冗談じゃない!
紗央莉さんは良い女。
「...まだやってる」
隣の部屋から聞こえる女の嬌声。
私が帰宅した1時間前からずっとだ。
確かアイツらが外回りと称して会社を出たのは昼三時だった。
それから隣の部屋に直行したのなら、もう3時間近くセックスをしている計算。
そんなに相性が良いのなら、結婚すればいい。
他人を巻き込むのは、本当に勘弁だ。
『これは...』
『どうして...今日はまだ出張だって...』
『いや今日帰るって...メールを見てなかったのか?』
「...始まったわね」
隣の部屋からやっと彼の声が聞こえる。
このマンションは会社が所有する物件の一つで、1LDKの単身者用。
古い建物をリフォームするのが、私の勤める会社の本業。
社員に貸すからといって、手を抜きすぎじゃない?
ここまで鮮明な声が聞こえるなんて不思議ね...
『ん?誰か来たのか』
『...課長』
ここで立花課長の登場、予想通りの展開。
安普請のマンションは壁が非常に薄く、普段からテレビの音声まで筒抜けだ。
にしても、ここまで聞こえるなんて、本当不思議...
『...神嶋、何故お前が?し...出張はどうした』
『先方がキャンセルを、社内メールで連絡をしましたが』
確かに神嶋政志は社内メールを午後5時に送って来た。
その事は課の人間、全員知っている。
隣の部屋でサカッていた二人を除いてだけど。
『...そんな』
『とにかく出て行って貰えますか?』
『あ...ああ分かった...この事は』
『当然報告しますよ、もうすぐ結納だったのにね』
どうして当たり前の事を聞くのだろう?
婚約前に相手が自分の部屋で上司とセックスしていた。
不問にすると思う?
いや、馬鹿だから思うかな?
『まさか...政志さん...結婚式は』
『キャンセルだよ、当たり前だろ』
『イヤアアア!』
『そんな事は許さんぞ!!』
『許す、許さないはこっちが決める事です』
(ちょっと政志...煽り過ぎだよ)
激しい物音が聞こえる。
これは不味い、追い詰められた奴が何をしでかすか、常識なんか通じないよ。
「早く逃げるぞ!」
「止めて!政志さんが...」
「何をしているんですか?」
慌てて隣の部屋に向かい、鍵の掛かっていない玄関の扉を開ける。
あくまで私は物音に飛んで来た隣人なのだ。
だけど、携帯のカメラ動画を起動させるのも忘れない。
「...井伊君」
「紗央莉さん...」
「どうして神嶋さんの部屋に課長と山西さんが?
それに二人共、なぜ裸なんです?」
バッチリ間抜けな二人の姿を、しっかりカメラで撮影した。
「キャアアアア!」
しゃがみながら耳をつんざく山西弥生の悲鳴、うるさい。
「それを寄越せ!」
課長は私の携帯を奪おうと躍り掛かる。
勘弁して欲しい、汚いモノが写ってしまったじゃないか。
「離して!」
一応は抵抗しよう。
そろそろ政志さんが...
「あれ?」
様子がおかしい。
こんなに騒いでいるのに、政志さんが一向に現れないなんて。
「離しなさい!」
中学時代から続けている合気道で課長の腕を捻上げる。
気持ちが悪い、脂ぎった中年のヌメヌメした汗が私に掛かってしまったじゃないか...
いや、そんな事より。
「政...神嶋さん!」
課長を投げ飛ばし、急いで奥の部屋に向かう。
嫌な予感がする、まさか刺されたりなんか...
「そんな...」
頭から血を流し、倒れている政志さんの姿。
呻き声を上げる、出血が激しい。
「畜生!」
「亮二さん待って!!」
馬鹿共が服をひったくり、部屋を出て行く。
こっちは、それどころじゃない。
洗面所に向かい、綺麗なタオルで政志さんの傷口を押さえながら警察と救急車を呼んだ。
政志さんの意識が戻ったのは翌日の朝だった。
昨日から警察からの事情聴取と会社への報告で大変だった。
私は常務と一緒に政志さんの見舞いを申し出た。
「災難だったね神嶋君」
「...常...務、紗央...井伊さんも」
個室のベッドで政志さんは寝ていた。
頭に巻かれた包帯とネットが痛々しい。
「まだ安静にしたまえ」
「は...はい課長は?」
「まだだ、自宅にも帰ってないそうだよ」
「...そうですか」
立花亮二と山西弥生は部屋から逃げ出した。
弥生はマンション前で身柄を確保された。
裸では逃げられなかったのだろう、項垂れながら毛布を被り、警察に連行されたそうだ。
立花は現在も逃走中。
早く出頭すれば良いものを、部下の女に手を出し、逆上の末に怪我を負わせたんだ、もう社会的に終わり。
「物音に気づいた井伊君が、部屋で倒れる君を見つけてくれたんだよ」
「そ...う...でしたか」
私は政志さんの視線に頷く。
あくまで偶然の出来事よ...
