第二話
ジージーと喧しい蝉の声が響く。開け放たれた襖から差し込む眩しい日差しを浴びて天は目を覚ました。
寝ていた体を起こして辺りを見渡す。どうやらここは自分の家の居間で、眠っていたらしい天には薄いタオルがかけられていた。
昨日、不審な女に殴られた頬には新しい湿布が貼られている。どうしてここで寝ているんだっけ。寝起きで冴えない頭のまま天は考える。
ボーッとした天の頭に畳み掛けるように蝉達の大合唱が響く。
そうだ。天は思い出す。おばあちゃんのお葬式をしたんだ。徐々に昨日の出来事を思い出すうちに天の心に悲しみが募っていく。おばあちゃんが亡くなって、お葬式をして、それから、遺言。
天は思い出し立ちあがる。神様がいるという開かずの蔵の先で天は美しい大男に出会った。大男は、開かずの蔵から天を外に出すために天と契約をして蔵を破壊した。ところまでは天は覚えている、のだが。
それから何があったのか、どうして自分はここで寝ることになったのか。全く覚えていない。
「確か、ガク。」
天は思い出すように小さく例の大男の名を呟く。
兎に角昨日の大男、ガクに会わなければ話ははじまらない。しかし、天にガクの居場所はわからない。とりあえず、と天ははじめてガクに会った蔵へとまた向かうため中庭に出る。
そこで異様な匂いに気がついた。異様な匂いと言ってもそれは何かが腐っているとか燃えているとか生命の危機を感じるような匂いではない。
むしろその逆だ。それは暖かな朝食の香り。白米の炊ける匂い。焼けた鮭の匂い。出汁と味噌が混ざり溶ける匂い。千代が亡くなったこの家には、もう天以外に朝食をつくる人間は居ない。
もしかして、と中庭に身を乗り出しかけていた天は台所の方へと駆け出す。
台所には天の予想通り、全身黒ずくめの長身の男がいた。だが、男は天井に届くほどの大男というよりかは長身だが人間サイズだった。
男はこちらに背を向けてトントンと一定のリズムでまな板の上の野菜を手際よく調理しているようだ。
「ん?あぁ、目が覚めたのか。」
気配によって天に気づいたのか男が振り返る。
光を反射する煌びやかな金髪に顔を覆う黒い面布、ではなくサングラスをかけた男。背丈や角等、昨晩の姿とは些か違うようだが、確かにガクで間違いはない。
怪訝そうな表情で天は恐る恐る問う。何をしているの?ガクはまるで面白い冗談を聞いたかのように天へと微笑んだ。
「朝食をつくってるんだ。食べるだろ?」
天の眼前。ちゃぶ台の上にまだ湯気を立てる暖かな料理が並べられていく。量を疑問に思った天が一人分?と問えば、あぁオレには必要ないからと返事が返る。
召し上がれ、と言われ天は恐る恐る焼き鮭に箸をつける。口に含めば程よい塩味と焼き加減に美味しい!と目を輝かせ顔をあげた。サングラスの奥で優しく微笑むガクの瞳と目が合う。
やっと笑ったな。ガクの何気ない言葉に天は千代が亡くなってから自身がずっと気を張っていたことに気がついた。静かに肩の力を抜き、深呼吸をする。
そんな天の様子をガクは愛おしそうに見つめていた。
「貴方のこと、色々知りたいの。」
天はガクにずっと気になっていたことを問いかける。ガクは突然バツが悪そうに口篭り天から目線を逸らす。
食べながらでいいか…話をしよう。視線を逸らしたままのガクの言葉に天は頷き、また焼き鮭を口に運ぶ。
マガツヒモノは知っているか?ユダのことは?ガクの言葉にどちらも知らない天は首を横に振る。ガクはその様子を見て静かに話し始めた。
「マガツヒモノって言うのは不死身の妖物の名前だ。河童とか雪女とかいるだろ?それと同じでマガツヒモノ。」
天は美味しそうな香りと湯気を上げている味噌汁をふーふーと息を吹きかけて冷ましながら頷く。ガクはそれを見てまた口を開く。
「それで、ユダって言うのはマガツヒモノと契約した人間のことを言う。天もユダだ。」
私も?昨晩の事を思い出しながら天はガクに聞き返す。確かに昨晩天はユダとしてガクに命令をした。あの時は天が頭で考える前に口から言葉が出ていた。
その結果、ガクによって蔵の扉が破壊されて無事二人ここにいる。のだが、そういえば天は扉が破壊されてから家で目覚めるまでの記憶が無かったことを思い出す。
ねぇ、ガク。昨日のことを問おうと天がガクを改めて見るとガクはサングラス越しでもわかるほどに、怒られることを悟った犬のような悲しげな表情をしていた。
