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幼稚園から戻って散歩に行くと称してバスに乗り込み、県警本部前で降りて入って聞いてみる。
先日、園児バスにナイフを持った人が乗り込んできたんだけど、お芝居なのを知らずに怪我させちゃったんだと。
そう話すとちょっと来てくれと言われ、あれが県警の差し金なのを知る。
どうしてあんな事をしたのかと、真面目に聞かれて呆れたが、現行犯は刑事じゃなくてもやれるからですと答えた。
妙に詳しいねと言われるが、事前連絡も無しにいきなりのバスジャックの演習とか、それを芝居と見抜けと言うのは無理が無いですかと言ってやった。
ナイフが玩具というのは後で気付けたけど、当時はそんな事は思えなかった。
運転手を脅しているように見えたから、後ろから蹴飛ばしてやったんだと。
お尻を打ったら痛いから、蹴飛ばしたら凄く痛がって、だからいけると思ったんですと。
この年齢の女児に男の股座の事など判らないのが普通だし、下手に睾丸とか言わないほうがいいはずだ。
しかし、本当なら罪になるとか言うものだから、なると思えば調書を取って書類送検すれば良いじゃないですか、と言ってやった。
やってみなさいよ、5才女児の拘留を。
罪になると言うならやれるはずよ。やれないのなら、いい加減な事を言わないでよと言うと、
生意気な事を言うと本当にそうするぞと、まだ誤魔化せると思っているところが救われない。
隣の警官が困ったような顔をしているので、この人は本当に採用試験受かったの? と聞いてやった。
言った奴は怒っていたが、隣の警官は苦笑い。
ああ、新人さんか。
新人教育も大変ですね、ご苦労様ですと言うと、あはは、本当に賢いお嬢ちゃんだと。
男のほうはもう何と言うか、5才児相手に殺気送るなよ。
先輩にあんまり苦労かけんじゃないわよと言い、もっと法律を勉強しなさいと言ってやった。
でも危険だからそういうのは気を付けるんだよと言われ、改めて無罪放免となった。
犯人役の人には申し訳なかったですと、お伝えくださいと告げて本部を出た。
うん、本当に申し訳無い。
あんな生殺しにしちまって。
戦場で出会ってたら止めを刺してあげてたんだけど、生憎とここは日本。
罪にはならなくても補導されるからさ。
そういうの、世間は色々と煩いからさ、今はまだおとなしくしてないとダメなのさ。
タマは散々蹴飛ばして、恐らくは潰れたと思うから、今後の人生は恐らく暗いとは思うけど、考えようによってはお得だぞ。
相手が居なくても発散の必要が無いし、男性ホルモンが無くなればハゲないぞ。
多少身体が女性化するかも知れんが、今は男性用のブラもあるから問題あるまい。
あんまり悪いほうにばかり考えずに、良いほうに考えて生きて行けばいい。
なんて、加害者が言う事じゃなかったな、クククッ。
しかしなんだね、このバスという乗り物は大人向けに拵えてあるのだね。
5才児が使うと乗り辛いのなんのって。
園児バスとは訳が違うな。
よじ登って座った後は、降りる時に背伸びしてボタンを押し、降りる時には飛び降りる勢いで降りないといけないんだな。
土足でソファに立って悪かったと思うが、降車ボタンの位置が届かないんだから仕方ないだろ。
それはともかく、家に帰ると、何処に行っていたのかとしつこく聞かれる。
散歩と答えたのに、バスに乗り込むところを近所の奥さんが見たとか言うんだよな。
それなら最初から、バスに乗って何処に行ってたのかと聞くべきだ。
子供に対しては、退路を断ってから言わないと、浅知恵を使って誤魔化せと言っているようなものだ。
退路を断てば逃げ道が無いから素直に話すのに、色々あるからその場しのぎをしてしまう。
その結果、嘘ばっかり言ってとかって事になるのだ。
しかしな、お前らはそう言う事をしないか?