「先ずは身体を治しなさい、立花の事は警察に任せるんだ」
「...はい」
「それじゃ」
「ありがとう...ございました」
「お元気で」
長くは面会出来ない。
私達は急いで病室を後にした。
「...まさか立花課長が」
「自分の愛人を、神嶋君に押し付けるとはな」
会社に戻るタクシーの車内、私の呟きに常務が吐き捨てる。
政志さんと弥生の結婚式で仲人を務める予定だったから常務の顔まで潰した事になる。
「...そうだったんですか」
根掘り葉掘り聞いてはいけない。
あくまで、会社の噂に留めるべきなのだ。
例え、それを全部知っていたとしても...
「立花の奴が捕まったってよ」
「聞いたわ、手持ちの金をホステスに持ち逃げされたって」
立花が捕まったのはそれから一週間後の事だった。
一体どこから聞き付けるのか、社内はその話題で持ちきりになった。
「しかし、他にも愛人を囲っていたなんて」
「弥生も馬鹿よね、新入社員の頃から騙されてさ」
「なんでも立花が初めての相手だったって」
「マジかよ、あんな大人しそうだったのに」
下らないが、みんなにとって格好のネタ。
私も軽く相槌を打ちながら、聞き流した。
「でも立花が黒幕とはいえ、なんで神嶋は山西を抱いたんだ?」
「それがさ、社員旅行で酔い潰れた神嶋さんを、立花がベッドに運んで、裸の弥生を...」
「「「最低!!」」
「...彼は抱いてない」
「井伊さん?」
思わず反応してしまう。
私が社内でこういう話に参加する事は少ないから注目を集めてしまった。
「課長も弥生も最低よね、紗央莉も思うでしょ?」
「ええ」
私が怒りの矛先に向けているのは立花や弥生だけでは無い。
迂闊にも酔い潰れてしまった政志にもだ。
ここ一年前から、弥生は政志に色目を使って危ないと思っていた。
でも立花と弥生の不倫関係にまでは気づかなかった。
「結婚は無しかな?」
「当たり前でしょ、お腹の子も立花が父親だって弥生は認めたそうよ」
「托卵するつもりだったか、女は怖いな」
「「「一緒にするな!」」」
馬鹿を言った同僚が女性社達から顰蹙を買っている。
稚拙な手だが、政志は窮地に陥った。
記憶に無くとも、一夜の過ちと言われたら頭が真っ白になるだろう。
取引先である弥生の実家が会社に怒鳴り込んで来たから余計だ。
「堕ろすしかないわね」
「当然だな、山西は名家の箱入り娘だから」
「神嶋さんに慰謝料を支払ったって」
「神嶋、金持ちじゃん!今度奢ってもらお」
「アンタ、神嶋さんと同じ目に遇いたいの?」
「...井伊さん」
我慢出来ない、一言を言い残し、私は会話の輪から離れた。
「ただいま戻りました、ご迷惑をお掛けしまして、申し訳ございませんでした」
事件から1ヶ月後、ようやく政志は会社に戻って来た。
朝礼の後、政志はみんなに頭を下げる。
「馬鹿な事を言うな」
「神嶋は何も悪くないじゃないか」
「仕事は心配するな、ちゃんとフォローしたから」
口々に励ます同僚達。
なんて白々しい、弥生が妊娠したと聞いた時、何人の人間が政志さんの潔白を信じた?
みんな疑いの目を向けたのを忘れたの?
「おかえりなさい、神嶋さん」
「井伊さん、面倒掛けたね」
「いえ、無事で良かったです」
最後に私が政志さんへ声を掛ける。
淡々と、感情を出しては駄目だ。
「ありがとう、命の恩人だよ」
「お...大袈裟です」
こら政志!顔が緩むじゃないか!!