天がその事に驚き慌ててどうしたの、と問えば昨日のことだろう?とガクが静かに語り出す。
「これは昨日、蔵の扉を壊したあとの話になるんだが。」
蔵全体が大きく揺れただろ?その時に蔵の荷物がいくつか床に落ちたらしくてな。
ガクが数回連続で瞬きをする。そのひとつが天の頭に当たって。段々と小さくなる声に天は段々昨晩のことを思い出す。
そうだ、確かに蔵が揺れて近くの柱に捕まって、捕まって、上から、箱が。つまり私は頭をぶつけて気を失ってたの?天の言葉にガクはあぁと小さく肯定する。
天は思わず垂れた犬の耳が錯覚するほど凹んだ様子のガクに文句言うことも出来ず、とりあえずため息をつく。
「そう、いいよ。私は元気だもの。」
味噌汁を飲み干して天は答える。その言葉で花が咲いたように明るい表情になったガクへ、つい笑いを堪えながら天は次の問いを考える。
まだまだ天はガクについて知りたいことが沢山ある。と、そこへピンポーンと軽快なチャイムの音が鳴り響いた。天が時計に視線をやれば時間はまだ朝の七時半だ。こんな時間に?と思いながら天が立ち上がる。
もう一度、ピンポーンとチャイムの音が鳴った。
「はぁい!」
天が玄関に辿り着くまでに三度チャイムの音が繰り返された。しつこい来客に少し嫌な気分になりながらも、天は玄関の引戸に手をかける。どちら様ですか?そう口に出そうとした天はその言葉を飲み込むことになる。
ガクが片手で背後から天の口を塞いだからだ。ガクの天の口を塞いでいない方の手は引戸が開かないようにしっかりと抑えている。ピンポーンとまたチャイムの音が家中に響いた。
「何者だ。人ではないな。」
ガクが引戸の外へ威嚇するような低い声で問う。
その言葉の直後ガタガタと引戸が揺れる。天の喉から小さく悲鳴が漏れるが、その声をかき消すようにピンポンピンポンとチャイムの音が続けて鳴り響く。
引戸の揺れる音が激しくなる。チャイムの音が絶えず鳴り響く。引戸の奥から天の知らない言葉が聞こえる。理解できそうで理解できない言葉で何かをまくし立てられるが、天はその声に聞き覚えがあった。
「ねぇ、ガク!」
この声、おばあちゃんの声!天がガクの拘束を振り切りそう叫ぶと引戸は急に静かになる。チャイムの音も止んだ。
そうして、引戸の外から声がする。あまねちゃん。開けて。お外は怖いの。お願い。あまねちゃん。繰り返されたそれは間違いなく千代の声だった。十六年間千代に育てられてきた天が聞き間違えるはずなどない。
天は咄嗟に引戸を開けようと手をかける。しかし引戸はガクが抑えているため開かない。天はガクに叫んだ。
「はなして!ガク!近づかないで!」
ダメだ、天!弾かれたように引戸から手を離し、数歩後ろに下がったガクが狼狽え叫ぶ。
「違うんだ!天!」
開け放たれた引戸の先には一つの人影が立っている。
いいや、それは人影とは言えない。開け放たれた扉を埋め尽くす三メートルほどに見える赤黒く青黒い肉の塊だ。
肉塊はうごうごと蠢いており、丁度天の顔の高さは肉塊の腹にあたるだろうか。その腹には苦悩に充ち、埋め込まれたかのような千代の顔が浮かび上がっている。
衝撃的な光景に喉の奥から微かに悲鳴をあげた天が後退る。その間も肉塊の千代はあまねちゃんありがとうあまねちゃんと繰り返し虚ろに呟いていた。
天は、あまりにもその化け物の異形さに腰が抜けてしまったのかその場へ尻もちをつく。
肉塊から伸びた触手が天に伸びた。肉塊がぶちゅりと音を立てて家の中に入ろうと引戸全体を押し始める。ぎちぎち、がたがた、と家が悲鳴をあげている。
「くそっ、入るな!ここはオレの家だ!」
ガクが天の後方から叫ぶ。しかし肉塊は止まらない。
伸びてきた触手に足首を掴まれた天が声にならない悲鳴をあげる。肉塊の千代は相変わらず、あまねちゃんあまねちゃんとうわ言のように繰り返す。
一緒になろう?その言葉が聞こえた時、天は大きく嫌!と叫んだ。
次の瞬間。目の名前の肉塊が大きく一刀両断される。ガクではない。
肉塊から青黒い液体が吹き出る。切り口から途端に萎び消えはじめた肉塊の奥に立つ、人影が見えた。
その人影は、白いスーツに身を包んだ黒髪の男だ。その表情はまるで面のように無表情で、手には刃が黄金に輝く巨大な薙刀が握られていた。
腰が抜けた天が立ち上がれないでいると男は天に手を差し出す。
