第一話
曇天が晴れたので。ずっと降っていた雨が止んだので。眩しいくらいの晴天にあぁ悪いことが起きるなと思った。愛しい契約者との別れが来ると悟った。確かにその通りになった。
太陽が照りつける雨季の終わり。連日続いていた大雨がパタリと止んだ。太陽が燦々とその輝きを見せた頃、一人の老婆が亡くなった。拝み屋、月見千代。彼女は、かつて有能な拝み屋として地域の人々に愛された心優しき女性。しかし数年前に最愛の夫が亡くなり、認知症を患ってからは千代は家業である拝み屋を畳んで大切な孫娘と二人で暮らしていた。そんな千代が梅雨明けと共に夏を告げる沢山の蝉の声に囲まれて亡くなった。
代々続く拝み屋月見の広い広い日本家屋。その一室、線香の煙が漂う部屋。中央の布団に寝かされているのは、まるで無邪気な少女が寝ているかのような安らかな顔して亡くなった千代。
「約束したのに。」
千代の顔をしっかりと覗き込み、一人の娘が呟く。彼女は千代の孫娘、月見天。千代が亡くなり、天涯孤独となった少女だ。目は泣き腫らして赤くなり、今だ瞳に涙を貯めている彼女は生前の千代ととある約束をしていた。梅雨が開けたら大輪の向日葵を見に行こう。向日葵は花が大好きな千代の為に天がずっと内緒で育てていたものだった。しかし、当然のように死者との約束はもう果たせない。
「月見さん。」
溢れそうな涙を必死に堪え、ただ千代の死に顔を眺める天に突然背後から声がかかる。天が急いで服の裾で涙を拭い振り返ると、背後には真夏日だと言うのに黒いスーツをしっかりと着込み、汗一つ流さない葬儀屋が立っていた。準備が出来ました。葬儀屋の言葉に天は頷くと名残惜しそうに眠る千代から離れた。
天には親がいない。物心つく前から祖父母に育てられていた天は今やもう天涯孤独の身だ。千代の葬儀が終わればここに月見の物はなくなる。天が産まれ育ち、千代の所有物であったこの広い屋敷も相続のためと集まった遠い親戚を名乗る者達が根こそぎ持っていく。天も千代の忘れ形見として何処かへと引き取られるか。どの道、月見が長年生きてきたこの地には何も残らない。まだ齢十六の少女である天には、はじめから選択肢すら与えられなかった。今の天に出来ることはただ厳かに始まった葬儀で千代の遺産目当てに訪れた参列者達を呆然と眺めているのみだ。
千代の葬儀は不気味なくらい穏やかに穏便に予定通り終わる。葬儀屋の腕がいいのか、参列者が誰も千代の死に興味がなかったのか、天にはわからない。天抜きで遺産相続を話し合う参列者達がやけに楽しそうに笑うのを天は部屋の隅でじっと睨んでいる。
「君、月見さんのお孫さんだろ?」
突然上等そうなスーツに身を包んだ男が天に声をかけた。男はにこやかな笑みをしているが、その顔の左側には大きな刺青が彫られており異様な雰囲気を漂わせている。男の側にはまるでボディーガードのように長身の女が立っている。彼等も勿論千代の葬儀の参列者だろうが、天には見覚えがない二人組だ。女性は一言も発することがなく、胡散臭い笑顔を浮かべ男だけが天に話しか続けた。
「少し知りたいことがあるんだ。」
月見千代さんの蔵は何処にある?突然の問いに天は驚くが一つ心当たりがあった。
月見さんの蔵、即ち祖母の蔵。それは月見の屋敷、その裏に茂る林の先にある。天と千代しか知らない秘密の場所だ。天の祖父で千代の夫、月見猛が亡くなった後、千代が認知症になる前に閉めたっきり誰も開いていない開かずの蔵。
