サフラン
/1.0101 サフラン
建国千年の歴史を持つイクスアーク王国――その王都デュランダルの第四居住区画に入る少し手前に、彼の目的の店があった。
王都でも月に一度は雑誌に取り上げられる有名店『喫茶サフラン』。
店頭に掲げられている、盾の下地にフォークとスプーンがクロスした絵柄の看板は、世界共通の食事処を示している。王都でも珍しいオープンテラスを採用した解放的な店の佇まいは、老若男女・年齢性別問わず受け入れられているらしかった。今も店内は昼食時のピークも過ぎたというのに満席に近い。無論、料理が美味であることも忘れてはならない要因の一つだろう。それでいて決して高すぎることもない、一般人でも苦にならない善良な値段設定だ。夜は酒も出すらしく、豊富な酒類に足繁く通う者は数多い。
だが。と、彼は胸中で情報を反芻した。
この店が最も繁盛している最大の理由は、それよりもっと単純なものだ。店内に足を踏み入れると、来客に気づいたその要因の片割れが満面の笑みで声をかけてきた。
「いらっしゃいませ~~」
元気良く上がった店員の可愛らしい声――と、接客用スマイルに、いく人かが釣られるようにしてその方向を向く。顔をあげたのがすべて男だというのは、生物学的に致し方ないのだろうか。中には女性連れで来ているにも関わらず目線を向けてしまい、軽く剣呑な空気を発している席もあったが。それはさておき。
「ルシオラちゃん、今日も可愛いね~。あ、コーヒー、お代わりいいかい?」
「お代わり自由な最安値のドリンクでいつまで粘るつもりですか、もうっ!」
お世辞をさらりと躱しながら、近づいてきた女性店員に彼は一人である旨を伝えた。一瞬好奇の目線を向けたのは、彼が白いパーカーに白いフードをかぶり、さらに顔に奇怪な仮面をつけているからだろう。
だがその好奇もすぐに消えて笑顔になった。いつものように嫌な顔をされることを想定していただけに少なからず拍子抜けする。プロの接客業たる所以か、彼女の素なのかはわからないが、嫌な気はしなかった。
そんな彼の感情を知る由もない店員にカウンター席へ案内される。腰をおろすまでのわずかな間、彼は自分の知っているサフランの変化と、その空気を作り出している看板娘二人の働きぶりに内心舌を巻いていた。彼を出迎えた女性と、店の奥で別に接客している女性二人。通称『ミルトスの双星』――サフランが最も繁盛している最大の功労者たる双子の姉妹である彼女らは、今日も笑顔を振りまきながら、客を出迎え、送り出し、店内を料理片手に忙しく動き回っている。
片隅に眠っていた記憶を呼び覚ます。彼女らの年齢は、確か二十歳頃だったはずだ。妙齢であるにも関わらず、男の影が見えないことがさらに人気に拍車をかけている、とは雑誌記者の談である。
姉は胸を強調してはいるものの白と黒の二色で仕立てられ、袖や襟元にレースの刺繍が施されたシックな衣装に身を包んでいる。長袖にロングスカート――ストレートの亜麻色のロングヘアーも助長して、落ち着いた声色に柔らかな物腰の似合う女性だ。
対して妹の方はノースリーブにミニスカートと肌を露出し、靴もヒールを履いていた。男を挑発していると受け取られかねない格好であるのに、性的な色香よりも健康的な色気の方が強い。亜麻色の髪は姉と同じだが、彼女はセミロングだった。大きめのクリッとした双眸は美人というより可愛いと思わせる。こちらも姉とは一風違うが、また美女には違いない。
ふと見ると、他の店員も特に服装は統一されていなかった。だが不思議と違和感がない――どころか、それが『らしい』と思わせるのは、彼女らが自分の武器がわかっているからだろう。
今も店内は混んでいるが騒がしいというわけではなく、客の出入り頻度に反して店員たちは急かしい感じを出していない。これで彼の知る味が保たれていればなるほど――流行るわけだと、彼は胸中で納得した。
少なくとも数年前のサフランにはこのような空気はなかった。客層も店の外観も、内装も違う。洒落気など微塵もなく、料理の味だけで常連たちに愛され、知る人ぞ知る穴場と言った程度の店だったはずである。
