四話
保健室で、先生と話す。
千鳥は既にベッドの中だ。
「まぁ、睡眠不足だろうね。緊張の糸がプツンと切れたようなもんだろう。すぐに目を覚ますよ、これなら。運んでいる最中、少しだけぐずってたしね」
「…はぁ」
「なんだ、もっと酷い症状のほうが良かったか?」
「いえ、……大事が無いのであれば、それが一番だと思います」
「いい返答だ」
千鳥が倒れた瞬間、行動は冷静だったのかもしれないが、完全にパニックになっていた。
誰か大人が駆けつけてこなければ、電話を探して部屋を飛び出して、救急車を掛けてしまうぐらいには。
顔見知りがぐったりと倒れていれば誰だって焦るだろう。
司書さんが保健室の先生を読んだ後も、相当落ち着かなく歩き回ってたと思う。
大事がない、というまず第一声を聞いた時の安堵感は自分の想像以上だった。
安堵感からため息も漏れる。
だが、そこから先の展開は納得がいかなかった。
少しだけ前の記憶を思い出す。
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問題なさそうと判断すると、保健室の先生は安堵したようだった。
「とりあえずは保健室に運んで、ベッドで少し寝れば大丈夫だろう。若い体は強いからね」
そういって一息吐いていた。
運ぶと言っても先生は女性だ。
見た目はか弱そうに見えず、不良並に目つきが悪い(でも女子生徒には人気だ)先生だが女性だ。
しかし、次のセリフは正直よろしくなかった。
簡単に様子を確かめた後は、周囲をくるりと見渡すとすぐ近くにいた自分と目があった。
「そこの少年、負ぶって運べ。――青春の1ページに良い思い出を刻んでやろう」
その台詞に惹かれたわけではない。
他の野郎に背負わせるのもどうかと思ったから背負ったが……図書室を出てから、おぶった体の柔らかさで焦った状態から我に帰る自分もなんだかなぁ、という感じだ。
一度意識すると、背負っているために触れている背中や、腕に伝わる太ももの想像を絶する柔らかい感触しかし流石体育会系しっかり固めの筋肉が閑話休題……が嫌が応にも女の子であることを意識させる。
その場で下すこともできず、今更先生に頼るわけにも、多少はあった男としてのプライドがそれを許さず、結局保健室まで運ぶ羽目になった。
確かに、確かに思い出にはなったけど!
柔らかいし、寝てるだけだって道中聞いたら、吐息も可愛く聞こえるし、ほわって感じで柔らかいし、思ってた以上に軽いし、ふにゃっとして柔らかいし、ああ思ってたよりあるなとか考えちゃうし、なんかきゅっと抱きしめてくるし……。
「少年、思い出に浸るくらい良かったなら私に感謝しても構わないぞ」
いたずらっぽい声でまたしても我に返る。
それと同時、背負った千鳥の位置も少し修正する。
今日は何度も我を忘れる日だと思う。
それと同時、うちの保険医は本当先生らしくない。
「……振る舞い的に、本当に保険医ですか?」
「失礼だな。ちゃんと面接受けて合格した、養護教諭で正規教員だ。まったく」
今更何を、と続けて言うその横を通り過ぎ、ベッドに向かう。
先生はカーテンを空けると、掛け布団を捲って枕を少しだけ整える。
「ついでに雑学みたいなものだが、保険医は正しい役職名ではないのだよ、少年」
「なんだか振る舞いがおっさんぽい……」
「君の名前、今度のテストまで覚えておこう」
「すみませんでした」
「あと……」
鋭い目つきをさらに細め、にやりと笑う。
「ベッドのそばに居てあげるんだな。女にはそれが一番効く」
「はぁ」
あいにくと、その一番効くの意味に関してはよくわからなかったが、妙な事を言われたのだろうという事はその表情から推察できる。
ベッドは窓際近くで、直接は見えないが、窓の向こうから、放課後の陸上部のかけ声が遠くから聞こえてくる。
