消えた駐在武官
ロンドンに駐英日本大使館が初めて設置されて間もない頃……。
一人の日本人駐在武官が、大使館内の密室から忽然とその姿を消した。
非公式の捜査に当たったのは、まだ修行時代のシャーロック・ホームズ。
ホームズがワトソン博士に思い出話を語ります。
文体は新潮社版を意識しています。
「本当のところ、君はこの事件では、あの依頼人の学生をだいぶからかったのではないのかい」
私達は、犬のポンピを飼い主に返し、ベーカー街のいつもの椅子に納まった後、ホームズに話しかけた。
「そんなことはないよ。ラグビーに夢中なあのシリル・オヴァトンをからかうほど、僕は人が悪くはないつもりだ」
ホームズは、ストラドヴァリウスの弦を調整しながら私に答えた。
「たとえば、僕があのシリル・オヴァトンにアマチュアスポーツに対して無知だと言っておきながら、ボクシングや棒術に秀でていることの矛盾について君が言いたいならばね」
私は驚いて、ホームズの顔をまじまじと見つめた。かなり慣れているのは事実とはいえ、それでも自分の心の内を見透かされることに平然とはしていられなかった。
「どうしてそう思うんだい。今回僕は何も喋っちゃいないはずだぜ」
「簡単なことだよ。君は椅子に収まってから、僕の上半身、特に、腕のあたりに視線を彷徨わせていた。いつもは僕の顔を正面から見る人なのにさ、君は。その後は、正面から僕を見て軽く頭を振った。
まぁ、それだけで解ったとは言わない。そもそも君も、バイオリンを掻き鳴らそうとしている僕と同じように、あわれなスリー・クォータのゴドフリ・スタントンのことを早く頭から追い払おうと努力をしている。
その気分転換のために、君はなんでも見つけたものに対して観察を行おうとしているんだ。そして、今、僕ほど無難な観察への対象物もないだろう。とはいえ、実際に見たものが観察できているかどうかは、あやしいものだがね」
いつもの高飛車なものの言い方に、私は腹も立てなかったが、肯くことで先を促した。
「そして、君が僕の腕を観察するとしてだ。文字通り、何かを作り、生み出す腕のことを君は考えていることが判る。探偵や化学実験の腕だったら、僕の知能の証である頭部を見るはずだからね。かといって、バイオリンの腕を疑っているのではないことは、バイオリン自体を一顧だにしないことから簡単に判断が付く。同じように、銃の腕でないことも確かだ。そうならば、壁の弾痕を見ないではいられないはずだ。
腕が絡むと言えば、君の嫌いなコカインのこととも思えない。そうならば、君の表情は軍医のそれに変わっているはずだからだ。
実際には、どちらかと言えば、不安な表情だな。軍医として軍にいながら、暴力に馴染みきれなかった君らしい表情だった。となれば、ボクシングの腕というのがもっとも確率的には高いじゃないか。
そして、僕と同じように、後味の悪い今回の事件に考えが還っていってしまうとすれば、ボクシング、アマチュアスポーツ、大学、この三つが頭の中でくるくる回っているはずだ。そうなると、ホームズは大学でボクシングをしていたはずなのに、どうしてアマチュアスポーツに詳しくないんだろうと疑問を抱くのは必然だった。そして、君は軽く頭を振って疑問を持ったことを僕に知らせたのさ。
ただ、僕は本当にアマチュアスポーツには詳しくないんだ。
今回の事件こそ、それに関連した事件だったが、アマチュアスポーツそれ自体が事件の中心になることは少ない。だから、そのことについて知るのは、僕にとっては時間の無駄ということになる。
だから、君が僕のことを本当はアマチュアスポーツにくわしいのに、知らないふりをしてあの学生をからかったと思ったのならば心外だな」
ホームズは、まじまじと私を観察してなどいなかった。それなのに、何気なく、それでいて見逃すということのないホームズの観察力と、そこから結論を導く推理力に今更ながらに私は驚かずにはいられなかった。
「もっとも、これは綱渡りだった。君の表情のかすかな変化しか手がかりがないのだからね。だから、僕の方からこの話をするつもりはなかった。しかし、僕の観察を裏付けるように、君から僕に対する非難の言葉が飛び出したのさ」
「それは謝るが、しかし、ホームズ、君はどこでボクシングを覚えたのだい。それも、事件の時以外ほとんど体を動かさず、トレーニングもしない君が負けを知らないほど強いとは、実のところ腑に落ちない。よほどの修練をしたとしか考えられないが」
ホームズは、一つ伸びをするとバイオリンをケースに戻した。そして、そのままケースを閉じてしまうと、暖炉の火を掻き熾した。