きっと、そこには拝み屋であった千代の使っていた歴史的にも金銭的にも価値のあるものが沢山眠っている。すぐにそれが目的かと悟った天は男を鋭い目で睨み、知りません!と言い放つ。天自身が幼かったこともあり、詳しくは覚えていないのだが蔵にあるのは千代にとって大切な品々だったはず。千代の大切な物は天にとっても大切な物だ。ただでさえ家中の価値のあるものは根こそぎ遺産相続の為にほじくり返されてしまったというのに、赤の他人に大切な蔵の中まで相続だなんだと踏み荒らされるのは決して気分がいいことではない。結局は何も残らないのだから、例えこれが今だけの抵抗だとしても、天は今だけは千代の大切な蔵を荒らしたくはなかった。
「そんなはずはないよ。」
蔵の在処を隠し、男の前から去ろうとした天の肩を男が突然強く掴む。反射的に天が痛い!と叫ぶがその手は余計に天を強く握った。天は必死に抵抗するが、悲しいかな十六歳の少女と大人の男の力ではあまりにも力の差がありすぎて振り払うことが出来ない。周りを見渡して天が助けを求めても他の参列者達は皆バツが悪そうに顔を背けて知らん顔をした。天の顔が痛みよりも先に怒りで真っ赤に染る。
「アレは君では持て余す。いいから我々に差し出せ。」
男の身勝手な言葉についに怒りを抑えきれなくなった天が反射的に男の頬を平手打ちする。流石に男も驚いたのか一瞬天を離したがすぐに小声で何かを呟いた。すると、男を叩いた天の顔を今度は、先程からずっと男の隣にいた女が殴った。
あまりの衝撃に天が地に伏せる。これには静観を決め込んでいた参列者達も息を飲むが、誰一人として天を助けようと動くことは無かった。天の白い頬にじわじわと青アザが浮かび、涙を滲ませた瞳で女を睨むが女は更に天を殴ろうというのか、倒れた天に馬乗りになる。後ろにいる男にそれを静止する様子はなく、むしろこれはこの男が女に命令をしてやらせているようだった。
天はこれから訪れるであろう痛みに備えてぎゅっと目を瞑る。
「何をしているんです!」
刹那、三人に怒号が響く。天が驚いて目を開けば天に馬乗りになっていた女は突き飛ばされ、天の目の前には天を庇うように細身の青年が立っている。
天はその救世主に勿論見覚えがある。彼は千代が亡くなってから悲しみに暮れ、何も分からない天につきっきりで葬儀の面倒を見てくれた葬儀屋だ。朝に葬儀の準備が出来たと天に声をかけてくれたのもこの葬儀屋の彼だった。
「この子は故人の大切なお孫さんです。手出しするなら許しませんよ。」
葬儀屋の凛とした声が響く。女は男の指示を待っているのか黙って男を見ている。男は少したじろいだようだが、まるで物語の悪人のような台詞を吐いて踵を返す。
「今日のところはお暇しよう。だけど、アレは必ず我々に渡してもらう。」
男が立ち去れば女も男を追いかけて部屋を立ち去る。部屋の中には先程とはうってかわり静寂が訪れた。葬儀屋はそれを確認すると今度は参列者達に向き直る。そうしてよく響く音で二回パンパンと手を叩いた。
「皆様!たった今、故人である月見千代様の遺言書が見つかりました!これにより月見千代様の遺産は全て孫の月見天様に譲り渡すとのことですので、お引き取り下さい!」
葬儀屋片菊の名において月見家の遺産は何一つ皆様にはお譲り致しません。厳しい声で葬儀屋が言う。葬儀屋の名を聞いた参列者達はサッと青ざめてまるで蜘蛛の子を散らすように我先にと部屋を出ていく。
天が唖然としている間に部屋には葬儀屋と天、二人きりになった。葬儀屋が突然天に振り返る。
