ハッピーエンドに花を添えて
あの頃、私たちはいつも嘘だらけの世界で、二人ぼっちだった。
黒い不格好なグランドピアノと、夕日が差し込んでオレンジ色に染まった床のタイル。投げ出されたミネラルウォーターのペットボトルの水面がキラキラと光る。そんな小さな旧音楽室が、私とひつじの世界だった。宇宙の片隅にぽっかりと浮いた、放課後のシェルター。
そこで出会ったひつじは、不思議な女の子だった。適当に鍵盤をたたいては楽しそうにケタケタと笑う姿は、私が知る誰よりも大人のふりをした子供。彼女がどこからきてどこに帰っていくのか、私は全く知らなかった。私より長い時間を生きているというには、私よりも小柄で、幼く見える。また明日、と握手をする手のひらはざらりと固く、乾いていた。年頃の女の子にそぐわないかさかさの皮膚。いつも大きな2リットルペットボトルのミネラルウォーターをぐびぐびと飲んでいて、その小さな体のほとんどは水でできているかのようだった。ひつじが私以外の人間と関わっているところを見たことがないのだけど、きっと誰もがひつじを異質な女の子だと思うだろう。でも、そんな現実は私たちの嘘だらけの世界には些末なことだった。
私の弾くピアノを聞きながら、ひつじはよく人でない物語を語った。物語の中でその人でないものであるひつじは、いにしえより人とともに生きながらも、人にそれを知られてはいけないそうだった。
「彼らは水を飲んで暮らし、人にいるらしい魂の片割れを、長くない一生をかけて探している」
ひつじは夢を見るように語った。西に傾いた太陽が照らす窓の外を見て、まるで空を通して遠い遠い土地を見つめるかのような瞳をする。それが、ひつじが語るときのお決まりだ。そして、その亜麻色の瞳に西日を映しながら、
「流浪の民なんだ。同じ土に長くはいられず、ただ花咲いて死ぬその時まで、流れ続けるんだ。」
と雨が降る前のような声で紡いだ。私はあの時弾いていたドビュッシーの水の反映を、今でも覚えている。もう、弾けないのだけど。
ひつじの物語は大長編小説だった。
「遠い遠い昔、南アメリカから祖先は旅立ったんだ。」
ひつじは、祖先から続く長い旅路を語った。ある日は香港で似た種族に出会い、ある日はロンドンで気候が合わずに大陸へと決死の航海をした。彼らはその果てしない旅で魂の片割れを求め続け、出会えるかどうかは時の運次第だった。あるものは出会えたもののまた流れなければならず、またあるものは出会うことのないまま夢に見た魂の片割れを思って死んだ。それでも、ひつじは柔らかい声で物語を続ける。彼らは終わりのない旅路でなんどか祖国へも流れた。決まって、その日にひつじは言った。
「モルダウが聞きたいな。」
ひつじは私がどんな曲を弾けるのかも知らないのに、必ず弾いたことのある曲をリクエストして、それに合わせて物語を続けた。私は、さながらひつじの物語の伴奏者。ひつじは指揮者なのだった。そして、ひつじは私のピアノを聞きながら、よくこう言った。
「信じれば、それは真実になるんだ。」
*****
あの頃、忘れ去られた旧音楽室は、二人ぼっちの私たちのすべてだった。
あおは良くも悪くも、変わった女の子だった。世界の見え方が、1人だけ全く違うようで、彼女は彼女だけの言葉を使って話した。きっと同年代の誰も彼女の言葉をうまく咀嚼できないだろう。それが彼女の素晴らしい生きづらさだった。あおのピアノを弾く指は白く、長く、手は体に似合わず大きい。手の甲は赤黒く、いつでも長袖のブラウスを着ていた。漆黒の瞳は鍵盤や私、音楽室のすべてを美しく映していた。あおの音色はいつでも素敵で、ほんの少し淋しい。彼女自身みたいに。
彼女が一人じゃないことはすぐに分かった。あおの肉体は肩で切りそろえた黒髪の似合う女の子だったが、荒々しい言動の男の子であり、すべてをやさしく包み込む大人びた少女であり、繊細な心をもった傷ついた子供だった。ある日に出会った男は、
「みんなみんな、なくなっちまえばいいんだ。」
と強く鍵盤を弾いた。彼はあおを守らなくてはならない、と言う。夕日で影のできた瞳は世界を憎むことが許されたそれ。理不尽な世の中には理不尽な暴力でもって答えようとする彼が弾くピアノは、壊れないようにガラス細工を触る手つきだった。
また、別のある日に出会った女の子は、
