぐらい金髪に染めていることぐらいだ。
両目に大粒の涙を浮かべ、捕まらないようにと悪戦苦闘する彼女が、こうつぶやいた。
「何で、バケモノばっかりになっちまったんだよぉ」
彼女の発した言葉の意味が、俺にはよくわからない。まぁわからないといえば、最初から彼女のことなど、俺には何一つ理解出来ていなかったのだが。
椅子を四階から突き落とすし。
周りの人間は、どうやら彼女には、バケモノに見えているらしい。
完全に、狂ってる。
この人とは、関わりあいになるべきじゃない。
そう思い一歩、保健室から遠ざかろうとした所で、マスク越しに彼女の口から、こんな慟哭が漏れだした。
「アタイはもう、この世界から弾かれて、独りぼっちになっちまったっていうのかよっ!」
「さっちゃん!」
気が付くと、姉貴の声が俺の背後から聞こえた。足元を見ると、俺は一歩、保健室の中へと進んでいる。
無意識だった。
彼女の言葉を聞いた瞬間、体が勝手に動いていた。
突然の乱入者に、誰もが動きを止めていた。保健室の中が、一瞬の静寂に包まれる。
顔を上げると、そこで彼女と、目があった。
潤んだ瞳が、驚愕で見開かれる。上気しているであろう頬は、マスクに隠れて見えない。それでも彼女の額から流れ落ちる汗が、いかに鈴木さんが、今まで一人で奮闘していたのかを物語っていた。
「……いた」
初めは、小さくてわからなかった。
「いた」
次は、彼女のマスクの下から、ちゃんと聞こえた。
「いた!」
彼女がそう叫んだ時には、既に走りだしていた。そう――
「人間、いたっ!」
俺に向かって。
「えええぇぇぇえええっ!」
「きゃぁぁぁああああっ!」
俺の混乱の絶叫と、姉貴の悲痛な悲鳴が保健室中にこだまする。
俺は混乱から抜け出す前に、鈴木さんに首を絞められ、力の限り揺さぶられた。
「おいおいいるじゃねぇか人間! 何処いってたんだよ! 寂しかったじゃ、バーカ! 寂しくなんかねーよっ! でもひどすぎるだろ! アタイ一人バケモノの中に置いていくとかドッキリでもひどすぎるだろ! おい、何とか言えよ! なぁ! おいってばっ!」
「く、苦、しい……」
その鈴木さんにいち早く反応したのは、姉貴だ。姉貴は俺を鈴木さんから引き離そうと、全力で俺の肩を揺さぶり始める。
「あんたちょっとあんたちょっとねぇあんたちょっと! 何私のさっちゃんに抱きついてんのよ! それは私のよ早く返して! いいから返して! さっちゃん返して! 早くしないと公務執行妨害で逮捕するわよさっちゃん返してっ!」
「それ、は職、権乱用、だ。姉貴……」
先に保健室にいた二人プラス高橋先生が協力して、俺の首が腱鞘炎になるんじゃないかと思うほどの揺さぶりは、ようやく止まった。