「こんな二月の滅入ったときに滅入った事件に巻き込まれたんだ。気分転換に昔話でもしようか。いつぞやの、友人宅で起きた不幸な事件を話したときのようにね」
私は手帳を取り出し、赫々と燃える暖炉に足を近づけた。暖かい方が古傷の痕も痛まず、話に集中できるのだ。
「ぜひ、聞かせてもらいたいねぇ。あのモリアーティ教授の魔手から逃れた謎のバリツの話とともにね」
ホームズは椅子に戻ると深く身を沈めた。そのまま、眠ってしまったのかと思えるほどの時間の後、ゆっくりと語り始めた。
「僕が大学にいた頃、世界で初めての諮問探偵に将来の指針を決めたことは、君も知っての通りだ。そして、卒業後、緋色の研究の事件で君に会うまでの間、学生時代の友人以外にはろくに客もつかず、諮問探偵としての知識や技術の習得に時間を費やしていたことも、知っての通りだ。その時だったよ、バリツを知ったのは」
「では、大学の時に修得したものではなかったのだね」
ホームズは薄く笑った。
「そうだとすれば、スポーツに対してもっと詳しくていいはずだと自分でも思うけどね。
ああ、大学の時じゃない。
これには、ちょっとした事件が絡んでいておもしろい話なんだ。退屈はさせないですみそうだよ。僕の修業時代というものがどういうものであったか、それも多くは話したことがなかったしね」
私は、初めて聞く話題に胸を躍らせた。ホームズが非凡になる過程を、アフガニスタンより遙かに東の神秘の日本という国の格闘技術をなぜホームズが身につけているのか、その両方を初めて知ることができるのだ。
「あれは大学を卒業してから、ちょうど一年目のことだった。僕は、ハンサムの御者の卵達と一緒にかなりの期間、ロンドンの路地という路地を走り、歩き、そのすべてを覚えようとしていた時期があった。すべての路地に通じていなければ、この犯罪都市ロンドン全体をいくらかでも理解できたことにならないからだ。その成果が、空き家の冒険の時に生かされたわけだが、細かく細い路地があると思えば、あっけないほど短いくせに名前だけはやたらと長い路地があったりして、なかなか覚えるのは大変だった。あの頃は、毎日十マイルは歩いたものさ。
同時に、探偵を行うに当たっての、身の危険性について考えなかった訳じゃない。学生時代、見よう見まねで誰に教わった訳じゃないが、ボクシングと棒術のまねごとは始めたのだけど、今から思えばてんでお笑いだった。独学でどうこうなるほど甘いものじゃないのだよ、あれは。ただ、毎日歩き、走っていたことで、基礎体力は十分に付けることができたのだね」
私は、ホームズの語る昔話に耳を奪われずにはいられなかった。
丁度その時、下宿のハドソン夫人がノックとともに入ってくると、ティーセットを置いた。
「冷え込みが厳しい中ですから、サンドイッチを多めに用意しましたのよ」
彼女はそういうと、ゆっくりと出ていった。
「や、君が馬鹿に暗い顔をして帰ってきたから心配したんだぜ、ハドソン夫人は。では、ワトソン、飲みながら話そうじゃないか」
ホームズはハドソン夫人がアフタヌーンティーを用意してくれたのを、わざわざ私のせいにして暖炉に石炭を足した。
私は湯気の立つカップにミルクを注ぐと、再びホームズの話を聞く態勢をとった。
「丁度そのころ、東洋の日本帝国の公使館がロンドンにできたのだよ。正確には、その準備のようなものだったが、英政府の扱いとしては、非公式とはいえすでに完全に公使館だった。
君も知っての通り、日本帝国はこの英国とも決して大規模ではないが軍事的に衝突したことがある。にもかかわらず、阿片戦争後の清のように英国の思うようには行かなかった国だ。それで彼らの歴史を繙いてみたのだが、この英国に勝るとも劣らない君主国なのだよ」
「それで、その公使館員に近づいてみたのかね」
私が相打ちを打った。ホームズは高い声で笑った。
「いや、そんなに早急にいくものじゃない。この段階では、僕の興味は興味で、そういうものを持っていたと言うだけの話だ。
ただ、ここで、あのマイクロフトが登場する。日本帝国はロンドンに公使館を持ったものの、どのように英国とつき合うべきかまだ方法論が確立していなかった。二百三十年も鎖国をしていたんだぜ、彼の国は。
当然、ヨーロッパ風の外交儀礼とか、英国の歴史について補助する者が必要となるじゃないか。そのほか、かの国から、留学生を受け入れたり、文化の交流のためにも様々な調整が必要になる。