それをBGMに、先生と共同してベッドへ千鳥を寝ころばせて――スカートから伸びるしなやかな太ももが強敵――近くのパイプ椅子に腰掛ける。
ベッドに降ろした後は、この作業、別に俺手伝わなくても良くないかと思ったが、特に言わなかった
先生はベッドのカーテンを閉めると、定位置であろう机へと向かい、座った。
===
保健室に向かってから、千鳥をベッドに降ろすまでの記憶を振り返ると余計に強く思うことがある。
ベッドに降ろしたら、やっぱり俺はいらなかったんじゃないか、という事と、千鳥に大事が無くて良かった、という事。
とりとめのない考えをしながら、先生が用紙に何かメモを取る様子を眺めて、ちゃんと保険医してるんだなと、思考が横道を逸れていく。
「そうえば……」
そうえば。
結局何を言われたのか、よく解らなかった事について聞き返す。
「一番効く?」
引き出しを開けて、めぼしの物が無かったのか、がさりと漁ってまた閉める。
「ん? ……あぁ、傍にいる話か? あぁ抜群だ。医学的で、……いや精神的な……まぁなんでも良いが、話を聞きたいかね?」
聞いてみたい話ではあるが、真面目そうな表情――でも若干面白がっているような空気がちらつく――で今語られても、絶対に集中できない。
首を振って断る。
今、何かを考えようとすると、寝ている彼女の事が頭にチラつく。
ベッドに近づくために立ち上がった時、にやりと、楽しそうに、作戦が成功したように笑う先生を見逃した。
「頑張れよ、甘酸っぱい青春を。……よしっと。とりあえず、この件は担任に伝えておかなければな」
そう小さく呟いていたのも、あずかり知らないところだった。
千鳥が寝ているベッドに近づくと、背後で席を立つ音、そしてそのまま、ガラガラとドアの開閉音。
振り返ると、養護教員は部屋から消えていた。
「普通、男女が居る保健室からは離れないもんなんじゃないのか? 信頼してるのか、そういう事をしない人間だと思われてるのか、気にし過ぎなのか……」
もちろん、自分がどうこうするわけではないが、何かこうもやもやとした物を覚える。
主に先生への信頼的な意味で。
丸椅子を静かにベッドの近くに置くと、少し考えてからカーテンを開けて……すぐ閉めた。
女子的に寝顔を見られるのは嫌だろうと、思い至るまでの思考が少しだけ遅かった。
すぐ閉めれなかったのは、千鳥のあどけない表情に気を取られたからだ。
近くに居るのが良いと言われても、それがカーテンの内側に属するようなアドバイスではないだろう、たぶん。
なら、カーテンの近くに椅子を置いて待っていようと思う。
携帯で何かをする気分でも無いし、自宅から持ってきた本が一応あるが……先にもう少し落ち着こう。
「あ」
図書室にはよらなきゃいけない、という考えが過ったが、今は席を離れたくない。
そうえば、去り際に本について何か凪さんに言われたような気もする。
返しておくだったか、保持しておくだったか。
まぁ、迷惑をかけたことには違いあるまい。
「ふぅ」
今は、落ち着いて考えたかった。
自分の事と、千鳥の事だ。
振り返ると、千鳥が倒れた時、自分でもあんなにびっくりするとは思わなかった。
というより、何かびっくりするような、慌てるような事態があったとしても、きっと声を上げることも出来ない、行動できない類の慌て方をすると思っていた。
だが、実際はどうだろうか。
真っ白になって行動出来なかっただろうか?
今このタイミングで振り返れば振り返るほど、そうではなかったなと思う。
近くで人が倒れた場合、大小なんであれ動揺するはずだ。
恐らく、見ず知らずの人ならばすぐに行動は出来ないかもしれない。
親族ならば真っ先に動けるかもしれない。
なら友人なら?
……もしかしたら、すぐには行動出来ない、かもしれない。
だが、千鳥なら?
