笑わないアンドロイド
ロボットは好意で微笑むのではなく、プログラムで笑う。
―― 士郎正宗『攻殻機動隊』(講談社)
*
二十一世紀は、半分を過ぎた。
この数十年で、この国は大きな変貌を遂げた。都会の街並みは、高層ビルが何層も連なった都市へ移ろい、地方の街もかつての面影を残しつつ、多くの高層ビルが建造されるなど大きく発展した。
だが、それ以上に変わったことがある。
それは、この国には人口以上の「アンドロイド」がいるという点だ。食事を作っているのも、学校の先生をしているのも、病院で診察や手術をするのも、すべてがアンドロイド。
ここまでアンドロイドが国を埋め尽くすまでになったのには、ある理由があった。二十一世紀初頭から極端に進んだ少子高齢化への対策である。
政府は、国民が安心して幸せに暮らせる社会を実現するため、ロボットやアンドロイドの研究と開発を推進し、多額の予算をそれに充てた。まず、介護アンドロイドの開発が進み、次に育児アンドロイドへと焦点が移された。伴って、より高度な人工知能の開発も加速した。
二〇三〇年代後半には、大量生産が可能となった介護・育児アンドロイドが一般に広く出回るようになった。これにより、少子高齢化の弊害は一気に解消された。介護士への負担は大きく減ったし、子どもの数も増えていった。苦労していた介護や子育てをすべてアンドロイドに任せられるようになったため、労働力が安定し、経済はより活発になった。
アンドロイドの開発はそれで終わりではない。さらに、教師や医者、警察官アンドロイドなどの開発にも力が注がれた。子どもの能力を伸ばす教育をするためには、的確な分析とそれに基づいた処理と対応ができるコンピュータを頭脳に持つアンドロイドが適任だとされたのだ。また、アンドロイドは人に危害を加えたりしないし、私情で動くということもないので、迅速な対応が必要とされる人命救助の分野にも適用が進んだ。
ここまでアンドロイドが推されているのは、人型のほうがより親近感が湧くという理由があるからだ。金属やプラスチックの無機質な外見よりは、姿形が似ているほうが違和感も少ない。そして、男性型も女性型もある。神は自分の姿に似せて人間を作ったという話があるように、人間もまた、自分たちの姿を似せてアンドロイドを作った。
しかし、問題が無いわけではない。
アンドロイドは、笑わなかった。「決して笑わない」という意味ではない。笑うことには笑うのだが、人間のようには笑えないのだ。
アンドロイドが悲しむ、怒るのは簡単だ。人が悲しんだり怒ったりする状況というのは限られてくる。それらを包容して悲しみと怒りを表すプログラムを作成するのは困難なことではない。だが、笑うことに関しては容易なことではなかった。人は、いつ、どんなときに笑うのか。その条件や状況が無数にあり、プログラムすることが難しかったのだ。
その問題点によって大きな支障が出たわけではなかったが、笑わないアンドロイドは、人の心を確実に掴むことはできなかった。
そこで研究者たちは、さらに高度な人工知能を搭載した、人の心を持ったアンドロイドを創ろうとした。人間並みの心を持たせることで、自然な笑いや悲しみ、怒り、喜びを表現できるようにしようと考えたのだ。
開発にはかなりの年月を要したが、数多の研究者の知恵と努力は実った。ついに、人間並みの「心」を宿したアンドロイドが世に誕生したのだ。
人の知能、共感能力、感情、仕草や言動、その他諸々の膨大な情報とたくさんの人間から採取されたサンプルデータを、ネットワークを介してアンドロイドの頭脳に常に送信し、記憶させ、それと周囲の状況を認識し、自律思考させる。このようなシステムを構築して、人間の心を極限まで再現させたのだ。
アンドロイドはいよいよ人間と見分けがつかなくなるほど精巧なものとなり、その登場は、人々の暮らしを大幅に変化、向上させた。疑似的ではあるが「心」を得たアンドロイドは、人々にとっては魅力的なものだったのだ。とくに、独身の人たちには受けがよく、それは飛ぶように売れた。自分に従順で、文句を垂れないアンドロイドは、パートナーとして申し分のないものだったからだ。