そこで、各機関の調整能力において大英帝国そのものと言ってもいいマイクロフトに、その任が巡って来たのさ。マイクロフトも当時はまだ若く、いまのように政府中枢にいたわけじゃなかった。けれども、その特異な頭脳は役所中から認知されていて、そんな役回りが回ってきたのだね」
「初めて聞くよ、その話は」
「いや、マイクロフトについて君が知っていることは、極めてわずかだ。兄だって生まれたときからベルメルの自宅とホワイトホール、ダイオジニス・クラブを周回していた訳じゃないよ。
それどころか、僕でさえ、現在の兄の半ば公人化した私生活については、今だに解らないことが多々あるのだ」
「では、若いときには日本公使館の担当だったのだね」
私はメモを取りながらホームズに確認をとった。
「ああ、準備段階での非公式な状況下で、だ。
そこで、一つ大きな事件があったのだ。当時、日本公使館は、公使、駐在武官等の限られた人数しかいなかった。従って、目は行き届きかねるのは解るが、一応日本の領土と同等の扱いなっている訳だ。さらに敷地を一歩出れば我がイングランドに囲まれている。それなのに、そこの一室から、それも内側から鍵のかかった部屋から日本人が消え失せるとは奇怪じゃないか。
当然、公使館は大騒ぎになるし、その建物を提供したイギリス政府の代表としてマイクロフトにも相談が行った。例によってマイクロフトは、考えはするがその材料を集めるのは面倒くさいということで、この僕に捜査の依頼がやってきたというわけさ」
「ほう、そんな事件があったとはね」
「君ならばどう考えるかね、ワトソン」
私はティーカップをソーサーに置くと、しばし考えた。
「ヨーロッパの国同士、やっていることだよ。現にドイツは我が大英帝国に大使館を持っているものの、それとは別に幅広くスパイを活動させているじゃないか。公使館が大騒ぎをしたというのは、瞞着さ」
ホームズもカップを置くと、濃くなりすぎた紅茶に湯を注いだ。
「いや、それはあり得ない。そもそも、二十年近く前のその時代を考えてくれたまえ。このロンドンがいかに広く、いかに国際的とはいえ、日本人の数は十に満たなかったはずだ。その内の一人がスパイ活動をしたところで、得るものなど何もない。スパイ活動とは、ある程度の人数でシステムを作るか、こちらの中枢に食い込む大物によるか、二通りしかない。
だいたい、英国政府が、彼らを見張る方が遙かに簡単なのだ。おまけにドイツ人と違って人種的な特徴が我々と違いすぎるから人混みに溶け込むことすらできまい。彼らは、中国人とも大きく違うのだよ。
中国人ならば見かけは整っているが、日本人はね。
その事件から数年して出版されたイザベラ・バード女史の記録では、小柄で、醜くて、しなびていて、がに股で、猫背で、胸のへこんだ貧相な人々と記されている。残念ながら、一面でそれは真実だ。
だから、スパイ活動をするならば、イギリスの人間を金で雇って報告させる方がまだあり得る。それなら、たまにの外出でその人間と接触を行うことだけで十分で、公使館から身を隠す必要など更々ないのだ」
「では、どういうことだったのだ」
私は再びティーカップを手に取った。ホームズは、椅子の上で長くなり、眠ったような目を私に向けた。
「それを話そうじゃないか」
私は大きく頷いた。
「その当時の僕は、仕事の選り好みなどしていられなかった。何しろ、最初の数年は探偵としての技術を自分なりに磨こうと思っていたものの、化学実験一つとっても金がかかりすぎるのだ。
加えて、その修業期間中にある程度の名声を得なければ、開業したって依頼人に事欠くのは目に見えている。
マイクロフトはすでに惑星として決められた軌道を回っていたけれど、ダイオジニス・クラブを作るのはもう少し後だったから、日本公使館、ベルメルの自宅とホワイトホールの三点を結ぶ線が軌道だった。だから、僕のところに足を運ぶことはなかったものの、それでも気にかけていてはくれたらしい。
僕は捜査の依頼を二つ返事で引き受けたよ。
そうはいっても、マイクロフトが公私混同をしたというわけではない。スコットランド・ヤードの手に負えそうにない事件、それも公にしてよいかどうかも判らない事件を調べるには、僕以上に適任者はいなかったというのも事実なのだ。
早速、マイクロフトと僕は、馬車に乗って日本公使館へ出かけた。雨が降って憂鬱な昼下がりだった。広くも狭くもない、まあ、普通の公使館だったよ。外見上の特質は、詩情を避けるならば何の変哲もない、ありふれた建物だった。雨が降っていたので、足跡という手がかりは一切期待できなかった。