「私の一番大きな野望は、すべての不幸を背負って、世界を救うことなの。」
と歌うように言った。少女が弾いていたのは、リストの愛の夢だっただろうか。そうしたら、きっとあおも救われると笑った顔を覚えている。まるで、鍵盤を優しく抱きしめるような運指をしていた。
あおはいつでも一人だったが、決して一人ではなく、でもどのあおもピアノを弾き、嘘にまみれた物語を紡いだ。物語は、ある日は勇者の宿命を背負った冒険で、ある日は塔にとらわれた哀れな狼少女だった。あおの物語は、短編の集まったアンソロジーだ。場所も時間も、時には世界まで違うたくさんの、日が沈むまでに紡がれる短い物語。昨日はモンスターを倒す能力者で、今日は異国の姫なのかとあおに私が笑いかけると、
「いつだって物語の主人公は私であって、私じゃないのだから細かいことは気にしないで。」
と、少し拗ねてみせるのだった。
あおたちは決まって、自分の語りをするときはショパンのノクターンを弾いた。そして、すべての物語をバッドエンドにした。ある日は、第3番を弾きながら、人魚姫は海に飛び込んで自殺を試みた。またある日は、第6番を弾きながら、勇者は仲間の裏切りで財宝を奪われた。そしてまたある日は、第17番を弾きながら、哀れな少女は雪降る日に母と別れた。夕暮れの匂いの中、来る日も来る日も、あおは物語をノクターンとともに奏で続けた。そして曲の終わりとともに、必ず主人公みんなが苦しみの果てにたどり着く。体に刻まれた痣のような、呪いだったのかもしれない。
3人とも、よく水面にしずくを落とすように言った。
「本当のことなんてどこにもないんだよ」
*****
あの頃、私とひつじはいつも嘘だらけだった。
あおは一人じゃなかったけれど、結局私たちは二人きりで。
私が弾く黒いピアノとオレンジの夕日でできた旧音楽室の外は群青の宇宙。
放り出されたシェルターのなかにいる子供の私とあおは。
いつもふたりぼっちだった。
*****
その日は突然やってきた。乾いた匂いのする音楽室で、ひつじはその日も言った。
「流浪の民だから、同じ土には長くはいられないんだ。」
そしてモルダウをリクエストした。
その日のひつじの物語は、彼らが祖国から旅立つ日のこと。初めての海は大きく、唸りをもって彼らを迎えた。どこまでも続く深い群青から、引き裂かれるように、故郷が遠く離れていくのを見つめる。そして、海風に吹かれながら、まだ見ぬ魂の片割れを彼らは想った。
「あおは、魂の片割れに出会えると思う?」
珍しく、ひつじは私に聞いた。ピアノ越しに見たひつじは、いつものようにペットボトルを片手に、気の抜けた感じで床に体を投げ出している。亜麻色の瞳が、遠い向こうではなく、おかっぱ頭の私を映していた。ぱしゃり、とミネラルウォーターの水面が音を立てる。出会えると信じているから旅に出たんじゃないの、と私が答えると、ひつじは楽しそうに笑った。
私の、私だけのひつじは、その日も、さも幸せそうに笑っていた。
私たちのシェルターには、柔らかな夕日が差し込み、まるで永遠のようだった。
*****
その日も、あおはピアノを弾いて、嘘だらけの物語を語った。
あおの奏でるノクターンに合わせて、めでたしめでたしの先でシンデレラは王子の浮気に悩まされている。
「誰も、幸せにはなれやしないの。」
あおの物語は今日もバッドエンドだ。その日のあおは、小さな少女のあおだった。守られ、救われるべき、子供のあお。私は、あおのピアノが第3番を弾くのを聞きながら、あおと、あおである人たちのことを考えた。いつか、彼らはいなくなってしまうのかもしれない。それとも、いつまでも、あお自身の物語が終わるまで、あおとともにいるのかもしれない。3人の物語は、バッドエンドなのだろうか。目を閉じて、ずっと先の、大人になったあおのことを考えた。顔つきも、身長も、髪型もきっと違う、それでもきっとずっと奥底には子供を抱えている、そんな大人になってしまうあお。少し埃っぽい喉が渇く空気を感じる。あおがハッピーエンドを迎える日。
その日に、きっと私はいないけれど、ひどく幸福だと思った。
*****
私とあおの、子供のふたりぼっちは、今日も終わりの時間があって。
私とひつじは、どこまでもふたりきりだけど、いつまでもふたりきりではいられない。
