魔獣攻略戦
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魔獣ベヒモス。
三十メートル以上の巨体を誇る四足歩行の獣。極めて獰猛。海沿いなどの水が豊富な地域に発生したという記録がある。
その肉体は鉄、骨は青銅の強度を持つ。巨体に見合わず素早い動きで誰にも捕らえることのが出来ないとされ、以前不意打ちで発生した際には、対処が遅れた国が一つ滅びたという魔力災害。
国家規模で対応しなければならない、という常識は意識の片隅に置いておくとして、ひとまず考えなければならないのは、この場にいる面子だけであの化け物を倒せるのかという問題である。
正直なところ、ララカットがいれば何とか出来るのではないかというのがルルキエルの心算だった。世界最高の魔法士は伊達ではない。
「騎士団に応援要請は?」
「結界を解除しないとダメだな。却下」
そんなことをすれば街中に突然ベヒモスが現れることになる。被害はサフランのある居住区だけに止まらない。パニックによる二次被害もバカに出来ないだろう。数千人、数万人の死者が出ることは予想に難くない。最も、ベヒモスを相手にその程度の被害で済めば御の字という捉え方もなくはないが。
「それは最終手段だ。取り敢えず魔法攻撃してみるか。ララァ?」
「一番、ララカット・ラフィーニャ! 行きまーす!」
手を上げて宣言する魔法士ギルドのトップが魔力を紡ぐ。いまひとつ緊張感に欠けるのはいつものことなので気にしないことにした。彼女は何やらハンカチを取り出し、それを目に当てながら呪文を詠唱する。
「だって雷が出ちゃう♥︎ 女の娘だもん♫」
「それは断じて女の子じゃない、別の何かだ」
基本を無視した独自詠唱もここまでくると酷いの一言しか感想が出てこない。しかしルルキエルの呆れた声色に反して、世界はララカットの意思を聞き届ける。
青白く輝く雷鳴が天空を駆け、ベヒモスの紫色巨体を、より巨大な光の柱で包み込んだ。
「ふざけた詠唱で全くダメージを負ってなかったら役立たずの称号をくれてやる」
雷が轟く。光が潰れ、後に起こった大爆発の音はルルキエル達の元に一拍間を置いて聞こえてきた。閉鎖された、人のいない空間だからこそ出来た大魔法。第三階位に位置する光属性の攻撃魔法だというのは、後のララカットの弁である。
なるほど、地面に一キロ四方の巨大なクレーターを作り上げた結果を見るに、相応の威力であったことは間違いないのだが。
「無傷だな」
ルルキエルの言葉通り、煙の晴れたクレーターの中心地に傷一つなく佇む魔獣の姿があった。
「しかもこちらに注意が向いたようだ、すごい形相ですごい勢いで走ってくる。走る振動だけで震度いくつあるのやら。おい、役立たず、さっきの魔法、本気でやったのか?」
「本気の本気でやったよ? 手加減してないよ? あれでも通用すると思ったんだもん!」
「ま、役立たずの言い訳なんて聞く気もないが」
「酷いっ!」
とは言え、そこまでの期待をしていなかっただけに落胆も少なかった。記録にあるベヒモスの身体性能であれば、魔法が効かない事態も予想出来たからである。正しくは魔法が硬い皮膚に弾かれて内部に届いていない、と言うべきか。
現在のベヒモスとは四キロ近い距離がある。だからある程度余裕がある、と考えてしまったことは、しかしルルキエルにとって完全な油断だった。
グオォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ―――――ッッッッ!!
地響きのような唸り声。それがベヒモスの咆哮であることは直ぐにわかったが、巨大な口が開かれ、その牙がむき出しになったことに、ルルキエルの思考は一瞬だけ停止した。
(何を?)
まだ距離にして軽く三キロはあるだろうタイミングで口を開ける意味がわからない。誰に聞けばいいのかもわからない問いかけに、応えたのは当のベヒモスである。
グギャァァァァァァァァァァァァァァァァァァ―――――ッッッッ!!
鳴りが硝子を引っ掻いたような音を含んだ。ただそれだけのはずもなく。瞬間、視界を塗りつぶす光の帯がベヒモスの口から放射される。それは熱を伴い、雷を纏い、地面を焼却して、空気を消滅させながら、超高速で飛来した。
(転位を――いや、間に合わん!)