ただし、その建物に入ると真っ先に驚かされたのは、玄関から正面の一番目立つ、両開きのドアの片方が横二つに壊されていたことだ。おかげで、これが例の部屋だということはすぐに判ったよ。
ただ、事件より先に目を引いたのは、そのドアの壊れ方だった。僕は事件が起きたときには、その事件そのものに対して一直線に進んでゆくものだが、寄り道をしたのはあの一回だけと言っていい。オークでできた厚さが一インチ、幅が六フィートあまりの両開きのドアなんだが、その片方が鍵からすぐ上の部分でまっぷたつに上下に分かれていたのだ。
上下どちらの部分にもちょうつがいがついていたので問題なく開閉はできるのだが、ドアを壊すときは、斧かなんかで鍵の部分をたたき壊すのが普通だ。このやり方には、はっきり言って興味を引かれたよ」
私はここで我慢ができずにホームズに確認せずにはいられなかった。
「じゃあ、どうやってそれを切ったのだろう。オークは決して堅い木じゃないが、堂々たるドアを切るとはただごとではないぜ」
「落ち着けよ、ワトソン君。物事には順番というものがある。僕は、この話を君の書く大衆受けする話のような順番に、整理して話しているのだ」
私は沈黙した。
「部屋は調べてみたものの、特に変わったことはなかった。当時の僕には、指紋を調べる技術もなかったしね。彼らの髪の毛は、全員が真っ黒な直毛で個人の特定は難しいし、この部屋の中で本当に事件があったのかどうかすら怪しいのだ。だって、消えた男は勝手にどこかで消えたのであって、部屋は何らかの方法で鍵がかけられたと別々に考えることだってできたのだからね。
そして、玄関に近いことから判るとおり、日本人達の共通の部屋で、前日まで何の問題もなく使われていたという。掃除も行き届いており、埃の痕跡から推理するということも根本的にできなかった。日本人の清潔好きには、全く驚かされた。この部屋に埃がないのは証拠を隠滅しようとしたのかと思って、公使の私室以外のすべての部屋を調べたが、どの部屋にも埃が全然ないのだ。部屋の鍵にも異常は見られないし、鋸で切られたおがくず以外の塵もない。窓はガラス張りで内側から施錠されていた。煙突も調べたが、小柄な日本人といえども5インチ四方の細い穴から抜け出すのは不可能だろう。
従って、様々な兆候はあったものの、その事件の手がかりだと言い切れるものは見つからなかったのだ。
マイクロフトの紹介で、何人かの日本人に会って話を聞くことができた。総じての印象は、その外見からは想像できないほど礼儀正しい、正しすぎるという印象だった。いつも、イギリス人の、それも専門家であるスコットランド・ヤードの刑事から冷笑を浴びせられることの多い、床を這い回り拡大鏡を使うという捜査方法ですら彼らは礼儀正しく見守っていてくれたのだ。
確かに、国際儀礼に欠けるところはあるかもしれないが、彼らの文化で尊重されているということは十分に伝わってきた。むしろ、高みの見物という失礼を避ける方法は、彼らに我々の方が教わった方が良いぐらいだ。彼らならば、国際儀礼というヨーロッパの方法を覚えなくとも、シティで紳士として誰もが認めるだろうよ。
公使は、我々の常識からすると子供のように若すぎて見えたが、それは見た目だけのことだった。日本人は極めて若く見えるのだ。それでも、イギリスが他国に出しているどの大使より若いことは確かだった。しかし、心痛している自分をしっかり押さえ、取り乱さないでいることでは老練さを感じさせたよ。服装は、ホワイトシャツにネクタイ、燕尾服という正装で、カイゼル髭を生やしていた。我々から見ると、子供が正装しているような姿は滑稽にすら見えたが、落ち着いて話す態度は立派だった。
公使が言うには、消えたのは陸海と二人いる駐在武官の内の一人で、普段から勤務態度は問題なく良いということだった。そして、その男が消えるような前兆は全くなかったということだ。ドアの切断に関しては、まだ斧など用意していないし、今回のようなことが起きるまで用意する必然性も見つからなかったということだ。これに対しては、僕も何も付け加えることができなかったよ。
ドアは、もう一人の駐在武官が鋸で切ったのだという。体当たりも考えたらしいが、彼らはとても小柄だからね。一番大柄な者でも僕より一フィートも背が低いと、イギリスの公館となるような建物の、標準的な大きさのドアに体当たりする勇気は出なかったらしい。あれは僕から見たって大きいからね。
