五話
ふと、誰かが傍に居る気配がして目が覚めた。
というよりは、目が覚めるかも、というタイミングで、誰かが傍に居るな、と感じた。
その時だ。
「千鳥」
「ん、何?」
「うお!?」
ちょうど名前を呼ばれたので返事をすれば、慌てふためく、よく聞いたことのある声。
伊波だ。
てっきり、こちらが目を覚ましたのを察知したのかと思ったが、そうでもないようだ。
「何? どうしたの?」
「どうしたのって、それはこっちの台詞だよ。覚えてないの?」
動揺した件について聞いたけれど、逆に問いかけられた。
そこでハタと、自分がカーテンに仕切られたベッドの中にいて、……ここは何処だろうと考える。
「覚えて、って、あー」
「図書室で倒れたんだよ、千鳥」
今の状況から、ここに来る最後の記憶を思い出す。
伊波と図書委員の娘が楽しそうに話していた様子を見て、酷いショックを受けた私。
今、少しすっきりとした頭で考えると、どうしてそこまで思い詰めたのか自分でもわからない。
「思い出した」
「それは良かった。保険医からは、寝不足だろうって言ってたけど、なんか心当たりは?」
「あぁ、うん。ある……ね」
それはもう、ガッツリとある。
少しだけ顔が赤くなるが、見えていないのだから気にしない。
「えっと、あれだよ、こう……考え事を、4時ぐらいまで、ちょっとね」
言葉に出してから、更に顔に熱が集まる感覚を覚える。
君の事を考えてたんだよ、とは口が裂けても言えない。
「4時か……」
慣れてないとキツイよな、と、口から零れるように伊波は続けた。
「ごめんね、心配かけた。面倒だったよね」
「かなりびっくりした。あとは別に面倒とか気にしなくてもいい」
「ありがと。保健室の先生は?」
「今はここに居ない。書類書いてたし、たぶん職員室とかに向かったんじゃないかな」
「そう……」
先生には、感謝の言葉を後で伝えておこう。
そして、ふっと思う。
思ったまま口に出る。
「私倒れたってことは、誰が運んでくれたの? 先生?」
「いや、俺」
「ふぅん……」
「……」
「……」
妙な沈黙が、お互いの間に生まれた気がした。
カーテン越しで良かったと、心底思う。
顔は既に薄くなった赤色ではなく、真っ赤になっていることだろう。
ドキドキと、心臓の鼓動が一瞬で跳ね上がる。
決して長くはないはずの沈黙の時間が苦しい。
という事は、私は伊波に……お姫様抱っこされてたんだろうか!?
「ご、ごめん! 重かったよね! 私硬いし!」
自分で口にしてから、何を言ってるんだと思う。
硬いってなんだと思ったけど、筋トレはほかの女子よりしているわけだから、たぶん間違ってない。
「ああ、いや、軽かったよ! そんなことないし! 柔らかった!」
「え、ええ!? そそっそう? それなら良かった!」
「だ、だから大丈夫!」
ガタガタと、椅子の足が不安定に地面を叩く音がする。
それに続けて、小さく俺は何を言ってるんだ、的な言葉が聞こえた。
思わず出してしまった言葉に、思いもしない言葉が返ってきて、動揺の所為でベッドがぎしりときしむ音を立てる。
彼が居る方向に顔を向けることも出来ず、ごろりと背を向けるように体勢を変える。
鼓動は今や、マラソンをした後のように激しくなり、息苦しさすら覚えて、そんな自分に気が付かれたくなくて、白い掛け布団で鼻の半ばまで持ち上げて隠す。
ふぅと一息ついた声が聞こえた。
「……元気そうだね。もう少し、用事が無いなら1時間ぐらい寝たらどう?」
「そう、だね。どうせ今日は何もないし。うん。そうさせてもらう」
「そうか。お休み」
「うん」
そこで、鞄を開ける音がする。
ついで、椅子が遠くに置かれる音がして、あぁ、帰ってしまうんだなとちょっとだけ寂しくなった。
……それが間違いだと気づいたのは、一向にドアの開く音がしてこないのと、紙が捲れる音が小さく聞こえ始めたのに気づいた時だ。