「はじめまして。御中です。」
今のが逃げたのは俺のミスでね。君に怪我がなさそうでよかったよ。
天を立ち上がらせると御中と名乗った男は天の背後にいるガクを見る。墨汁を垂らしたかのように黒く底がしれない瞳を細めガクを見る。
あぁ、だから狙われたのか。御中の言葉にまだ恐怖で肩が震えている天が顔を上げる。アレはなんなんですか!?天の震え叫ぶ。
「…知らないの?」
天はわかりませんと頷く。御中は少し考える素振りをすると内緒話をするように天に顔を寄せる。うちに来るといい。色々教えてあげるよ。
恐怖は無知から来るのだから。囁かれた御中の言葉に天はつい頷こうとした。だが、それをダメだ!とガクが遮った。
御中の顔が天から離れ、じっとガクを見る。御中が再び口を開こうとした時、遠くから隊長!と誰かが恐らく御中を呼ぶ声が聞こえる。御中はその声で振り返った。
「呼ばれたみたいだ。それじゃあ、月見さん。」
表札を読んだのか、御中が振り返り際に天の名前を呼ぶ。御中は引戸を閉めて去っていく。
御中が去り、やっと落ち着いた呼吸を取り戻した天がどうしてダメなの?と怪訝そうにガクに振り向く。
ガクはというと床に跪き、酷く青ざめていた。その異様な光景に天が慌てて近づく。
先程の肉塊がそんなに恐ろしかったのだろうか。それとも御中が?そんなことを考えながら天がガクに触れようとする。
するとガクは凄まじい勢いで後ろに下がった。ガク?天が首を傾げればガクが呻くような声で言う。
「撤回してくれ、命令を。近づいても良いと、触れても良いと。」
天はガクの言葉の意味がわからないまま、撤回するわ?と口に出す。
瞬間、ガクが天を強く抱きしめた。ガク!?どうしたの!突然の事で天が驚いて声を上げる。天が、なんとかガクの顔を見上げればその顔は強い安堵の表情をしていた。
「よかった、天。無事で、本当によかった。」
肩で息をするほど必死なガクに天は訳がわからないまま、ごめんと謝る。
もう二度とオレを拒絶しないでくれ、オレに天を守らせてくれ。震えた声でガクが続ける。ねぇガク。天が幼い子供を安心させるかのようにガクを抱きしめ返す。
「私にちゃんと話して欲しいの。私、ガクのことが知りたい。」
居間に戻ったガクと天は二人、膝を突合せて話し出す。ガクが語ったのはマガツヒモノとユダの関係性。そして先程の御中と肉塊のことだった。
ガク曰くマガツヒモノとは自身の妖物としての素顔を見た人間と契約する妖物だと言う。
マガツヒモノは自身のユダの命令には絶対服従。命令に従えばその分マガツヒモノの力は強大なものになり、破ればそれなりのペナルティがある。
先程ガクが天を守れなかったのも天が近づかないで!とガクに命令したかららしい。
そして御中とあの肉塊のこと。肉塊の正体はまだ人の形を模倣できない、弱いマガツヒモノだと言う。妖物である彼等は元々人の形をしていた訳では無いとガクは語る。
マガツヒモノは人あるいは同族を喰い、段々と人の形を模倣する。そうして力を得たマガツヒモノは人を誑かしユダを得る。
「あの御中とかいう男は。」
教会。あるいはアポストル。正式には対マガツヒモノ犯罪対策組織。
人を喰らうマガツヒモノを悪とし、自身等もまたユダの身でありながらマガツヒモノを断罪する組織。時には何も知らないユダをも利用する極悪非道な人間達の組織。
「…ちょっと待って?」
天が口を挟む。なんだ?と次の質問がわかっていると言いたげな顔でガクが天を見る。
「同族を断罪するなんて、アポストルのマガツヒモノがいい顔しないんじゃないの?」
ガクは首を横に振る。そうとは限らない。
奴等はマガツヒモノを縛るんだ。命令で、思考をさせない。知恵を奪う。人の形を保てない奴も出てくる。
もしかしたら、さっきの奴もそうだったのかもしれない。サングラスの奥でガクの瞳が嫌悪に歪む。これも伝えておいた方がいいか。そういいガクは天に向き直る。
「契約するまで、マガツヒモノの存在を知らなかったユダのことをエクセプションと呼ぶ。そして反対にマガツヒモノを知り、自由意志を奪うユダはバイオレイターと呼ばれる。」
奴等はマガツヒモノを捕らえ脳を犯す。ガクの表情が更に険しくなる。どうやら思い出したくない昔話らしい。
アポストルの奴等はほとんどがバイオレイターだ。ガクの声に怒りが満ちた。恐らく御中もそうだろう。
