気づかれぬ歪②
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あの日の夜、ルキア・ミルトスは十八歳の人生を終えた。
終えたはずだ。
終えたという結果を意識する間もなく目が覚めた。
寝起きの頭で周囲を見渡し、ここが自室でないことを知る。清潔なベッドで寝ていたらしい身体を起こし、見覚えのない調度品に首を傾げ、ここは何処だろうと疑問に思った瞬間、ルキアは意識を失う前の出来事を思い出した。
刺された痛み。出血により自分の中から大事なものが抜け落ちて行く感覚。何度も刃が振り下ろされる瞬間の映像。そして狂った様に嗤いながら、自分を刺し続ける女の顔。
「え?」
思わず身震いして身体を抱きしめる。皮膚に爪が食い込むほど力強く抱きしめて、痛みを感じてようやく自分の身体が本物であることに実感を得ることが出来た。指先に触れる両腕からは体温が伝わってくる。痛みは確かにそこにある。トクン、トクンと響くのは間違いなく心臓の鼓動だ。
自分はここにいる。
鮮明に思い出される死の恐怖が夢だったのか――そう思いたくなるほどに、あまりに違和感がないことが逆に怖かった。着ている服に見覚えはなく、自室で無いことを除けば、普段と同じ朝が来たと勘違いしてしまいそうだ。
「夢?」
それは問いかけではなく、期待だった。夢であって欲しい。そう願うからこそ、その願いを現実にしたいからこそついて出た言葉だ。
「私は、死んでない、よね?」
誰に問うでもない自問。答えは必要ないはずの問いかけに、しかし別のところから答えが返ってきた。
「いや? 確かに君は亡くなったよ」
声が返ってきたことに驚いて、ルキアは身体を硬直させた。視線だけをそちらに向けると、ベッドの脇にある椅子に腰を下ろし、本を読む仮面で顔を隠している男がいた。
何故気付かなかったのかと思わせる程に、奇妙な出で立ちをした男だ。
演劇の舞台などで見かける装飾品華やかな仮面ではない。お祭りで見かけるオモチャの仮面でも、顔を隠す為の変装用のものでもない。最も似つかわしいのは、昔の騎士物語に登場するような鐵甲冑の兜だろうか。
無骨な鉄色をしたバイザーで、目と鼻を含む顔の大半を覆い隠している。
この大陸には珍しい黒髪で、肌も黄色に近い。東にある島国出身者に多い髪と肌である。顔がわからないので判別しようもなかったが、顔の中で唯一外気に触れている口元と頬の張りからすると、ルキアと同年代か、少し上ではないだろうか。その割りに声色は随分落ち着いているように思える。
(……誰?)
だが声に聞き覚えはなく、仮面の奥に隠されているだろう素顔を連想できる知人は思い描けなかった。
「どちら様、ですか?」
驚きを飲み込んで、そう尋ねられたのは僥倖だった。
ルキア自身、なぜ自分がこんなにも落ち着いているのか不思議になりながら仮面の男に問いかけると、彼はおもむろに本を閉じた。小さくパタッ――紙と紙がぶつかった音だ――と鳴った音に何故かルキアの声を遮る気配を感じて、思わず唾を飲み込む。
そしてその空気は正しかったらしい。
「ルルキエル・シュヴァリアー。俺の名だ」
やはり、聞いたことがない。
「自己紹介はさておき、まずは君が疑問に思っているだろうことを一通り先に説明しておこう。疑問はその後で口にしてほしい」
ルルキエルは、ルキアの回答を待たずに先を続けた。
「ここは俺の仕事場に用意された私室だ。君は数日前の深夜、とある公園で刺殺された。その死体を回収して、俺が修復し終えたのは先日の夜。朝には目覚めるだろうと思っていたが、少し予測が外れたな。ちなみにいまはもうお昼過ぎだ」
「え? 刺殺? 殺されて、え? 修復? 私?」
「質問は後にして欲しいと言ったはずだが?」
「そう言われても……」
混乱させるようなことを口にされたのだ。問い返すなという方が無理がある。その感情が顔に出てしまったのだろう、ルキアの反応をみたルルキエルの口元が緩んだ。
「まぁ気持ちはわからないでもない。死んだけど修復された、などと言われても、大概の人間は一笑に付す。けれど君は違うはずだ。覚えているだろう? 昨夜の出来事を。自分が殺される瞬間、死に近づいて行く恐怖の映像を」
「それは……」
覚えていない、と首を振ることは簡単だ。けれど実際は覚えている。鮮明なまでに脳裏に焼き付いて離れないあの記憶が、夢ではないのだと告げてくる。だがあんなことが現実にあったのだろうか。死んだはずの自分は、確かに今、ここに生きているというのに。
だからこそ思う――あれは夢じゃないのか?