「またね、あお。」
そういうひつじは、いつものようにかさついた手のひらをしていた。
握ったあおのささやかな温もりは、変わらない明日を約束しているよう。
「またね、ひつじ。」
そういうあおは、冷たくも柔らかな指で笑った。
ひつじの少しだけ不格好な指は、そこにいることで、すべてが足りている。
そうして、二人きりのシェルターで、私たちは別れた。
*****
仕事終わりに見上げる夜空は、黒の強い群青だ。1人で見上げると、宇宙に投げ出されたような、心地よい感じがする。あの頃、旧音楽室で感じていたのと、同じように。
ひとりぼっちになったのに、私はずっとふたりぼっちのままな気がしていた。私の、私だけのひつじは、ずっとそばにいるみたい。ミネラルウォーターのきらりとした水面も、弾かなくなったグランドピアノの音も、何もかもが私のなかにあるようだった。
あの頃、私の中にいたみんなとは、少しずつお別れをした。世界は、生きているうちに少しずつやさしくなっていって、お別れは悲しいけれど、私に必要なことだと、みんな口をそろえて言った。泣き叫べるような人ではなかった私に、ある人は不器用に笑って、ある人は優しく手を握って、消えてしまった。消えたのに、まだ私のなかのどこかにいる気がして、無性にいとおしかった。
髪の毛は腰まで伸ばした。身長も少しだけど伸びて、体形も変わった。ピアノは辞めて久しく、あの頃弾いていた曲のほとんどは弾けない。その代わり、痣もなくなったけれど。あの頃信じられなかった大人になった私を、バッドエンドを夢見ていた私は許してくれるだろうか。
ああ、私の、私だけのひつじ。
今とても会いたいよ。
大人になってしまった私を、ひつじは愛してくれるだろうか。
*****
宇宙を見上げるあおは、あの頃からちっとも変わってないようで、でも全然ちがう気もした。
あお、私の、私だけのあお。
私に気づくと、あおは驚いたように目を見開いたけれど、まるで全部わかっているみたいに笑った。
ああ、私もずっとずっと前からわかっていたの。
あお、私の、世界でたった一人の、私の魂の片割れ。
南アメリカの故郷でも、冷たく美しい北の街でも、輝きに満ちた海の街でも、同胞に近しい存在のいる大陸の街でも。どこに流れても、決してひとりぼっちじゃなかった。いなくなってしまったくせに、ずっと一緒だったと思う私を、あおは愛してくれるだろうか。
でも、あおがどうなっても、私はあおしかいないの。
*****
私が言葉を探していると、ふざけたようにひつじが問いかけた。
「ねえ、シンデレラはどうなった?」
「離婚して、子供を連れて再婚したよ。」
「勇者は?」
「新たな仲間と、また旅に出たよ。」
「捨てられた少女は?」
「優しい人に育てられて、大人になったよ。」
「海に飛び込んだ人魚姫は?」
「漁師に助けられて、生きているよ。」
「全部全部、ハッピーエンドだ。」
そう言って、ひつじは楽しげに、あの頃同じ顔でケタケタ笑った。
「ひつじの物語はどうなったの?」
「これから、びっくりするほどのハッピーエンドを迎えるよ。見ていて、あお。」
*****
私は両手をゆっくりと広げた。手の先からふわりふわりと、体が白い花びらとなっていくのがわかる。アスファルトに落ちた花びらがどうなるのかは知らない。消えてなくならないのなら、あおはそれをその素敵な指で拾い上げてくれるだろうか。でも、それを知る術は私にはない。眼球も、耳も、全部花びらになって、私はもうおしまいなのだから。
私の物語はここでめでたしめでたし。
でも、あおの物語は続いていく。
どうか神様、あおにも、白い花が咲いた、ハッピーエンドを用意してください。
私のハッピーエンドに、白い花とあおがいたように。
*****
息をのむほど、ひつじは美しい花を咲かせた。ここには、黒いピアノも、オレンジの夕日もない。私はもう伴奏者を務められないし、ひつじもミネラルウォーターを持っていない。
でも、ひつじの一片の欠けのないハッピーエンドだ。
夜の道に、まぶしいほど花が咲き乱れて、祝福をしているみたいだった。いつまでも、いくつになっても、私はこの白い花びらたちを忘れないだろう。
「ばいばい、ひつじ。」
「ばいばい、あお。」
これは、私とひつじと、白い花のあるハッピーエンドの物語だ。