春狂い
満開の桜は人を狂わせる、というのは本当だろうか。
「綿貫くん、急な呼び出しだったのに、来てくれてありがとう」
春、爛漫。時折花びらがひらりと舞い降りては、雪の積もった校庭に薄紅の彩りを加えてゆく。地面に散らばった春の欠片は、吹きすぎるつむじ風に合わせ、白いステージを楽しそうに駆け回っている。
滅多に見られない冬と春の共演。あるいは、今この瞬間は2人だけのために咲き誇る満開のソメイヨシノ。普段なら息を呑むであろう景色も、今はすっかり色褪せて見えてしまう――結城くるみが僕の目の前で微笑んでいるせいだ。
「別に、僕は暇だから大丈夫だけど。今日はどうしたの?」
「えっと……はうっ」
突然吹いた一際強い風が、セミロングの茶髪を揺らす。頭上の枝からはピンクの花弁が降ってきて、結城の髪に貼り付いた。
「えへ、びっくりして変な声出ちゃった」
頭をかきむしり、ぶんぶんと振る少女の朗らかさにつられて、気づけば僕の口元も緩んでいた。こほん、と咳払いをし、真面目な表情を浮かべた結城は、頭のてっぺんにちょこんと座っている花びらには気づいていないのだろう。
「えっとね」
結城は一旦口を閉じ、大きく息を吸い込む。何かに怯えるような結城の表情は、少し儚げでとても魅力的で、僕の心臓は狂ったように早鐘を打っていた。
ふう、と息を吐いて、少女は再び口を開いた。
「わたし、――」
* * *
ことの発端は、前日の夜に遡る。高校1年生として過ごす最後の日を、僕は一日ごろごろと寝て過ごしていた――つまりは、いつも通りだったということである。
「あんまり引きこもってると身体に良くないわよ」
と心配する母の忠言にも、
「お兄ちゃん、彼女くらい早く作れば?」
などとのたまいながら、いそいそとデートに出かける妹の煽りにも、最近は慣れてしまって何とも思わない。中二病真っ盛りの妹は、恋人のあるなしで人の価値が決まると思っている節がある。
そもそも、僕だって遊びに行きたい気持ちはあるのだ。しかし、僕の目の前には山積みの宿題があり、それを放って遊びには行けない。かといって宿題に手を付ける気が起きるでもなく、無為に過ごすより他ないというわけだ。
そんなわけで床に寝転がりつつ、何かの拍子に思いついたダジャレを「呟いちゃtter」に投稿すべくスマホを開く。
「うぉるなっと……? 誰だ……?」
ロック画面に表示されていたのは、見覚えのない人物からのshine――無料のチャットアプリ――の通知。首を傾げながらも、開いてみることにする。
『突然連絡してごめん。クラスshineから勝手に友だち追加させてもらったんだけど』
『もし時間があったら、綿貫くんとお話がしたいです。できたら直接会ってお話をしたいのだけど、空いてる日はありませんか?』
さて、これは誰だろう。トプ画も何かの木の実だし、こんなshineを送ってくる友人に心当たりはない。『誰ですか?』と訊ねれば済むことだが、名乗らなかったことを咎めるようで、なんとなく嫌味ではないだろうか。
送信者が誰か分かったところで、行かない理由があるわけでもないし、あえて分からないままにしておくのも面白いだろうというのが、僕の出した結論だった――言ってしまえば、謎の人物からの連絡という「事件」に、もう少しだけ夢を見たかったのだ。
『良いよ、僕は春休み中暇だからいつでも』
『じゃあ明日の13時、旧校舎裏の桜の木のところに、来てもらえませんか?』
返信は早かった。うちの高校には1本立派な桜の木があり、入学式で校長が自慢げに語るのが毎年の恒例だと聞いたことがある。あともう一つ、何か逸話があった気がするが、なんだっただろうか。
思い出そうとする間に、僕の手は『りょーかい』と打ち込んでいた。
「あ、何呟こうとしたか忘れた……」
3月31日の夜。翌日から学年が上がるという自覚もなかったし、この日を境に僕の青春が一気に動き出すなんて、想像すらしていなかった。
「今日、昼から出かけるから」
「あら、珍しい」
親に声をかけると、よほど意外だったのか、素っ頓狂な声が返ってきた。
「ちょっと同級生に呼び出されて」
「えっ? あんた、呼び出されるような友だちいたのね……」
大げさに胸をなで下ろすこの母親は、僕のことをなんだと思っているのだろう。
「それ、男の子? 女の子?」
「さあ、知らん」
「むー、何それー……」
生意気な妹がむくれているが、知らないものは教えようがない。
「まいいや、お兄ちゃん、ファイトだよっ!」
「おう、行ってきます」
「行ってらっしゃあい」
何を応援されているのかいまいち分からないまま、妹に手を振って家を出た。
* * *
「えっとね――」
結城が大きく息を吸って、吐き出した。
「わたし、綿貫くんのことが好きです」
そこまで聞いたところで、僕は確信に至った。これはいわゆる「ウソ告」――嘘の告白だ。向こうから告白しておいて、こちらが受けた瞬間に「何本気にしちゃってるの」「釣り合うわけないじゃん」と嘲りを受ける、悪趣味としか言いようのない企画だ。どこかにカメラでも仕掛けてあるのだろう。