いや、たぶん先生なりなんなりを待っているのだろう、そうだろうと結論付けて、さっさと寝ることにした。
もしかしたら、なんて淡い期待を気にしてたら、1時間経っても絶対寝れないから。
瞼を閉じると、さっきの興奮なんて無かったように、数分と待たずに夢の中へと落ちていった。
===
「君は、……確か、城ヶ崎さんの友人だったかな」
聞きなれた名前と、あまり聞きなれない声に振り向くと、そこに居たのは白衣を見に纏った、保健室の先生。
私とはほとんど接点は無い。
無いが、委員長や生徒会の手助けをしている時によく見かける人だ。
「こんにちは。何か、ご用でしょうか?」
「特には。……いやちょっと待ってほしいな。用なら確かにある」
こちらが見ている前で、途中考えるような仕草で一瞬、目を閉じて顔を上に向けると、すぐにこちらの目を見返して告げてきた。
この人の目つきは鋭くて、女子の一部の間で人気がある。
「もし、長めな用事でしたら……」
両手に抱えている物を見せる。
持っているのは藁半紙。
「ん。職員室への用事かな。なら私も同じなんだ」
直ぐに察してくれる。
隣に先生が並び立つと、そのまま連れ添って歩く。
「はい。クラス人数分ではないですけれど、この分量でも中々重くて」
「大変だな、委員長は」
「違います」
「ん?」
「私、委員長じゃないんです」
ん? という表情のまま、また先生は虚空を眺めて、こちらをチラリと見てから視線を前に戻した。
『職員室』の札がぶら下がっている部屋が遠くに見える。
それと行き来する若干の先生方。
「私の認識では、君はクラスの委員長や、それに属する人だと思っていたのだが?」
首を振る。
よく、誤解されるような振る舞いをするので、よく間違われるが、自分からはあの面倒な役割をするつもりは無い。
無いのだが、手元の紙束はその意思と振る舞いの矛盾を指摘するように、重い。
「委員長は別にいます。これは……その、性格のようなものです」
「性格、性格ね。はは、それは難儀なものだね」
「ええ。でも、嫌いではないですわ」
職員室前へと辿り付く。
開けてくださいますか? と尋ねる前に、扉は保健室の先生によって開けられた。
「ありがとうございます」
「このぐらいどうってことない」
礼をした後、職員室へと踏み込む。
失礼します、と一言かけてから、担任の机へと向かう。
放課後の職員室はのんびりしたもので、お茶を飲みながら談笑している先生が何名か見受けられる。
「早川先生」
「神楽か。……また頼まれごとか?」
「はい。この後、委員長がやってくると思います。少々回収に手間取っていたようで、先に来てしまいました」
しょうがない奴だ、と少しだけ頬を顰める担任。
「ここに置いといてくれ」
「はい」
その話の隙間に割り込むように、保健室の先生が口を開く。
この人も、早川先生が目的だったのか。
「早川先生。大事ではないですが、おたくの生徒が倒れましたのでご連絡です」
「なんだと?……大事でないなら、大丈夫か」
「ええ。睡眠不足と……何かしら、緊張が切れるような事態でもあったのでしょう。夏休み前ですし」
ちょっとだけ、笑みを見せた表情から、そう対したことではなかったのだろう。
ただ、自分のクラスとなると、誰だろうとは疑問に思う。
「それで、生徒の名前は?」
そこでチラリと、こちらを見た後、脇に抱えていたバインダーを手渡しながら告げた。
「城ヶ崎さんです。今は保健室で寝ていますが、一時的なものですので、少しだけ休めば問題無いでしょう」
「そうか」
保健室の先生と担任との会話で、千鳥の名前が出たことに若干の動揺はあったものの、私への用事というのはこれに関連したものだろうというのは予測がついた。
そのまま、業務的な会話と、書類のやり取りを続ける二人の傍らで、呆れたようにため息を吐く。