なんとかやり過ごして、朝礼は終わった。
「弥生ったら、最後に神嶋さんに謝りたいって」
「はあ?」
数日後の昼休み、ランチの最中に同僚の一人が言った。
彼女は弥生と仲が良かったけど、そんな事恥ずかしげもなく言うか?
「こんな関係をしてたら駄目だ、本当は政志さんと幸せになりたかったって」
「バッカじゃない?」
「何を今更よね、信じられない。
もう連絡して来ないでって、着信拒否にしたわ」
政志をなんだと想っているのか、余りに馬鹿馬鹿しい弥生の妄言、私は怒声を懸命に堪えた。
その後、立花の噂も聞こえてきた。
上司の顔に泥を塗った立花、養育費を払わせる為、クビは免れたが僻地の支店に降格の上、左遷が決まった。
奥さんからも離婚を言い渡され、慰謝料と養育費で身ぐるみを剥がされた。
その上、性病に罹患している事が分かり、かなり手遅れの状態に近かったそうだ。
弥生は...まあ自業自得だ。
二人には長い入院と通院が待っている。
弥生は媚薬の成分も見つかり、胎児は処置を行う前に流れた。
「さてと」
仕事が終わり、自宅マンションに帰る。
冷蔵庫から出した冷えたビールを開け、つまみを食べると今日も1日が終わったと実感する。
「お疲れ様」
「ええ、お疲れ」
ビール缶を合わせる、相手はもちろん...
「本当紗央莉には迷惑をかけたな」
「全くよ、怪我するなんて」
「参ったよ、やっと酒が解禁だ」
政志は病院からようやく飲酒OKの許しが出た。
「でも足元に使用済みの避妊具なんて、落ちてると思わないぞ?」
「確かにね」
あの時、政志は立花の突進を受け止めようとした。
高校時代ラグビー部だった政志、ポッコリお腹の立花くらいなら大丈夫と思ったのか。
「向こうが馬鹿で自滅したから良かったけど、本当に気をつけてね」
「...反省してます」
政志は小さくなる。
可哀想だから、これ以上は止めよう。
「社内メールも助かったよ」
「送ったとしても、二人が見たか怪しいものね」
課の連絡メールは私が管理している。
政志が1日早く帰って来たのを二人には知らせなかった。
「まさか俺の部屋をヤリ部屋にするなんて」
「最初はビックリしたわよ、出張で誰も居ない政志の部屋から喘ぎ声が聞こえて来たんだから」
「俺も聞いた時は驚いたよ」
それは今回の事件が起こる1ヶ月前だった。
政志の部屋からの喘ぎ声に一晩中寝られなかった。
翌朝、覗き窓から出ていく立花と弥生の姿に唖然としたのだ。
私と政志は交際している。
付き合って三年、私が彼の隣に引っ越してからの付き合い。
だから政志が弥生に手を出したなんて信じられなかったのだ。
「もう引っ越そうかな」
「え?」
突然何を?
「だって、アイツらがヤリ部屋に使ったんだぜ?
気持ち悪くって」
「確かにね」
それは間違いない。
私と政志が初めて結ばれた部屋をアイツらは...
「壁も薄いし」
「本当、筒抜けだったわ」
「紗央莉が防音材を抜いたからだろ?」
「知ってたの?」
会社には悪いが、壁の防音材を全部取っ払った。
バレないように、知り合いの内装業者へ内緒で頼んで偽装も完璧だったのに。
「そりゃ気づくさ、紗央莉の部屋の音が丸聞こえだし」
「あ」
そこに気づかなかった...
考えてみたら当然の事なのに。
「一緒に住まないか?」
「それって...」
「もう秘密は止めようぜ、俺には紗央莉が必要だ」
「うん」
まさかのプロポーズ。こんなタイミングなんて...
「ありがとう...」
「幸せにするよ」
こうして私は政志さんと結婚を決めた。
私と政志さんが交際していたのは秘密だったので、会社側は驚いていたが、アッサリと私達の結婚を認めた。
今回の騒動で体面を気にしたのと、私達の離職を恐れたのだろう。
部屋は結局引っ越さなかった。
会社が私と政志さんの部屋を引っ付け、一戸にリフォームをしてくれたのだ。
「新たな顧客を発掘する試みだよ」
常務の好意に甘える事にした。
「現状回復費助かったな」
「本当ね」
終わりよければ全て良し。
一連の騒動にそう思った。
亮二は亮二。