実を言えば、待っていたのが結城だった時点で、おかしいということには気付いていた。何せ向こうは、誰もが認める美少女――「結城も歩けばスカウトに当たる」「ミスコンは校内2位の決定戦だから」などという囁きを耳にしない日がないほどの、飛び抜けた人気を持つ少女なのだ。
僕との接点だって、イギリス帰りで日本の学校に慣れない彼女の手助けをしたり、クラス委員で大変そうな結城の仕事を手伝ったり、雨の日、帰りに傘に入れてあげたり、「義理チョコだから!」って強調しながら手作りのチョコを渡されたりしたくらいのものだ。
ましてや今日は、4月1日――
「――エイプリル・フールか」
いくら嘘をついても構わない日とはいえ、こうも人の心を踏みにじる嘘が許されるものだろうか――いや、許されるのだろう、それがスクールカーストと言うものだ。
「えっ」
鳩に豆鉄砲の当たったような顔、とはこのことだろうか。しばらくキョトンとした顔で固まった結城は、腕に巻いた高そうなスマートウォッチに目を落とす。
「ち、違うよ!」
がばっと身を乗り出して全力で否定する必死さが、むしろ怪しさを倍増させている。
「そんなの全然気にしてなくて、ただ春休みに入って綿貫くんに会えなくなったら、心に穴が空いたみたいに寂しくなって、それでわたし……」
僕のほうへ上目遣いを向ける美少女の瞳が、キラリと光った。それと共に、僕の心を猛烈な罪悪感が襲う。
「自分の気持ちに気づいたら、少しでも早く伝えたくて……信じて!」
もう、こちらを見つめる結城が可愛すぎて、疑うのが辛い。
だが、美少女というのは嘘をつくものだ。そういう性なのだ。推していたアイドルがファンを騙して恋人と同棲していた事件を乗り越えて、僕はそういう学びを得た。
今、彼女の可愛さに負けて承諾すれば、その動画は一夜のうちにクラス中を駆け巡る。そうなれば、1学期からはそれをネタにしてからかわれ続けるのだ。
「なんで僕のこと好きになったか、聞かせてもらっていい?」
あくまで紳士的に話しかけるが、絆されたわけではない。ただ、カメラが回っていると思われる今、下手に追い詰めて泣かれるとこちらが不利なのである。
「そんな、はっきりと理由がある訳じゃないんだけどね、綿貫くんと話してると、楽しいっていうか、心がぽかぽかしてくるっていうか。それに、困ってたら絶対助けてくれるし、あとよく見たらちょっとかっこ良いかなって……」
結城の声は段々と小さくなり、比例するように彼女の頬は桜よりも濃いピンクに染まっていた。それが結城の色っぽさをさらに際立たせており、僕の理性はそろそろ限界を迎えそうだった。
「あ、もし綿貫くんに好きな人がいるなら、悔しいけど諦める。でも、そうじゃないなら――」
続くであろう言葉に己の陥落を予期した僕は、右手を突き出して少女を押しとどめる。
「好きな人とかはいないし、結城さんすごく可愛いし、良い人なのも、分かってるけど」
ぱっと輝く結城の顔に、胸の片隅で罪悪感が生まれるが、無視して続ける。
「今すぐには返事できないから、考える時間をもらえないかな」
彼女は、今日を大義名分に、僕にウソ告をしてきた。裏を返せば、今日が終わればこの演技は続けられないはず。
新学期に「くるみちゃんを泣かせたらしいな」と詰められる可能性は残ってしまうが、もじもじとオーケーする動画を裏で晒されて、見世物になるよりはマシだ。
「うん、分かった」
結城の邪悪な企みを打ち砕くはずの僕の返事は、思いの外あっさり受け入れられた。その瞬間、僕はその日初めて気を抜いてしまったのだ。
「あ、でも、綿貫くんの彼女になれたら、行きたいとことかやりたいこと、いっぱいあるんだ! だから、オッケーだったら早めに連絡くれたら嬉しいなって!」
不意打ち気味に放たれた満面の笑みは、身体中に震えが走るほど蠱惑的だった。
「とりあえず、今日は一緒に帰らない?」
ずいっと身体を寄せてくる結城から、何やら良い匂いがしてくる。
「えっと、今日は寄りたいところがあるから」
「そっかぁ。でも、校門までなら良いよね?」
僕の返事も待たずに、手を取って歩き始める。やめろ、気安く触るんじゃない。僕の純真な心が疼くじゃないか。
「えへへ」
隣の少女が浮かべる幸せそうな表情を見れば、文句を言う気も失せると言うものだ。何も知らずに見れば、どう見ても恋する乙女の表情。テレビで見る女優と比べても、遜色ない名演技だ。この演技力があるなら、こんな悪ふざけよりもっと使い途があるだろうに。
「思い出した」
「ん、何が?」
首を傾げるフリをして、頭を僕の肩に乗せようとしてくる。
「桜の噂、あったなって」
「あれ、もしかして綿貫くん、知らないで来てくれたの?」
満開の桜は、人を狂わせる、と聞いたことがある。なるほど、暖かな陽気と度を過ぎた美しさは、人を狂わせるものなのかもしれない。
隣で笑う少女の頭から、一片の花弁がひらりと落ちた。