☆暢気な母と、父の苦悩★
その日、私と彼は子供が出来たらと言う話題をしていたように思う。
出会ってから400年余り。
連れ添ってからは300年近くになると言うのに、未だ子供が授からない事から、私は彼との子供が出来る事は無いのだろうとそう思っていた。
彼も、そう思っているのに違いないと考えていたのに、『何故?』と思ったのを覚えている。
それは、この世界における生命を創りだす事が出来る彼が、私の中に芽吹こうとしている、小さな生命に気が付いていたからだったと分かったのは、突然暗闇に覆われたその時に、彼女の魂が私達の目の前で奪い去られたその瞬間の事。
「スピネル。」
手の中に残った、小さな『わが子』の欠片に声が震える。
私の、赤子の、左手のひじから先が、手の中から霞の様に消え失せた。
それと同時に、自分の胎内でトクン、と小さく自らとは別の小さな小さな心臓が動き出すのを感じる。
「スピネル……スピネル?」
「落ちつけ、レプトス。」
そう口にしながら、私をソファに引きもどす彼の手も震えていて、その事に何故か安堵した。
今のは、私だけがみた幻ではないらしい。
「今の……」
「あれは、俺達の……娘、か?」
「そう、だと思う……」
突然、目の前に現れた、『人』の形を保ったままの魂。
彼女は、いつも私の元に還ってくる魂とは、明らかにその質からして違っていた。
アレは、私達の『仲間』だ。
そっと、彼の手が私の下腹部に触れる。
「……ちゃんと、動いてる。」
怜悧な、と表現されがちな彼の顔が微かに歪む。
半ば伏せられた長いまつげから見える灰色の瞳に、薄く膜が張っているのが見えた。
彼の肩から緊張のあまり入り過ぎていた力が抜けていくのが見て取れる。
「さっき、動き始めたのを感じた。」
「そうか……。」
「急に、家族が増えたらなんて話し始めたからどうしたのかと思ったのだけれど……。」
「あれは、どうなったんだ?」
あれと言うのが、今さっき目の前で奪い去られた『子供』の事だと言うのは容易に理解出来た。
「左の肘から先だけを残して連れ去られた。」
彼の目が、驚きに見開かれ、ややあってから掠れた声がその口から漏れる。
「お前から……『魂の護り手』から、『魂』を奪い去った?」
『あり得ない』そう、彼の目が言葉にされなかった思いを語っているのを、苦々しい思いを噛み殺しながら頷く。
「『本人』が望んだから、引きとめる事が出来なかった。」
先刻、目の前に現れた小さな小さな私の娘の魂。
きっと、幼い頃の私に良く似ていたに違いない、ふわふわの黒いくせ毛に藤色の瞳の少女が、連れ去られる直前に伝えてきた言葉が脳裏によみがえり、少し心が落ち着いて来るのを感じる。
「『今は、駄目』らしい。」
「『今は』?」
自らの中に宿った新しい生命を在る腹部にそっと指を走らせながら、夫にその言葉を伝えると、気にくわなげな声音での返答が返ってきた。
「そう、『今は』。」
あの瞬間に何か、『駄目』な理由があったのではないかと、少し心が落ち着いた今はそう感じる。
夫と言葉を交わしたお陰か、それに気づく余裕が出来た。
有難い。
だとしたら、あの瞬間が終った『今』は状況は変わっている筈だろう。
「スピネル。」
「なんだ?」
「お腹の子に、障りなく旅が出来るのはどれくらいだろう?」
不審そうに彼の片眉が一瞬上がり、それから愕然とした表情に変化して行くその反応を『可愛いな』と思いながらこっそりと楽しむ。
「おま……お前、まさか。」
「娘を迎えに行くのは、親の役目なのだろう?」
暫くのあいだ、口をパクパクしながらモノ言いたげにしていた彼は、頭を抱え込むとうめき声をあげはじめる。
「少し、待て。方法を考える。」
「ちなみに、場所は南東の方角。物凄く……遠い。」
参考の為にと、方角と何となく感じる距離を伝えた。
胎の内に彼女の欠片があるお陰で、ざっくりとした方角と距離を測る事が出来るというのは有難い。
ソレを聞いて、スピネルの上げるうめき声が喚き声へと変化する。
「くそ!!!!! お前との子供の事じゃなければ!!!!!!!」
長閑な昼下がり、我が愛しの夫の美声が家の中に響き渡った。
こんな風に激高するのは久しぶりだな。
彼のその声を耳に、目を細めながら新しい生命の宿ったお腹を擦る。
スピネルは、そうしょっちゅうという訳ではなかったが、以前の旅の途中ではこう言う声を上げる事があったのだ。
ここに定住してからは、そう言う事も無かったのだが……。
彼の性質が変わったのではなく、ただ単に儘ならない事態が起こらなかった為だったらしい。
さて。
家出娘を、どうやって捕まえよう?
そんな風に考えながら、本心では何百年ぶりかの旅への期待に胸が高鳴るのを感じる。
以前の旅の道中は、夫と心を通わせられずに悲しい思いをするばかりだったけれど、今回はきっと違うものになるに違いない。
スピネルが、横で難しい顔をするのを眺めながら席を立つ。
「レプトス?」
「荷造りをしないと。」
その言葉を聞いて、彼は弾かれたように立ち上がり、もう一度ソファに私を押し込めようとする。
「お前は妊婦なんだから、大人しくしてろ!」
「大人しく……どれくらい?」
「多少の運動位ならいいが、お前の場合は散歩までだ。」
「ソレは運動とは言わないのではないのでは……。」
「うるさい! お前の『軽い運動』がおかしいんだ。」
魔獣の10頭や20頭を狩る位、ほんの軽い運動なのに。
「魔獣狩りは、軽い運動じゃないからな。」
「では、どんなのが軽い運動なのだろう……?」
軽い運動の基準は、走るかどうかだと前に彼は口にしたはずだ。
魔獣狩りで走る必要は一切ないから、軽い運動に分類されると思っていたのに。
「お前の場合、俺と一緒に買い物に行く位を基準にしろ。」
「それでは体が鈍ってしまう。」
「と・に・か・く! 荷造りも俺がするから、お前はここに座っていろ!」
口を尖らせて反論すると、感情的な返答が来た。
この分だと、なんのかんので娘の魂を見付けに出る事は叶わないかもしれない。
もしもスピネルが、妙な時間稼ぎをしようとするようならば……。
その時は、1人でさっさと旅に出る事にしよう。
そう結論を出すと、彼の言う通りに大人しくソファに腰掛けて、スピネルが広くも無いこの家の中を行ったり来たりする姿を楽しむ事にする。
なんだか、リスが冬籠りの支度をしている姿に似ていて可愛く見えて、思わず笑ってしまうと、ムッとした表情が返って来て更に笑いが込み上げてくると言う悪循環に陥り、こっちのほうがよっぽど魔獣狩りよりも疲れるなと、頭の片隅でそう思った。