甘夏
夏の日差しを受けた肌が、ヒリリと痛んだ。汗と日差しと、ビニール袋いっぱいの甘夏の重さが不快感を生み、ナツキは表情を歪める。こめかみに滲んだ汗は早くも頬を伝い、シャツの襟に跡を残した。滅多に履かないスカートが汗で太腿に張り付き、歩き辛い。こんなことならば履かなければよかった、と苛立った。
三十半ばにもなって、親のお使いをするなんて。私はもう、子どもではないのに。
悔しいような悲しいような、複雑な感情がナツキの心をじくじくと痛ませた。しかし、結婚も独立もせずに親に今まで甘えてきたのは紛れもない自分だ。後悔と諦めと、これからの未来への絶望を抱いたまま、今日までの日々を過ごしてきた。元来の意地っ張りさと頑固さで、この悲しさを他人の前で口にしたことはない。口にしたら弱い自分を見せてしまうような気がして、どうしても唇が開いてくれなかったのだ。
「あと、もう少し…」
蜃気楼に揺れる坂の頂上に目をやる。距離にして数十メートル。震える膝に鞭打って、一歩一歩確実に歩を進める。手に持っているビニール袋が汗で滑り、ナツキは慌てて手に力を込めた。ここで手を離してしまったら、この少し痛んだ果実は坂の下まで転がり落ちてしまうだろう。小さな恐怖さえ感じ、気持ち悪い汗が背中を伝う。
思えば、私はこのきいろの果実に似ているのかもしれない。ビニール袋という親の庇護を受け、すっかり熟し切ってしまって痛み始めた、小さな傷のあるかわいそうな甘夏。こんなもの誰ももらってはくれないだろう。
ふ、と自虐的な笑みに唇を歪める。
ナツキは、決して色恋沙汰なしに生きてきたわけではない。ただ少し、人に心を開くまでに時間がかかるため、恋人と呼べる存在がいたのは一度しかなかっただけだ。そんな恋人ともつい最近別れてしまったのだが。
『ナツキは俺がいなくても平気だよね、強いし』
これが彼の口癖だった。この言葉を言われるたびにナツキは緩く首を絞められているような感覚を覚え、ひゅ、と呼吸が止まる思いだった。
強くなんかない、ただ、人に頼るのが苦手だっただけ。彼には分っていてほしかった、この唇が紡ぐ言葉は全部強がりということも、本当は甘えたかったのに甘え方が分からなかっただけだということも。
『ナツキは強いよね。俺よりしっかりしているし。頼りになるよね』
ギシギシ。甘夏の入った袋が軋み、揺れる。
『ナツキと結婚したらしりに敷かれるのかな。あはは』
汗が垂れ、ついにアスファルトに染みを作った。頂上には、まだ、つかない。
『ナツキ、思っていることがあるなら言ってくれないかな?』
深呼吸をすれば肺いっぱいに真夏の空気が入り込み、胸が熱くなった。
『ごめん・・・。俺、やっぱ結婚できない。一緒にいると自分に自信がなくなるんだ』
ガザ。
ビニール袋の取手が千切れ、きいろの果実を包む袋がアスファルトにうちつけられた。ぱっくり開いた袋の口から果実が顔をのぞかせる。
「あ」
静かに、きいろの丸が坂を下る。手を伸ばそうにも体が動かず、ただ離れていくたくさんのきいろを見ることしかできなかった。瞬きをするたびに一枚一枚、まるで写真のようにアスファルトの黒と、甘夏のきいろと、空の水色と、雲の白が脳裏に焼き付く。
「あ、あ・・・」
ゴロゴロ、ゴロゴロと坂を走って下っていくきいろ。どんどん離れて行って、どんどん小さくなっていって、ナツキはただ立ち尽くすことしかできなかった。
遠くで蝉の鳴き声が聞こえる。
『ナツキ、別れてくれ』
「・・・待って」
コップになみなみ注がれた水が静かに溢れるように、ナツキの唇から言葉が零れた。
「待って、待ってよ、ねぇ、待って」
坂の下にたどり着いたきいろはびくともしない。待って、なんて、もうとっくに遅い言葉であったが、ナツキは唇を動かさずにはいられなかった。
「待ってよ、待って。ま・・・う。うぁ、う、うっ、あ、わあぁあん」
ただこどものように泣きじゃくり、アスファルトに膝をつく。スカート越しにアスファルトの熱さが伝わったが、そんなことはどうでもよかった。声を上げ、汗と涙でぐちゃぐちゃになった顔を何度も手の甲で拭う。涙は止まらなかった。
ずっと、誰かに助けてほしかった。ただ、どうやって声に出していいかわからなかっただけ。
もうこんな歳になってしまった。何も、残らなくなってしまった。ただ一人、坂の上、頂上にもつけないまますべてを手放してしまった。
坂の下の傷ついたきいろが自分と重なって、ナツキはまた大声をあげた。