「変われば変わるものですね」
独り言ちた声を拾って、注文を伺いにきた看板娘の片翼が首をかしげて見せた。
「変わる、って何がですか?」
「……以前来た時とは、店の感じがかなり違っていたので驚いています」
隠す必要もないため素直に答えると、彼女はしばし思考したのち、思い出したように手を打った。
「もしかして、改装前の当店にいらしていただいたことがあります?」
「ええ。堅物なマスターと、器量良しの奥さんの二人で切り盛りしていた頃のサフランに。もう十年以上前になりますが」
「父と母ですね」
「ルシオラさん? でしたね。妹さんの。あちらにいらっしゃるのが……」
「はい。姉のルキアです」
「ご両親は?」
わずかに彼女の目尻が下がった気がした。
「母は五年前に他界しました」
「そうですか。シエラさんが……もう一度お会いしたかったのですが、残念です」
「あ、でも父は厨房にいますよ。呼びましょうか?」
脳裏に浮かんだ懐かしい顔を思い出す。この店のマスター、ゼス・ミルトスの顔だ。会えるなら僥倖だろう。黙考したのは僅かな間だった。
「お願いできますか?」
「はい。少々お待ちください――と、ごめんなさい。ご注文伺っていませんでした」
問われて、彼もまだ何も注文していないことを思い出した。壁にかけられているメニューに目線をやる。ところが、上から二回ほど読み直して見みても、彼の記憶にあったはずの一品がなかった。
「……ラックラグー肉のホワイトシチューは、もう出されていないのですか?」
かつてサフランで食したことのある料理の中で、彼が最も好物だった品である。出していないことが解せずにルシオラに尋ると、彼女は一瞬ポカンとしたあと、何故かクスリと含み笑いをして見せた。
「常連さんでも一部の人しか知らない隠しメニューですよ? それ。父も母も、近しい人にしか出さなかったはずなんですけど……」
「昔よくお世話になりました」
「あれ? それじゃ、もしかしてわたしとも会ったことあります?」
自分の顔を指差して首を傾げるルシオラに、彼は軽く首肯した。
「ええ。もちろん」
「あちゃー」
軽くトレイで口元を隠しながら、ルシオラは申し訳なさそうに頭を下げてきた。
「ごめんなさい。覚えてないです」
「十年前も前のことです。以前の僕は仮面をつけてはいませんでした。だから覚えていなくても仕方ないことだと思いますからお気になさらず……」
十年間連絡もしなかったし、訪ねなかったのも事実だ。当時十歳にもなっていなかっただろう彼女に客のことを覚えていろというのは酷な話である。
「それで、シチューはないんですか?」
と、ルシオラは今度は別の意味で困ったように苦笑した。
「その料理、お母さんの得意料理なんです。お父さんも作れますけど、お母さんが亡くなってからは出さなくなっちゃって。お父さん、職人気質っていうか、頑固っていうか、自分の味がお母さんに敵わない料理は常連さんにも出さないんですよ~」
「マスターらしいですね」
どうやらかの人物の性格は十年経っても変わっていないらしい。彼もまた自然と笑みが浮かんだ。最も、仮面に遮られて彼女に伝わったかどうかはわからないが。
「わたしもそう思います。だからごめんなさい。一応、お父さんに聞いてみますけど、準備とかもありますから無理かもしれません」
「無理なら仕方ないです。でも、できれば聞いて見てください。十年経っても、あの味は忘れられません。無理なら――そうですね、鳥肉のチーズ香草蒸しセットとシーザーサラダのミニをお願いします」
「はい。承りました。注文通してきますから少しお待ちください」
軽くお辞儀をして踵を返したルシオラは、しかしすぐにその足を止めて彼の方へ向き直った。
「あの、またごめんなさい。お名前、伺ってもいいですか?」
「……ルルキエル」
「え?」
小声で聞き取れなかったらしいルシオラ・ミルトスに微笑を返して、彼は名を告げた。
「ルルキエル・シュヴァリアーです」