「あぁ、可哀想に…。今は冷やしましょう。冷蔵庫を借りますね。」
一瞬、天にはなんのことかわからなかった。だが、葬儀屋がまるで自分の事のように眉をひそめ天の頬を見ているので先程女に殴られた顔が酷い有様になっているのだろうと理解する。
天は慌てて、葬儀屋の後ろを追いかける。台所についた葬儀屋はポリ袋とタオルで手際よく簡易的な氷嚢をつくると天へと手渡した。それによりやっと一息ついた天は葬儀屋に先程のことを聞くために口を開いた。
「あの、おばあちゃんの遺言って…。」
葬儀屋は確かに月見千代の遺言書が見つかったから帰れと遺産を狙う参列者達に言った。千代が最期に残したものだ。天が見たくないはずがない。
しかし、葬儀屋はと言うと少し沈黙した後にその事ですかと困った顔をした。
「実は…。」
あれはあの場の嘘なんですよ。貴女にとってはその方がいいかと思って。そう言って眉を下げ苦笑する葬儀屋に天は残念やらありがたいやらで微妙な顔をする。
確かに、天にとっては千代との大切な思い出の詰まったこの家を荒らされることがなくありがたいのだが、遺言書の捏造とは如何なものか。しかも葬儀屋が。
「おっと、失礼。」
天がなんとも言えない表情をして悩んでいれば、不意に軽快な通知音が鳴る。葬儀屋が天に一言放ち携帯電話を取り出す。葬儀屋は携帯電話の画面を凝視しながら眉間に皺を寄せた。他の従業員が本物の遺言書を見つけたようですね。喜ばしいことのはずだが、葬儀屋の表情はやけに浮かない。
天が葬儀屋に連れられるまま向かった居間には葬儀屋の言う通り葬儀屋の従業員達が居た。
彼等が囲む中央には古くなり日に焼けた紙がポツンと広げられている。認知症を予期してか死期を悟ってからではなく、昔から用意されていたかのような古い紙の遺言書。
そこに綴られているのは、まるでインターネットの古くなったサイトに残る文字化けのような文字。複雑で絡み合い、漢字のようで漢字ではない文字。日本語どころか外国の言葉ですらない文字だ。
天は勿論、こんな言葉は読めないために首を傾げる。
「これが本当におばあちゃんの遺言なんですか?」
天の問いに、間違いありません。と葬儀屋は答える。どうやら天には読めないその文字化けのような文字は葬儀屋には読めているらしい。
「禍津……様…やはり、ダ…。」
ブツブツと何かを呟く葬儀屋に天が心配になりあの…と声をかければ、読めましたと葬儀屋は顔を上げる。
その表情は声音に反してずっと重い。なんて書いてあるんですか?と心無しか焦る天が問えば葬儀屋は一つ息を飲む。古い紙を撫で、捻り出すように言葉を紡ぐ。
「遺産は。」
遺産は全て神様に譲る。繰り返し読み上げた言葉に沈黙が流れる。神様?天が聞き返す。えぇ、ここに。と葬儀屋が紙をなぞるが天にはただ意味の無い模様にしか見えない。
心当たりはありますか?と聞く葬儀屋に勿論天は首を横に振る。しかし段々とその古い紙を見ているうちに天は何かを思い出していた。それは生前の千代との会話だ。確か、千代は天にこんなことを言っていた。
あのね、天ちゃん。
「うちの蔵には、神様がいるんよ。」
いつの間にか天の口から零れた言葉に葬儀屋が静かに蔵か…と呟く。
蔵と言えば、例の男も天に蔵の場所を聞いていた。あの男の人が欲しがっていたのは、おばあちゃんの神様?天はそんな思考にいたる。
そして、あの開かずの蔵には確かに神様がいるのだと確信する。葬儀屋さん、もし良ければ蔵へとついてきて欲しい欲しい。そう伝えようとした天の言葉を遮り突如けたたましい音が鳴り響く。それはまた葬儀屋の携帯電話だった。