日本の鋸というものを初めて見たが、我々のものとは全く違うものだったよ。長方形で、両刃なのだ。曲がって切ることはこれではできまいから、ドアが横にまっすぐ切られている理由は判った。最初の切り込みには苦労するだろうし、それを裏付けるようにもう片方のドアも傷が付いていたが、鋸が入ってしまえば後は、非常に楽だったはずだ。あり合わせの材を切らせてもらったが、切り口は滑らかで、切れ味は我がイギリスのものが足元にも及ばないほどのものだった。僕も一つ欲しくなったぐらいだ。
消えた男が部屋に入ったところを公使は見ていたのだが、部屋に鍵を掛ける音がしたので不思議に思ったそうだ。共同の部屋なのだからね。ドアをノックしたが返事がないのでもう一人の武官を呼びにいったらしい。その後二人で戻ってくるまでの間は極めて短かったという。僕も公使の歩いたとおりに歩いてみたのだが、二分とはかからないはずだよ。
次に、ドアを切ったという駐在武官に話を聞いたが無口な男でね。日本人の通訳を通した質問に対して直接英語で答えてくれはするのだが、それはあくまで訛りの激しいイエスとノーだけで、自分からはほとんど喋ろうとはしないのだ。僕も手を焼いたのだが、彼は普段からそうらしい。日本の軍人はイエスとノー以外喋るべきではないらしいのだ。もっとも、上官に何かを報告するときは別だろうが、僕はマイクロフトの紹介とはいえ得体のしれない外国人だからね。だが、その時彼からの友好は得られなかったかもしれないが、必要な情報は何とか得ることができた。何の音も聞こえず、消えた武官についても前から何も変化がなかったということのみだが。
公使の話と総合すると、玄関近くの部屋ということもあり、三分以上目が離されることはあり得ないということが判った。常に誰かしらが玄関に目をやっているというのだ。できたばかりの公使館で来客もあるし、受付に人員を割けるほどの人手はないが、来客を待たせるのも悪いということで常に玄関に気を配っているらしい。ということは、前々もってドアに細工をしておくにせよ、三分以内にせねばならない。かといって時間が自由になる夜中に細工をしようとドアを切っていれば、それなりに音がするはずだし、そこで寝泊まりしている日本人の誰一人として目を覚まさなかったのはおかしい。さらに、公使が武官を呼びにいった二分の間に部屋から抜け出し、密室にし、公使館から人目に付かぬように抜け出すというのも、なかなか難しい。
僕はここで行き詰まってしまったのだよ。とりあえず、ドアを切った後のおがくずをいくらか資料とした以外、なにも得るものがないのだ。これだって悔し紛れに集めただけで、事件の起きた後の、空振りに終わった救出劇の残骸から何かが出るとは思いもしなかったけどね。
もう遅くなることでもあるし、公使館は辞去したのだが、気がはやって帰ってなどいられなかった。
そこで、足を使った調査で、もういくつかの線を探すこととした。雨の中、言うにいわれぬ苦労はあったが、ここでは一口でいうことができる。チャリングクロスをはじめとしてすべての駅の駅員に尋ねたが、小柄な日本人は見なかったという。変装しても、なかなか日本人が我々になれるわけじゃない。一駅について複数の駅員に聞いたが変わった不自然な者を見なかったという以上、それは事実と考えて良いだろう。次に乗合、辻馬車のたぐいだが、これも手がかりがなかった。数が多いだけに苦労したよ。ベーカー街イレギュラーズもまだなかったしね。ヤードもこういうときだけは役に立つ。マイクロフトに手を回してもらったのだ。結局、日本人を乗せた馬車は現れなかった。もちろん新聞広告も出した。
結果として、部屋からどの様にして出たかはおいて置くにしても、その後どこへ行ったのかの手がかりすらまったく得られなかったのだ。本当に消えてしまったとしか言いようがない」
「公使の馬車というものがあるだろうし、辻馬車の御者が嘘をつくことだってあるだろう」
ここで、また私は聞かずにはいられなかった。
「調べ落とすものかね。ただし、馬車はスプリングの故障と言うことで、前日から車輪がすべて外されていたのだ。誰かが、拳銃を撃ち込んだらしい。極めて作為的なものを僕は感じたのだが、この事件はスコットランド・ヤードにも届けられていて、犯人は現行犯で捕まっていたのだ。ロンドンの人間が喧嘩をして、片方が脅しのために発砲した流れ弾だという。