緊張が切れるって、どうせ伊波くんが絡む事なんでしょうね、と。
そこから、教室にある千鳥の鞄を持っていくように頼まれるのに時間はかからなかった。
===
カーテンの向こう側が静かになってから少し経ち、意図的にゆっくりとした動きで保健室の扉が開かれた。
読書を中断し、今は先生が居ない事を告げようとして、入ってきた人を見て口を閉じる。
「こんにちは、伊波くん」
令嬢が、窓辺で本を片手に問いかけるような声が耳を打つ。
入ってきたのは、黒ぶちの大き目な眼鏡とおさげが特徴の、千鳥の友人の神楽さんだった。
ちょこまかとした身長で、近くに立つと身長があまり高いほうではない自分でも、頭一つ分なお小さい。
そのルックスに、凄まじいまでの人気が一部男子の中であるのは、十分納得できる。
「あっ……と、神楽さんか。どうかしたの?」
余計な事を考えるのをやめる。
「道すがら、保健室の先生と会いましてね。千鳥は?……寝ているのね」
「あぁ、うん。さっき起きたけど、二言三言話した後、また寝たよ。元気……うん、あれは元気そうだった」
「ふぅん。大事が無いようであれば、別にいいわ。千鳥の荷物を渡しに来ただけですし、私は」
軽く笑みを浮かべると、神楽さんこちらに近づき、手に持っていた鞄を丁寧に置いた。
近づかれて屈まれると、お洒落な女子特有のふわっと香る良い匂いに少しだけ緊張する。
なお、屈まれても別段困るようなスタイルではないのは救いだ。いや残念じゃないです。
しかしなんというか、相変わらず良いトコのお嬢さんという感じがする人だ。
全体的に優雅な雰囲気を纏っている。
日傘を差しながら、それらしい服装を着ていればさぞ映えるだろうと時々思う。
見た目は委員長なのにな……、と思っているとちらりと視線が合い、思わずそらす。
「どうしたの? 伊波くん」
「いや、その、何でもない」
「おかしな人」
ふふ、と笑う声さえも抑えた感じで上品だ。
でも完全に委員長なんだよな。
別クラスの奴から話を聞く限り、かなり度量が深いらしい。
頼まれると二つ返事でだいたい引き受けてくれるし、逆に何か進行上のトラブルとかあってもだいたい解決してくれる、頼もしい人物との事。
実際のクラス委員長は居ることは居るが、だいたいは彼女が仕事をしているらしい。
文化祭の時に、気が付いたら運営の議長補佐を務めていたというか、議長『が』補佐になっていたという逸話は有名だ。
「それじゃ、私は帰るわ。千鳥によろしくね」
返事を返す前に、少しだけ悪戯っぽく笑うと、「千鳥『を』よろしくね」と言いなおした。
「今の時間じゃ、帰る時は少し暗いでしょう。男の子なんだから、送り向かいぐらいしてあげなさい」
「は、はぁ」
「それとアドバイスだけど」
「うん?」
出口手前で振り返ると、屈んだ際に肩に乗っかったお下げを手で払いながら、告げる。
悪戯っぽい笑みは継続していて、表情は少しだけ楽しそうだ。
「良い女の子って、何時までもフリーじゃないのよ? よく考えて動きなさい」
「……ん? ええと、それは神楽さんの事か?」
「ふふ。馬鹿ね、私じゃないわ。でもありがとう」
これ以上追及しても無駄そうな雰囲気だ。
「それじゃあね。さよなら」
「あ、うん。さよなら」
なんだか意味深に問われた後、入ってきた時と同じように、静かに保健室から出ていってしまう。
嵐というほどではないが、そのスピーディかつ大人っぽい対応に、ぽかんとして扉を見つめ続けてしまう。
足元を見れば、千鳥の鞄。
神楽さんと千鳥の仲が良いのは見ればすぐわかることだが、あの二人が並んで歩いている場合、姉妹のように見える時がある。
快活で大きい妹と、物静かな小さな姉の二人だ。
身長だけ見ればまったくの逆だが、そこは神楽さんが持つ独特の雰囲気でそうはならない。
「良い友人を持ってるよな」
小さく呟くと、読書を再開した。