そのルキアの沈黙を否定するかのように、ルルキエルが口を挟んだ。
「夢ではない。決して。君は確かに死んだ」
「でもっ!」
「生きている、と言いたいのだろう? それも正しい。俺は君が生きていない、とは言っていない。一度死んだ、というだけだ。死んで修復された。正しく生き返ったわけではないから生者ではない。だが死者でもない」
「そんなこと……」
「あり得ない、などと口にするのはやめてくれよ。それは我々技術の進歩に携わる人間にとっては禁句だ。とは言え、君の疑問ももっともだ。さっそく種明かしをしようか」
言って、ルルキエルが懐から取り出したのは、一本のナイフだった。だが小さい。果物ナイフよりも小型で、短い刀身は鈍い鉛色で切れ味は全くなさそうだった。柄も装飾もないシンプルな木製で、子供が握る程度の長さしかない。
「この剣の銘は『ファルバックイッド』。果物ナイフより小型で、ペーパーナイフより切れ味はないが、こう見えても魔剣でね。使役出来る効果はただ一つ、『生命の代替』だ。この剣が君の心臓の代わりをしてくれている」
「魔剣?」
「そしてこれが『リワインディングタム』。損傷した肉体を修復した魔剣」
次いで取り出された剣は、ファルバックイッドとは逆にきらびやかな装飾の施された短剣だった。綺麗に磨かれた刀身の中央に、縦に並ぶようにして埋め込まれている小さな石は宝石だろうか。
「シュヴァリアー・シリーズ、シリアルNo.337『リワインディングタム』で対象の肉体を生前まで巻き戻す。
残念ながらリワインディングタムには、死者蘇生なんて真似は出来ない。指定した時間分を巻き戻すだけだから、時が来れば再び対象物――君のことだが――は巻き戻す前に戻る。
元々は殺人事件で殺された被害者当人から、犯人や死亡時の状況などを聞き出し、あわよくば遺言などを受け取るために生み出されたものだから、巻き戻されたからと言って未来の変更などは出来ない。死ぬ前に戻したところで死は必ずやってくる。そこで――」
三本目に取り出したのは、細身のレイピアだった。見た目、さほど珍しさはない。街の武具屋にでも行けば見られるようなありふれた造りの剣に見えた。
「このシリアルNo.91『ナイハステータ』。これで君の身体の時間進行を固定化する。
これによってリワインディングタムで巻き戻った時間が停止。ただし、固定化した時点で時間軸とは切り離されてしまう為、今度は肉体が死ぬことはなくても生命活動が出来ないただのオブジェクトと化す。
そこで最後にこのシリアルNo.209『ファルバックイッド』で生命活動の代替を行う。するとあら不思議。固定化された状態で生命活動が開始され、死者は擬似的な復活を遂げる。ここまでは理解出来たかな?」
いや、全く。
ルキアは素直に首を横に振った。ルルキエルは苦笑したが、ルキアが理解に追いついていないことを責める様子ではなかった。
「まぁ、そうだろうな。とりあえず、魔剣の力で貴女は蘇生された、と考えてくれればいい。もちろん擬似的なものだから条件やら制約は色々あるが。それはおいおい説明するとしよう」
「はぁ……」
状況を理解出来ていないルキアとしては、そう答える他ない。詳しいシステムを後ほど説明してくれるというのだから、それまで待てばいいのだろう。
ただし、それよりも先に聞いておくべきことがあった。
「あの、何故私を助けてくれたんですか?」
「もちろん、無償の施しなどではないので安心してくれ」
仮面に遮られて表情の読めないルルキエルにそう言われても、全くと言っていいほど安心出来るものではない。何より、この男は無償ではないと言ったのだ。そこから導き出せる解答は難しくなかった。
「……私に、何かをさせたいんですか?」
「理解が早くて助かるよ。ただそれを説明するにはここでは少し不足なので、場所を移動する。着替えはこちらで用意したものを使ってくれ。そこのポールハンガーにかかっているものであればご自由にどうぞ」
ルルキエルが指差した先にはオーソドックスな黒のスーツが一着かけてあった。女物だが、スカートではなくスラックスタイプのものだ。
「下着とシャツは机の上にあるのでそちらを。では、俺は外に出ている。終わったら声をかけてくれ」
踵を返して退室しようとしたルルキエルの足が、ドアノブを回したところでふいにとまった。
「ああ、念のため忠告だ。逃げよう、などとは思わないほうがいい」
「もし、逃げたら?」
「魔剣の力で君は生きている。その魔剣を使ったのは俺だ。であれば――分かるだろう?」
逆に自分を死んだ時に戻すことも可能ということだ。ルキアに選択肢などあろうはずもない。
人、それを脅迫という。
わかってはいたことだが、改めて口にされたことで脱力感がルキアを襲った。
「はぁ……わかった。わかりました。逃げませんから……」
「よかった。では後ほど」
言葉とは真逆ににこりともせずにルルキエルが退室する。瞬間、ルキアは力が抜けてベッドに倒れこんだ。頭が痛い。これは知恵熱だろうか。
混乱覚めやらぬ状態で、さらに追い打ちをかけるように告げられた内容に、ルキアの脳はもはやオーバーヒート気味だった。
死亡。魔剣。蘇生。ルルキエル・シュヴァリアー。
自分の身に何が起こっているのか理解の追いついていない状況では、何一つ判断出来ることなどない。逃走に対してルルキエルが忠告をくれたが、正直なところ、ルキアの頭にはそんなこと微塵も考えつかなかった。考えられる余裕がなかった、というべきか。
何はともあれ、落ち着きたい。
ルキアが欲しているのは、わずかでもいい、一息つける時間だった。落ち着かない状態で話を聞いても、結果は先と同じだろう。何もわからないままだ。
それでもただひとつ、わかっていることがある。これから待っている話次第では、自分は再び殺される可能性があるということだ。利益があるから、あの男はルキアを蘇生させた。その利が逆転してしまえば、生かしておく必要がなくなる。
もう一度死ぬ。
実感がないためか――何しろ死んで生き返ったという感覚もないのだから当然だ――そのことに対しては不思議と恐怖はなかった。
ただそれよりも。
(ルシオラちゃんとお父さんに会いたい……)
思い浮かべた最愛の家族の顔。声。その温もり。それを感じることがもう二度と出来ないかもしれない。それは確かな死の恐怖で、それこそが死者の心残りなのだと――ルキアは気づかないまま、密かに涙した。