その二人も僕自身で徹底的に調べたのだが、日本人とのつながりは一切なかった。ただ、たとえ馬車が使えたとしても、公使館の公使専用の大きな馬車をたった一人で動かそうと言うのはちょっと難しすぎる。四頭立てのにぎにぎしく飾り立てた馬車に馬をつけるだけで一苦労で、公使館にいる人間の目を引くし、街に出たって御者一人ではかえって目に付きすぎる。国交に使用されるような馬車だからね、御者だけ乗せて走っていたらどうしても人目につく。僕は、この件については関係ないとは言い切れないまでも、手がかりとしては扱いを保留にせざるを得なかった。
次に君の指摘の辻馬車の御者が本当のことを言わない場合だが、たとえ金貨の一枚をもらったって、日本人に義理があるわけじゃないし、仕返しをされるおそれもないのに御者達が黙っているものかね。もし、本当に乗せたのなら、もう一枚の金貨をせしめるために彼らはしゃべったさ」
「なるほど、では、君の目を持ってしても本当に手がかりはなかったのだね」
「本当だよ。失意のどん底で僕は自分の当時の下宿に帰ってきたものだ。マイクロフトにも合わせる顔がないし、自分の才能にも疑問を抱いたものだよ」
ホームズは立ち上がると、お気に入りのパイプを弄んだ。
「君の口から、そんな言葉が漏れるとはね」
「まだ、ろくに実績もない頃だったからね。でも、事件は解決したのだ」
「まさか、例のおがくずかい」
ホームズはパイプに煙草を詰めると、暖炉の石炭を火ばさみでつまみ上げて火をつけた。
「とにかく、本当に最後の手がかりでね。いや、他の手がかりがあったら間違ってもそんなことはしなかったと今でも思うが、持ち帰ったドアのおがくずを顕微鏡で覗いたのだ。どんなことでも忽せにしてはならないという良い教訓を得たよ。同時に、依頼人も疑えと言うこともね」
私は身を乗り出し、ペンを振って先を促した。
「そこには、木の屑、一緒に剥げ落ちたニス、さらに半透明の何かがあったのだ。このときほど、喜びを感じたことはなかった。本当に微かな光で、すぐに吹き消されてしまう光かもしれないが、光は光なのだ。
簡単な化学実験の後、いや、化学実験というのもおこがましいが、単なるヨウ素ヨウ化カリウム溶液でその半透明なものはでんぷん質の糊と知れた。ここで必要なのは、ちょっとした想像力だった。
日本帝国は革命的な政治変動の後、我々と友好的な政府が樹立された。それ以前は、イギリスの公使館が焼き打ちされ、日本の刀でイギリスの者が斬り殺されたことすらあるのだ。その時の新聞の挿し絵には、大きな片刃の刀を持った日本人が描かれていた。もしそれでドアを斬ったらどうなるだろう。真っ二つになめらかに切れるのではないか。その後そのドアを糊で接着すれば、ほとんど何の痕跡もなく一枚のドアに戻って使用ができるはずだ。そして、その斬った後をなぞるようにもう一度、今度は鋸で切れば、鋸には切り代というものがあるから、一度切られているという証拠は一切消えるのではないか。おがくずに乾いた糊が混じる以外のね。早速僕は実験をしたよ。
イギリスの剣の中で、もっとも日本の刀に近い形のものを探して、オークの板に斬りつけてみたのだ。結果はさんざんだった。両開きで六フィートのドアだから、片方の三フィートは斬らなければならないのに、三インチ以上どうしても切り込めないのだ。おまけに切り口はぼろぼろに荒れていた。
僕はこの仮説をあきらめるしかないと思ったのだが、念のために、コベントガーデンの食肉市場で、吊された皮を剥がされただけの豚にも斬りつけてみたのだ。いつぞやの銛を使った事件のようにね。その結果もさんざんだった。肉には筋状の痕しか残らないし、吊されているものだから大揺れするし、大きな音はするし、肉屋の主人には文句を言われるし、ただし、刀を使うのには相当の熟練が要だということだけは判った。逆に言えば、生きた人間を斬れる腕があれば、当然豚肉も、そしてオークの板も切れるという証明にはならないか。認めがたいが、僕には剣を振るう腕がなかったという証明にもなったよ。
これは大きな前進だった。何かを隠している男が正確にわかったのだからね。おそらく、公使館近くの喧嘩は故意か否かは判らないが、その時に、刀でドアを斬ったのだ。斬ったときに激しい音がしたかも知れないが、それは、銃声に紛れたのだろう。その後、ドアは糊で貼り付けられた。翌日、消えた男は公使に見せつけるように部屋に入り、公使がドアの前から立ち去ると同時に部屋を出て、強くドアを叩いて糊を剥がした。ドアを上下バラバラにした後、鍵を掛けてまた上下のドアを糊で張り付け、密室にしたのだ。これならば、30秒もあれば十分だ。その男がどこに消えたかは別として、その糊で貼り付けた部分を鋸で切ったもう一人の武官こそが嘘の証言をしていることになる。