今では、「人間らしさ」を備えたアンドロイドが忙しなく稼働して――いや、人と共に最上級の幸福な生活を営んでいるのだ。
*
ほとんど人間とも呼べるアンドロイドの登場から、さらに月日が経過した。
一人の女性型のアンドロイドが、夕陽で橙に染められた土手の人工植物の海の上に座っていた。河から吹いてくる涼風が、草と彼女の長い人工毛髪を揺らしている。
彼女は、遠くを見つめていた。焦点の合っていない瞳で……。
「やあ」という男性の声がした。
彼女は声のする方へ首を捻る。一人の男が、片手を挙げて近づいてくるところだった。彼女は一目見て、彼がアンドロイドであることを認識した。彼らは特殊な目を持っているので、人間とアンドロイドの区別がすぐつくのだ。
彼女はわずかに目を細めた。危機意識から目を細めたわけではなく、見知らぬ人間が話しかけてくればこうするだろうという、演算に基づいての実行結果だった。
「こんにちは」彼女はそう答えた。
「いきなり話しかけて悪いね」男は彼女の隣に座った。「いや、君が何か悩んでいるように見えたから、同じアンドロイドとして話をしてみたいと思ったんだ」
「わたし、悩んでいるように見えました?」
男はうなずく。「人間そっくりだった」
「じゃあ、悩んでいるのかしらね」
「ずっと実行中のタスクでもあるんじゃないかな」
「そう……、それよ」
「何かあったのかい?」男は優しい口調だった。
「わたしには人間のパートナーがいるのだけれど、彼といてもあまり楽しくないの」
「君が人間の世話をするのに飽きてしまったのかな?」
「ううん、そんなことはないわ」彼女は首を振った。「わたしたちアンドロイドの使命は、人間を幸せにすること。でも、最近はその使命を全うできていないみたいなの。だから、楽しくないと感じているのかも。それが『悩み』ね」
「じゃあ、逆にその彼がアンドロイドに飽きてしまったのかもしれないね。彼だって人間だし、生身の人間の温もりを欲しているのかもしれない」
「そうかもしれないわね……」彼女は少しのあいだ黙り込むと、「あなたはどんなお仕事をしているの?」と男に訊いた。
「僕は、母子家庭でお父さんの役をしている。毎日、食事を作ったり子どもを学校まで送り届けたり。なかなかやりがいのある仕事だと思っているよ」
「その親子にとっては大助かりでしょうね」
「そうだね。……でも、記憶回路を辿ってみると、僕も君と同じことで悩んでいるところがあるかもしれない」
二人の会話は、そこで途切れた。
数分のあいだ、視覚素子を通じて同じ景色を認識していると、男が突として立ち上がった。彼は彼女の顔を見て、「水切りをしよう」と誘った。
二人は、土手を降りて河原に立った。拳より少し小さいくらいの丸い石が、無秩序に敷き詰められている。
「少しまえは、うちの子と一緒に水切りをして遊んだもんだ」言いながら、男は手頃な石を探った。「あの頃は、水切りが成功するとはしゃいで喜んでいたなぁ……」
「彼も昔、わたしとの生活の中では、まるでクリスマスプレゼントをもらった子どものように喜んでいることが多かったわ」
「最近は、笑った顔を見ない」男は河に向かって石を投げた。だがそれは、鈍い音を立てて水中に吸い込まれた。「はは、失敗だ」
「わたしたちの存在によって満たされた幸せな生活に、彼らは感覚が麻痺してしまったのね」彼女は、男の真似をして平たい石を河に投げた。その石は数回、水面を跳ねた。
「本当にそうだ。近頃の人間は笑うことを忘れてしまった。笑い方を教えてくれた人間が笑い方を忘れるなんて皮肉なものだ」男は再び石を探っていた。「それに、起きて、朝食を食べて、学校に行ったり仕事をしたり、各々の趣味にふけったりして、昼食を食べて、家に帰り着いたら、風呂に入って、夕食を食べて、寝て、また起きて……そんなルーティンの繰り返しなんて、まるで昔の産業用ロボットみたいだ」
男は、サイドスローでもう一度石を投げた。石は、十数回も水面を蹴ってから、仄暗い底へ沈んでいった。
「今じゃ、人間のほうが笑わないアンドロイドだよ」
男の口から出た冗談に、彼女は吹き出した。男もつられて少し笑った。
それは、造り笑いではなく――「心」の底から噴き出た笑いだった。
テーマがありきたりすぎですねぇ。