「すみません、月見さん。」
葬儀屋が慌てて携帯電話を耳元に当てる。天に背を向け暫く何かを話しているが、どうしてか天にはいまいち聞き取れない。
単語の一つ一つを知っているはずなのに、確かにそれは日本語なのに目の前の葬儀屋は知らない言葉を話している。そんな感覚に天は千代の遺言書と葬儀屋を見比べまさかねと呟く。
「お待たせしました。」
ハッキリとわかる日本語に天は顔を上げる。天の視線の先にはわざとらしく困った顔をした葬儀屋がいる。天は頭の片隅で今日はこの人を困らせてばかりだな、なんて考える。葬儀屋は携帯電話の画面を眺めながら話し出した。
「どうやら急いで戻らないといけないようで。」
改めて名刺を渡しておきますね、何かありましたらこちらに。葬儀屋はそう言うと葬儀屋片菊伊月と印刷された名刺を天に手渡す。伊月は天が名刺を受け取ったのを確認するとバタバタと慌てて部屋を出ていった。
いつの間にか遺言書を探すために居間に集まっていたはずの葬儀屋の従業員達もおらず、天は一人ポツンと残された。
天は名刺を大切に棚に仕舞うと畳に座り込み、もう一度念入りに遺言書を見る。文字化けのようなそれは確かに千代の字なのかもしれない。
「蔵、よね。」
意を決し、天は立ち上がる。目指すは開かずの蔵。
いつの間にか、辺りはもう日が暮れ始めている。ジージーと五月蝿いぐらいに鳴いていた蝉達が一斉に鳴き止み、代わりのように鈴虫がリーンリーンと涼やかな音を奏でる。
開かずの蔵の場所は覚えている。千代が閉ざしてからは千代も天も近づいていない。一歩歩く度に、蔵に近づく度に日が暮れる。蔵は背の高い雑草に囲まれ、鬱蒼とした林と草木の奥にポツンと存在する。天が蔵を見つけた時には、月明かりが確かにその存在を際立たせていた。
「…懐かしい。」
祖父が亡くなってから蔵を閉じると決意した祖母は何を思っていたのだろう。天はそう思いながら蔵の扉に手をかける。
開かずの蔵に、鍵はかかっていなかった。酷く重く見える蔵の鉄扉をゆっくりと押し込めば天の僅かな力でも簡単に開いた。外気が入り込み、蔵の中で小さく砂埃が舞う。
この中におばあちゃんの言う神様がいる。神様と呼ばれるそれが物なのか、はたまた本当に生きた何かなのか天は知らない。
大きく深呼吸をして蔵の中へと一歩足を踏み入れる。
「止まりな。」
突如、聞き覚えのない男の声が蔵に入り込んだ天を静止する。驚愕した天の心臓がドキリと音を立てる。天はその場でキョロキョロと辺りを見渡す。
そうして、蔵の奥に確かに人影を見つけた。窓から差し込む月光に照らされて逆光になったその顔は見えない。加えてその人影は黒い面布で顔を覆い、黒い和装をしている。声からして男性だろうか。しかし、窓際に立っている人物のその頭には人ではありえない大きな突起物、恐らく角らしきものが生えていた。この蔵の中にずっと居たことを含めても天はその異様な姿に息を飲む。
「貴方は神様なの?」
意を決した天の問い。暫くの静寂の後、返事があった。神ではない。期待外れの言葉に落胆した天を余所に角の生えた男は返事と共にゆっくりと天へと近づいて来た。
どれほど蔵が広かったのだろうか、今までは遠近法が働いて天は気づいていなかった。近づいてくる男の背は蔵の天井に届きそうなほど大きく、決して人間のそれではないということに。
天が恐怖で後退る。その際、蔵の扉にぶつかったのか鉄扉はバタンと大きな音を立てて閉まる。その音に驚いて天は急いで扉を引いたが、扉は開いていた時が嘘のようにビクともしなかった。