ただし、ここで僕は一つ困ってしまったのだ。
僕の推測が正しいとすると、日本公使館では公使も知らないうちに、イギリス政府ではマイクロフトも知らないうちに、日本の武官二人とイギリス政府の上層部がこの事件を演出したとしか考えられないからだ。だってそうだろう。もう一人の武官の細工に協力をしたイギリス人二人の喧嘩に日本人が絡んでいないことは僕自身が調べたのだ。ならばイギリスの方で演出したとしか考えられないじゃないか。まして、公使館から消えた男が公使館の馬車でも街の辻馬車でもない馬車に乗ったとすれば、イギリス政府の馬車しかないのは必然じゃないか。しかし、すべての可能性が否定されたとき、残ったものが真実でなければならないのだ。
翌日、僕は、兄とともにもう一度公使館へ行ったよ。兄にも、夕べの発見は話さなかった。いや、どう話していいかが判らなかったと言っていい。黙りこくったまま公使館について、公使に挨拶した後、武官を呼び、マイクロフトと二人で通訳を介して四人で話した。話がドアのおがくずに及んだ時、僕はこの事件で何度目かの驚きを味わうことになった。武官はいきなり立ち上がると日本語で何かを言って日本人通訳を部屋から追い出したのだ。同時に、通訳を介しての話以外はイエスとノーしか解らないと言う顔をしていたのが流暢なキングズイングリッシュを話しだしたものだから、マイクロフトと僕は顔を見合わせたよ。最高機密で、通訳にすら知らせていない内容だと彼は言ったのだ」
「では、その男が犯人だったんだね」
私はメモ帳をとり続けながら聞いた。
「犯人と呼べるようなものだとすればね」
ホームズは注を入れた。
「かの国では、鎖国をしていたとはいえ、国際感覚を失っていなかったということがよくわかったよ。武官は言葉が判らないふりをして、我々からより多くの情報を引き出そうとしていたのだ。僕と兄は安心して日本の武官の前で英語で相談していたからね」
ホームズは冷めてしまったカップをテーブルの上に放り出し、パイプに煙草を詰め直した。私は暖炉に石炭を足した。再び赫々と燃えあがる暖炉の火を見つめながら、私は話を進めた。
「真相はどうだったのだい」
「ロシアだよ。日本は、ロシアと海一つ隔てて向き合っている。我が英国がドイツと向き合っているようにね。日本はロシアにスパイを送り込みたかったのだ。そして、英国の外務省の上層部もドイツとのケリを付けたら次はロシアという認識がある。日本政府の上層部数人と英国政府の上層部数人が同じ結論に達するのに時間はかからなかった。ロンドンで消えたことにすれば、ロシアも疑うまい。まして、マイクロフトと僕、場合によってはスコットランド・ヤードという英国政府の捜査にも見つからなかったといえば、至極奇怪な事件というだけでことは終わる。その筋で物事を進めるために、公使には知らせるわけにはいかなかったのだ。公使が本気で不思議がっていなければ、僕らを始め外国のスパイをだまくらかせるものかね」
「では、君がおがくずを顕微鏡で覗かなかったら、すべては秘密のまま、イギリス政府の手によって日本人のスパイがロシアに潜入していたのだね」
ホームズはパイプの煙の中から答えた。
「その通りだ。そして、この件に対して最後の驚きが、僕とマイクロフトを襲ったのだ」
「というと」
「日本公使館の駐在武官からその話を聞いているさなかに、なんと外務大臣のジェームズ卿がその部屋に入ってきたのだ。僕とマイクロフトは思わず立ち上がって大臣を迎えたよ。日本の武官が日本人通訳を部屋から追い出しながら最後に何か言ったのは、大臣のお出でを願えということだったらしい。大臣は、それでここへわざわざ足を運んだのだ。そして、我々は、大臣から謝罪と秘密を守ることについての正式な要請を受けたのだ。大臣と日本の武官は本当に少数の人数で、スコットランド・ヤードを対象に作戦を立てたと言った。僕は、その二人だけで考えたと思う。確かに僕というものさえいなければ、素晴らしい作戦だったと思うよ。ところが捜査にはマイクロフトの働きで僕が当たることになり、スコットランド・ヤードなら見向きもしないはずのおがくずを僕が持って帰ったので、秘密が明らかになる覚悟はしていたらしい。彼らは、あきれていたよ。そんなものを顕微鏡で見る僕という人間にね。と同時に、それは、我々兄弟に大きな道を開くことになった。兄はより政府の中枢を、僕には高貴な方々の顧客というね」
「そうだったのか」
私は頷くばかりで、何も言うことができなかった。