「千鳥が大丈夫かどうかしか考えてなかったな。いや、電話の場所とか即座に思い返してたし、携帯より備え付けが良い、とか判断してたし、他にも考えてたか」
揺らさないよう注意し、呼吸があるのかどうかを確認し、それから電話に駆けつけようと考えた。
司書さんがすぐに、保健室の先生を呼んだと言わなければ、間違いなく電話に駆けつけるつもりだった。
普通の友人との対応に差があるような気がする。
千鳥に対する自分の認識はなんだ。自分の中でどういう位置付けなのか。
出会ったぐらいまで記憶を振り返る。
振り返る、が。
正直振り返っても、これといって大きな出来事が二人の間であったわけではない気がする。
強いて云えば、出会った最初が一番の大きな出来事だ。
今回も含めれば今回が一番か次点の出来事だ。
最初の出会いの時は図書室のカウンターである大作ファンタジーを借りた時だ。
「あ、一巻借りるんだ」
突然、隣から女子の声で話しかけられてかなり驚いた。
びくりとして反射的に横を見た。
最初に目に入ったのは机の上に置かれた本の表紙で、それは過去、読んだことのある、古いファンタジー本だった。
お互い、あまり学生が好まない作品を読んでいるなとその時思ったものだ。
そこで、そんなあまり学生が好まない、知っている作品を読んでいたからつい声をかけたのか、と気づき、相手を見て一瞬、息を飲んだ。
そりゃそうだ。
隣に居たのがまさかの千鳥。
学内で有名な人がいたとしよう。
その人が自分とは絶対に接点が生まれることは無いだろうと考えたとして、
そんな人物が隣に居て、そんな人物が声をかけてきて、しかもマニアックな本を読んでいるのだ。
驚かないわけがない。
実は私その本を借りようとしてたんだ、じゃぁ俺はいいよ、いや一度読んだことあるから読み終わったら……と会話が続き。
そのまま、お互いが借りた、または返す作品の、どこどこが好きだとか、どういうシーンでどういうキャラが、とかああだこーだと盛り上がってしまい……受付の図書委員から少し怒られた。
それで面白い話ありがとうねと別れて。
珍しいこともあるもんだと思いながら、何処かウキウキしながらその日を終えた。
二日ぐらいした後、読んだ本を返しに行った放課後。
再度、図書室で出会う機会があった。
自分は座って本を読んでいて、入ってきた人物をふと見たら、千鳥とその友人だった。
こちらとしては相手は有名人だし、突発的な出来事だったので以後特に接触はないだろうと思い、すぐに視線を切ろうとして、向こうから軽く手を振られて。
挨拶をされれば返さないような教育は受けていないので、多少動揺しながらも軽く手を挙げて挨拶を返して、すぐに本へと視線を戻した。
そうか、挨拶をするような仲にはなったのだなと考えて考えて考えて。
考えすぎて本の内容は全然頭に入らなかった。
いわゆる女子に免疫が無いからである。
後日、友人に話したら爆笑されたので肩パン(肩にパンチすること。痛い)ではい終わり、とした。
次の日、またしても放課後、千鳥と出会った。
気が付いたのはこちらが先だ。
新たな本を探しに、本棚を移動した先に居た。
前回は向こうから挨拶されたし、こっちから呼んで軽く挨拶しておこう――と思って、「よぉ、――」と言った後に名前を言おうとして、気づいた。
男子達の間では、姓より名で通っていたのだ。理由は上の名前が呼びづらいから自然とそうなった、だと思う。後は男子達のそう呼びたい、という願望か。
ので、上の名前が解らない。
同じクラスでもない。
よって何かしらの機会にフルネームを聞くことはあまりないし、聞いても完全に耳の右から左へと流れていた。
でも、明らかにこちらに気付いて、即座に振り返って、(流石運動部)と思う間もなく、するりと、流れで名前で続けて言ってしまった。
「、千鳥か」
「伊波くんじゃん」
その時の心中は察して頂きたい。
(慌てたなぁ。表面上なんも変わってなかったとは思うけど)
女性の名前すらそんなに呼ばない高校生活を半年前後程送っていたというのに、いきなり下の名前である。
しかも「さん」づけすらない。
この後、どう会話をつなげるかどうかを悩んで、数瞬の間に幾つも案が出ては消えて、はたと、別に会話に繋げなくてももいいんじゃないか? と妙案が浮かぶ。
つまり、この後繋げた言葉を千鳥に伝える→千鳥から返る、自分の応答が必要なら返してそこで終了、という流れだ。
だがしかし、言葉が出ない。
無情にも時は過ぎる。
あまりの集中に時が遅くなるような感覚を得る。
だが、だが出ない! 女子という未解決事項を前提とした会話パターンが圧倒的に無い!
そうして無情にも、挨拶から不自然に思われない程度の時間が切れた。
このまま終わると不自然だ。喋らなければ。
そうしてその判断、終わらせるを実践する事にした。
「本を探しに来ただけだよ」
「そうなんだ」
「うん」
はい終了。
この短い会話を終えた後、どれ程の達成感を自分が得たのか、千鳥にはわからないだろう!
名前で呼んでしまった時の昂揚感で、脳内には盛大に勝利ファンファーレが流れていた。
どちらかというとFFというよりDQ的なSEだったと思う。
心中満面な笑みで、しかし表情には出さず、心で拍手喝采。
よくよく考えると図書室なんだから本を探すのは当たり前でおかしいのだが、気にしない事にした。
もう満足したのであとは前を歩いて、千鳥の横の本棚と本棚の間を通るだけだ。ちょろい。女子との対応なんてこんな軽い事なのだと自慢してやろう。
一歩前進した。
「次何借りるの?」
追撃が来た。思えば鈴の音が似合う綺麗な声かもと思った。ちょこんとした、首の傾きつきだった。足を止めざるを得ない完璧なタイミングでの追撃だ。
今まで外野として見ることがあった中では男勝りっぽいふるまいが目立つのに、こういう時に女の子っぽい仕草をするんだと、落ち着かない思考の中、思う。
「あ、え、」
口には出ても、表面上そんなに動揺してない自分を褒めたい。でも後日、友人にそれはキモイ、と言われた。傷ついた。
次借りる本なんて、何も考えてない。
今考えていたことは、一刻も早くここを脱出する事だったのに……!