「なんで!?」
迫る大男に恐怖を覚えながら天は開かない蔵の扉を必死に引く。重たい鉄扉は天が押しても引いてもビクともしない。天の瞳には徐々に恐怖による涙が貯まる。
だが、天がいくら涙を流しても無慈悲な冷たい鉄扉が開くことは無い。
「知らないのか、お嬢さん。ここは開かずの蔵だ。内側からは絶対に、な。」
大男の声で天は振り返る。天の真後ろにいる大男の顔は天井に届く程の長身と面布が相まって相変わらず見えない。それに恐怖を覚え、天はより一層強く扉を引く。
「いや!出して!」
助けを求め天が叫ぶ。しかし、そもそもここは月見家の私有地である林の奥に隠れた蔵の中だ。絶対に余人の助けは来ない。天にはこんな時頼れる人間がいない。唯一とも言える先程の葬儀屋も貰った名刺を天が部屋の棚に仕舞ってきてしまったせいで連絡が出来ない。
天の涙が恐怖から絶望に変わる。
「そんなに暴れるんじゃない。綺麗な手に傷がつく。」
大男の手が恐怖で暴れる天の腕を掴む。その手は天の頭を丸ごと掴めてしまうほど大きく、大男がその気になれば天の腕など簡単に折られてしまうだろう。
天はすぐに掴まれるまま、扉から離れる。その様子を見てどこか満足そうに恐ろしい大男は言葉を続けた。
「可哀想に。何も知らなかったんだな。」
肉食動物がまるで弱い獲物を嘲るような言葉に天はすっかり腰が抜けてしまった。力なく床に座り込み涙を流している。心臓がドンドンと張り裂けんほどに脈打ち、苦しそうに肩で息をしている。
貴方は、誰なの。天が最後の勇気を振り絞り緊張で乾いた喉の奥から掠れた声を絞り出す。頭上の大男が言葉を発するために口を開き、息を吸う。
「…オレはオオマガツヒモノのガク。月見猛、そして月見千代と契約していた妖物だ。」
少しの躊躇いの後に頭上からそんな言葉が降ってくる。
知らない単語の中で知っている名前を聞き、天ははっと顔を上げる。オオマガツヒモノ、ガク、妖物、どれも聞きなれない単語だが、ただ一つ祖父母の名前だけは恐怖に打ちのめされていた天に勇気を与えた。
そもそもの話になるのだが、ガクと名乗ったこの大男はきちんと人の言葉を返す。加えて今すぐ天を襲うような行動もしていない。そして猛と千代と契約していたという。
天には、二人が交わしていた契約の意味はわからなかったが、このガクと言う大男は恐れるようなものでは無いことだけはわかった。
「おじいちゃんとおばあちゃんのことを知っているのね。」
天の言葉にガクは静かに肯定を返した。天はまだ痛いほどに脈打つ心臓を押さえつけ、静かに三度深呼吸をする。その様子をガクは黙って見ている。
永遠とも取れる程辺りが静まり返ったあとに天は立ち上がった。そうして大男に向き直る。
おばあちゃんが亡くなったことは知ってる?天のその言葉は落ち着いていたが、家族を失った悲痛に満ちている。ガクは静かに頷いた。
「猛と千代がおじいちゃんとおばあちゃんってことは、お嬢さんは天だろ?」
私のことを知っているの?まさか自分を知っているとは思わず天が顔を上げる。相変わらずガクの顔は見えないが、何処か優しい雰囲気が漂う。
知っているとも、ガクは何処か懐かしそうな声音で語り出す。猛とも千代とも長い付き合いだからな。色々見てきたんだ。そう語る声を天はいつか、何処かで聞いたような気がしていた。
「ねぇ、貴方のことを教えて。どうせここからは出られないんでしょ?」