あの場ではマガツヒモノを連れていなかったがあの男は信用ならない。
ガクの感情的な言葉に少なからず、御中に助けてもらったという恩を感じていた天はショックを受けながらも数回頷いた。そうしてふとした疑問で口を開く。
「そういえばガクってオオマガツヒモノって言わなかった?マガツヒモノと何か違うの?」
あぁ、オオマガツヒモノは普通のマガツヒモノよりデカいんだ。
天の質問にガクがすんなりと答える。その様子は、さっきまで怒っていたことなど忘れたように穏やかだ。それだけ?と天が聞き返せばそれだけだと頷く。
確かに初めてガクと会った時。ガクは蔵の天井に背が届くほど大きく、角も生えていた。あの姿にはもうならないの?天の視線がガクに注がれる。
今のガクは角もなければ天井に届くほど巨大でもない。天の視線に居心地が悪そうにしながらもならないとガクが即答する。
「最大で十尺ぐらいなんだが、必要ないからな。」
十尺。約三メートルだ。そんなにあったのと天が内心驚く。
天が昨晩のガクの大きさをもう一度思い出していれば、知りたいことはもうないか?とガクが確認した。天はあともう一つと意識をガクへと戻す。
「ガクはどうして蔵にいたの?ガクの力なら出れたでしょ?」
その事か。ガクはバツが悪そうに頭を搔く。どうやら困った時の癖らしい。暫く黙って、やがて俯き腕を組んでウンウンと何かを悩んでいたガクが頭をあげる。
千代の頼みだったんだ。おばあちゃんの?天が首を傾げる。
「千代の病の症状が進めば、千代はきっとオレを忘れてしまう。オレに酷いことを言いたくないとオレを蔵の中に封印したんだ。」
それって、天が口を開くまでにガクが遮った。勿論千代はオレとの契約破棄も考えた。でもオレが嫌がったんだ。
慌てて告げられた言葉に、天は言いかけていた言葉を飲み込む。
「ユダのいないマガツヒモノは孤独だ。それならいっそ、あの蔵から出たくなかった。あの蔵が封印され、内側から開かないのはオレの意思だった。」
天の命令がなければ、蔵は壊せなかった。だからオレは出なかった。
ガクが目を伏せる。その顔を見て、あと一つと言ったはずの天が好奇心を抑えきれず続けてガクに問う。
ガクはなんでサングラスしてるの?まさか、話の流れを大きく替えていきなり突っ込まれると思わなかったのか。ガクの肩が動揺で揺れる。
「なっ、変か?人の姿でいる時は素顔を見られても即契約。なんてことにはならないんだが、やっぱり落ち着かなくてな。」
モゴモゴと言葉を選ぶガクに変じゃないと天は首を横に振る。
折角綺麗な顔だから、勿体無いと思ってという言葉は飲み込んだ。ガクはと言うと天の返答を聞くと安心したように微笑んだ。
しかし、すぐに厳しい顔になる。今度はオレが質問してもいいか?突然変わった雰囲気に天は息を飲みながらも頷いた。
何を聞かれるんだろう。やっぱり親のことだろうか。それともこれからのこと?天の思考が動き回る。
ふと天の頬にガクの手が添えられた。天の思考が現実に引き戻される。頬に貼り付いた湿布とガクの手の平がかすかに擦れる音がする。
「これは誰にやられた。」
そう問うガクの表情は先程バイオレイターの話をしていた時と同じぐらい鋭い。内心怖いと思いつつ天は答える。
千代の葬式に来た男女に殴られたと。そういえば男の方はガクのいた蔵の場所を聞いてきた。何かを…きっとガクを探していたらしいことを天が伝える。
「…きっとそいつらもアポストルの連中だ。次に会えば容赦はしない。」
サングラスの奥でガクの瞳がギラリと輝く。ガクの手が天の頬から静かに離れる。
ガクが立ち上がった。まさか今から殴り込みにでも行くつもりか。天は慌てる。何処に行くの!と早口で問えばガクはキョトンとした顔で天を見る。
「ん?部屋の掃除だぞ?」
今の流れでどうしてそうなるの!安心したやら呆れたやらで天が叫んだ。
ユダ、月見天。オオマガツヒモノ、ガク。これから二人が、この惑星で最も大いなるものと戦うことになるのは、まだ誰も知らない。
今後来たる。未知との邂逅は、たった一人の少女の運命を狂わせていく。
そして、これはたったの数時間後のことになるが、ガクによって洗われた洗濯物の中に自身の下着が混ざっていることを知り、年頃の乙女である天が顔を真っ赤にしてガクを叱る声が家中に響いていた。