最初に、あれ程盛り上がって会話していた自分が不思議でしょうがない。
ここで追撃が来ただけで、自分の対応パターンは枯渇してしまった。おきのどくですがぼうけんのしょはきえてしまったような感覚。
人間、ピンチに陥るとどういう方法で解決を試みるのだろうか。
色々とあるだろう。先ほどのように鮮やかに切り抜けられるような会話を見いだせる時もあるだろう。
だが何もない時。空白の瞬間の時。例えば濁流に流されて思わず手を振り回したとき。
藁にも縋るような気持ちで、ぱっと目につくものに手を伸ばしてしまうだろう。
「○○○か」
「あ、これか。これ実は読み終わったばっかりでさ。この後の4巻借りるついでに自分で返却しててね。あ、図書委員の手を煩わせるのもあれかなと思って、先に返却処理してからついでに棚に持っていったんだよね」
「あ、あぁ、そうなんだ」
思わず目に入った、千鳥が手に持っている本のタイトルを読み上げてしまった。
ごめん、3巻を手に持ってるけどそのタイトルも作者も知らないんだ。
この後、作品に関しての会話が始まったら大変だと思い、即座に修正した。
「いや読んだことなくて」
「あ、1巻から読むところだったんだ? じゃぁ3巻まで誰も借りてないから借りられるね。はいこれ」
「あ、あぁありがとう」
いやそうじゃない、そうじゃないんだ。
そうじゃないんだけれども、はい、と差し出された本をそのまま受け取る。
「面白いから。伊波くんなら直ぐに読み終わりそうだね。また感想話し合おうよ」
「あ、あぁ」
「じゃぁ、今日は恵美と遊ぶ予定だから。またね」
「うん」
心の中で、別れを告げられて彼女に縋り付くようなポーズで、俺が読みたいのは違うんだぁ! と叫んでも表情は変わることなく。
手をひらひらと振られて、こちらは空いた片手で振り返して。
その姿が書棚から消えた後、本棚に向き直る。
「……どうしてこうなった」
誰も答えてくれなかった。
借りた小説は面白かった。
「あれから土日を挟んで、月曜の放課後に図書室寄ったら居て、今度はテーブルで静かに盛り上がったな」
あれ以降は特に変わったことはしてない。
そこから一年間と少し。
図書室で特に決めたわけでもなく、不定期に出会っては小説だけじゃなく、漫画についての話題もするようになった。
昔はともかく、今は部活への助っ人や自主練で忙しいらしく、隙を見つけて読んでいる有様と言っていたので、こちらが簡単に、新刊の物語を説明するような機会も増えた。
図書室だった話し合いも、ある時、帰り道で新刊を買うんだと話したら私も新刊の発売日なんだ、と言って書店に寄るようになった。
その時は、自分は新刊を購入出来たが、常に一緒に居た千鳥は何も買ってなくて、聞いたら「ちらっと見たら売り切れだって」と言ってたっけ。
その後はたびたび帰りが一緒になり、だいたいは本屋や古本屋に寄り道したりという事が増えた。
ある意味救いだったのは、千鳥は男女共に仲が良かった事だ。
他の部員仲間と歩いていたり、カラオケに行ったりという事が頻繁にあったので、あんまり男子と帰っていても噂になりづらい。
放課後、時たま一緒に歩いている程度はあぁだこうだと噂される事はなかった。
……自分の耳に入ってないだけ、じゃないと思う。たぶん。
初めて新刊を買いに言った時は、家に帰って話をして、妹に「デート?」って突っ込まれた時に初めて気づいて、部屋に戻ってから慌てたなぁ。
記憶を振り返りすぎて、小さく笑う。
気にし始めたのは最初からだけど、ここまで気にし始めるようになったのは何時だろう。
切っ掛けなんてあっただろうか。
徐々に、無段階に、抱いた気持ちが段差なく変わっていったのだろう。
自分に対して最も距離が近い女性だ。
彼女が自分の事を……と、期待をしてないと言えば嘘になる。
だからといってこちらから行動できるのかと問われれば否となる。
学園での有名人という気遅れもある。この手の話題を口にしたとたん、関係が破たんするとも考える。
そうなったらもう身動きできない。
「千鳥」
カーテンの向こう側は何も見えない。