天がガクに歩み寄る。しかし、ガクは一歩後ろに下がった。それは出来ない。どうして?天の問いにガクは答えない。ただ誤魔化すように腕を伸ばし締まりきった鉄扉を軽くノックした。
「朝になれば、お嬢さんを心配して誰か来るだろう?それまで待てばいい。この蔵は外側からなら簡単に開く。」
天は開かずの蔵と呼んでいたのに扉が簡単に開いたのはそういうことかと納得する。
内側からは決して開かずの蔵。だからこそ天はガクを蔵の外で見た事がないのだろう。天は見えないガクの顔をじっと見た。
「誰も来ないわ。」
予想外の返答にガクは何?と怪訝そうな声を出した。来ないと言ったの。繰り返す天の青い瞳が悲しみを滲ませる。
父親は、母親はどうした?親戚でも、誰でもいい。千代が死んだんだろう?お前はまだ若い。どうして?捲し立てるガクに天はだからよ。と言葉を返す。ガクが何かを言おうとしてそうして黙り、俯く。
天には決して見えないガクの表情はきっと暗い。
「おばあちゃんが亡くなったから、私はもう一人なの。」
ハッキリと天の口から真実を伝えられる。ガクは相当ショックだったのかフラフラと数歩後ずさった。そうか、そうか、とうわ言のように繰り返し呟くと数回頭を左右に振る。
そうして、呻き声のように言葉を紡いだ。
ここから出る方法が一つだけある。オレを信じられるなら、此方へ来てくれないか。そう言ってガクは今にも倒れそうなぐらいゆっくりと月光の差し込む窓際に歩いていく、天もその後をゆっくりと追いかける。
窓から差し込んだ月明かりに照らされて先程までわからなかったガクの金髪がキラキラと輝く。綺麗。天が思ったままに口を開く前にガクが話し始める。
「今から、お前にオレの顔を見せる。」
ガクがそう言うと天に背を向けたまま、面布を外す。オレの顔は酷く醜いんだ。恐ろしい異形の面をしている。それでも、ここから出るためにはこれしかない。すまない。すまない。まるで魘されるように呟くガクの手を天は背後から取る。
震える手から先程まで飄々とした態度だったガクの臆病さが滲む。どんな貴方でも嫌わないわ。天の心臓はもう穏やかな鼓動を取り戻していた。
天の言葉でガクは静かにため息をついてから振り返る。
「…。」
深紅の赤い赤い瞳と目が合った。視界いっぱいに焼き付くような赤。
それは吸い込まれるような魅力を持つ紅の宝石だ。頬には紋様が描かれ、顔の中央には痛々しい古傷が彫り込まれている。
それでも、それを覆すほど、ガクは美しい顔をしていた。
「やっぱり、綺麗よ。」
天が優しく呟く。ガクはその言葉で目を伏せる。伏せられたことにより赤い宝石は隠れ、代わりに宝石を縁取っていた金色の睫毛が月の光を反射する。
「命令を、我が君。」
ガクの重々しい言葉が蔵に響く。天は次に自分が何を言うべきなのか本能的に理解していた。
マガツヒモノの真の顔を見ること。それが彼等との契約の為の儀式。月見天とガクの契約はここに完了した。
「ここから出して。」
ガクが恭しく頭を下げる。マガツヒモノという妖物は主から命令を受けた命令を必ず遂行する。それこそは、彼等に課せられた星の掟。
ガクが数歩、助走をつけて蔵の鉄扉に駆けていくと凄まじい勢いで鉄扉を殴る。辺りに轟音が鳴り響き、蔵全体が大地震に襲われたかのように揺れ動く。
鉄扉は留め具が完全に壊れ、蔵の外側へと吹き飛んでいた。
「オオマガツヒモノ、ガク。これより貴女に絶対の服従を。…愛しいユダ。」
月明かりの下、破壊された蔵の扉を背にし、美しい男が少女に跪いた。