井戸端会議の時、ひたすら誤魔化しているのを聞いた事があるぞ。
自分の事を棚にあげて、偉そうに言うんじゃねぇよ。
まあいい、ここはこう言ってやろうな。
興味があったから乗ってみたけど、園児バスと違って乗り難かった。
あれは大人向けの乗り物なのね…と。
そして、次の停車場で降りて、反対側のバスで帰ったと。
母親はしばらく考えていたようだけど、賢いのねと考え方を変えたようだ。
どうやら興味と好奇心のままに、色々自分で考えて行動していると思ったようだ。
普通は試行錯誤になるんだけど、かつての経験からそれが極端に少ないだけだ。
まあいい、そう言う事ならひとつ、おねだりなるものをしてみるか。
習い事がしたいので、幼稚園は止めたいんだと話す。
あんなのつまらないし、先生達も猫なで声で気持ち悪いと。
あそこは勉強をする環境にないので、やれる場所に行きたいのだと。
ますます考え込む母親。
かつての弟をしのぐ秀才と思ったかな。
もう底辺作戦は止めだ。
あれは自由があるけど、この日本じゃ住み辛い。
だから英国永住なんて事になっちまったんだ。
まあ、日本で死んだけど。
秀才の名の影で何かしたほうが良いかも知れん。
全く逆のプランだけど、どうせ2回目の人生だし、違う事をやったほうが面白いに決まってる。
◇
その夜、両親はオレの事について色々話し合い、そう言う事なら何か習わせてみるかという結論に至ったようだ。
習い事をやれば幼稚園に行く暇は無くなるだろうし、本人も嫌がるなら無理に行かせる事もあるまいと。
そんな訳で翌日、母親に連れられて市街地にお出かけだ。
さすがに英語はパスだ。
この国で英語と言えばキングスだけど、オレが馴染んだのはクイーンだ。
確かに両方喋れなくもないけど、混ぜるな危険ってやつだ。
どうにも混ざるんだよな、両方いけるにしても。
だからもうクイーンで統一しようと思うから、英語はパスだ。
しかしな、外国語講座は良いが、英語しか見ないと言うか。
出来ればイタリア語とかスペイン語とかやってみたいが、どうにも無いようなんだよな。
案内所で色々と見てみるが、本当に…あった。
ここに行ってみたいと母親に告げ、イタリア語? と変な顔をされた。
てっきり他の習い事だと思ったらしい。
ううむ、あんまり奇を衒った習い事は拙いか。
仕方が無いが、ここは路線変更だ。
とりあえず体力を付ける目的で、身体を動かす系の習い事を探す事にした。
女向けと言うのも嫌だが、ここは一応男女がやらなくもない、エアロビを選ぶのだが。
むむむ、何でそんなに渋い顔? 仕方が無い。
フィギュアスケート…ダメか。
ならば柔道…論外か。
剣道…ダメか。
長刀はどうだ……ダメか。
どうにも指差すと変な顔をしたり渋い顔をしたり…口で言えよな。
しかし、弱ったな。
身体を動かす系の習い事は嫌なのか?
だが、やるのはオレなんだぞ。
ダメ元で拳法を指差すも、母親は他の所を指差してくる。
茶道、生花、習字、算盤、礼儀作法…花嫁修業かよ。
よし、これでどうだ。
お、笑顔になったな…あれ、しまった、隣を指差しちまったぞ。
待て待て待て、申し込みに行くんじゃない。
隣だ、隣。
あああ、話を聞けよコラ……それじゃねぇぇぇ…
護身術なら良いだろうと指差すつもりが、隣のピアノになっちまった。
楽器はあんまり好きじゃないと言うか、そりゃ全然って事も無いが。
ピアノはかつて、ちょっとしかやった事が無いんだぞ。
ロンドン郊外に居を構えた時、老後の手習いにと買いはしたが、1年も使わないうちに観光旅行であんな事になっちまって。
だから腕前のほうも大した事が無い。
所詮は暇潰し用に過ぎなかったんだから。
それをやれと?
はぁぁ、なんでオレ、指差し間違えたのか。
つい、かつての指の長さのつもりで距離感が狂ったに違いない。
そりゃ確かに今の指も短くはないが、成人男の指には敵わない。
まあいい、とりあえず始めてみますかね。