「広いロシアには、日本人に似た民族がいるから、日本人の潜入には問題がなかった。ロシアにしても、ヨーロッパ側から日本人が入りこむとは思わないだろうしね。公使館の前で喧嘩をして見せたのは、予想通り英国の外務省の雇った人間だった。道理で日本人との接触はないはずだよ」
「それも、ロシアに対する目眩ましだったわけだね」
「そうだよ。馬車に流れ弾が当たったのは本当に偶然らしい。そういう意味では、証拠の保留処分という僕の判断は間違っていなかったということだ。その後、僕の捜査や実験の話を外務大臣と日本武官にしたのだが、僕が豚に斬りつけた話では二人とも大笑いをしていたよ。マイクロフトは笑わなかったがね。
ただ、その豚が斬れなかった話のおかげで、日本武官が日本武道を僕に教えてくれることになったのだ。ボクシングのようなゲーム、もしくはスポーツではなく、戦いというものを彼は教えてくれた。得てして追いつめられた犯罪者は何をするか判らないものだ。フェアという考え方は彼等には無いからね。しかし、そのような時の対応法のすべてが日本武道にはあったのだ。
僕がよい生徒だったとは言わない。日本の柔術というものは、倒れ方から学ぶのだ。安全に倒れることを覚えると同時に、手酷く投げつけられたり、転がされたり、殴られたり、さんざんな目にあって泣き言を漏らしたのも二度や三度じゃなかった。なにしろ、僕がそれなりにできると思っていたボクシングなど、二回りも僕より小さな日本人にどうにも通用しなかったのだ。しかし、基礎体力はあったことだし、一年も経つと、僕にも戦いというものがどういうものかおぼろげに判ってきたのだ。それと同時に、その武官以外の日本人になら辛うじて勝てるようになった。近頃じゃ、日本武道はバーリッツの名で英国に紹介されているからその言葉を僕も使ったが、僕が学んだのはより日本の伝統に近いものなのだ。モリアーティ教授がそんな僕に格闘を挑んだのは、追い詰められていたとはいえ、彼らしくない無謀だったのだよ」
「では、君が学んだのは、正確にはボクシングと棒術ではないと言ってよいのだね」
ホームズは高い声で愉快そうに笑った。
「日本人武官の忠告だよ。ボクシングと棒術といいながら別の技を出せば、相手の意表をついて勝利を得るのがより簡単になる。何しろ、日本の武道を見たことのある英国の人間は、ほとんど全くいないのだからね。僕がボクシングと棒術をやるということがこれほどまでに犯罪者達に知られていながら、格闘に僕が負けないのは当然なのだ。僕が使うのはボクシングと棒術ではないのだから。
日本人のものの考え方というのは、とてもおもしろかったよ。君には迷惑を掛けている、計画を秘密にするやり方も、日本人に教わったのだ。敵を騙すためには、まず味方を騙すというようなことをね」
ホームズは、しばし暖炉の火を見つめた。
「将来、英国と日本が軍事同盟を結ぶことになっても、僕はいっこうに驚かない」
私は、ホームズをしげしげと見ながら聞いた。
「ホームズ、君は、もう、丸のままの豚を斬れるのかい。それから、僕がこの話の原稿を発表してもかまわないのかな」
「ああ、日本の刀さえ使えるのなら、二頭を刀の一振りで輪切りにできる。だから、僕の強さについては疑う必要はないのだ。もう一つのことについては、僕が犯罪者達と戦わなくても済む引退後にして欲しいものだね。さらに、日本公使館にも問い合わせてからにして欲しい。ロシアと日本の間では、ますます緊張が高まっているのだから。しかし、国の大きさが違い過ぎるから、日本がロシアを征服するとは思えないが、ロシアが日本に勝つことも絶対にあり得ないね。発表はその決着がついてからでも遅くはないのじゃないか」
私は、ホームズのその言葉を了として、筆を置いたのである。
注
この文章は、故ジョン・H・ワトソン博士が出版に当たり、内容の微妙さの故、日本公使館にその可否を問い合わせたものと考えられる。発表の可否の決裁を待つ間に日清、日露戦争の混乱期を挟んだため、決裁文書ともにワトソン博士自筆の英文原稿は紛失扱いになってしまったものらしい。
これは、曾祖父の英国外交官時代の書類を整理したという、曾孫宅の蔵から発見されたものである。
内容については、スリー・クォータの失踪事件の直後と思われる。
なお、文中にある当時の駐在武官の曾孫宅にもホームズとの交友を裏付けるように、かなりの原稿らしきものが残されていたらしいが、第二次大戦時に空襲に会いそのほとんどを焼失した。現在、焼け残ったものがないか、調査中である。