「ラーズグリーズ!」
捌き切れるか不安はあったが、それ以外に手段を講じている暇はない。計画を潰すもの。そう名付けられた魔剣の能力は、敵の攻撃の無効化である。
だがシルメリアの攻撃を防いだのとは規模が違う。ルルキエルとて、自分の身体の数倍に及ぶ大きさの、自身を千回は焼き殺すだろう熱線を相手にラーズグリーズが正しく機能するのか試したことはなかった。
ベヒモスの口から放たれたのは、直径にしておよそ十メートルほどの光熱波である。
軽く人間を包み込める光の渦が、ルルキエルの構えた魔剣に激突する。
瞬間、ルルキエルは自分が生きていることを、いもしない神に感謝したい気分だった。熱波は完全に彼の前で止まっている。熱風が肌を焼いたがそれだけだ。魔獣の口から放たれた光線の、その圧倒的な熱量自体は、微塵も彼とその後方には届いていない。
吹き飛ばされなかったことも幸いだった。僅かでもルルキエルが後方に飛ばされてしまえば、ルルキエル以外の人間は助からなかっただろう。
シルメリアの時のように光熱波は消滅しなかった。熱量が多すぎて、ラーズグリーズの無効化が追いつかないらしい。処理しきれず、弾かれた熱衝撃波が不快な音を立てて地面を焼いた。
光は止まない。だがその事実に反して、魔剣を持つルルキエルの腕は徐々に下がって行く。襲いかかる重圧に、身体が悲鳴をあげはじめたからだ。
(まずい、このままでは持って行かれる!)
その後に待っている結末は、四人揃っての消滅である。
(無効化が無理なら!)
決断は早かった。
「ホワイトベルティ!」
召喚したのは、掌に乗る程度の小さなキーホルダー型をした魔剣。
シリアルNo.601 『ホワイトベルティ』。
所有する能力は対象と自分の位置の入れ替わり。
四人まとめてベヒモスとの位置を入れ替える。ただし、光熱波はそのままで。
グオォォォォォォォォォォォォォォォォ―――――ッッッッ!!
先程のララカットの魔法に負けず劣らずの轟音を立てて、光熱波がベヒモス本体に突き刺さった。まさか自分の攻撃がそっくり返ってくるとはおもっていなかったのだろう。無抵抗に口の中を焼かれて、ベヒモスが苦悶の声を上げる。
だが、ベヒモスの熱波をどうにか防いだルルキエルも、相応に疲労していた。
「ルル、大丈夫?」
「ハァハァ……いや、ギリギリだ。まさかあんな遠距離攻撃まで有しているとはな」
「魔法効かないのに反則でしょ。でも今のは効いたみたい」
「自分の攻撃だからか。それとも身体の中は外殻ほどの強度がないのか」
収穫はあった。しかし、もう一度同じことを試す余裕はない。なによりラーズグリーズの刀身にヒビが入っていた。先程の攻撃による処理の負荷が、剣の強度にも影響を与えたらしい。
対処法がない。というのは致命的だ。であるなら、取れる手段は一つしかない。
「仕方ない。対策が思い浮かぶまで逃げ続けるぞ」
「あ、転位魔法なら任せてくれていいよ?」
「いや、いらん」
「え?」
虚を付かれたララカットを無視して、ルルキエルが呼び寄せたのは別の魔剣だった。
「シリアルNo.322『エアロドゥン』、続けてNo.571『リールベクター』起動」
一つ目に現れたのは、独鈷のような形をした魔剣である。両端に槍のように尖った刃が着いており、その周囲を七枚の花弁を模した刃が囲っている。見た目の鈍重さに反して実の重さは一キロのないため非常に軽いのは、この魔剣がディットクレイのように儀式用だからだろう。
そして二つ目は、特に目立った特徴のないファルシオンだ。棟は真っ直ぐで、幅広の刃は少しだけ反りがあった。片刃の大型ナイフのような形状をした、至って普通の一般流通品にしか見えない魔剣である。
「これは?」
「エアロドゥンは、狙った対象の摩擦係数をゼロにする。つまり――」
ズドンと大きな振動を立てて、ベヒモスがこけていた。距離が近くなっただけに、その巨体が倒れる振動と咆哮だけでも空気が震えた。地味に耳が痛い。
「地面の摩擦係数をゼロにしてやれば立つのもままらなくなる。そしてリールベクター。これは相手との相対距離を常に一定にする能力を持つ。近づかれても、万が一遠距離攻撃されても、奴との距離は常に一定になるから、攻撃を被る心配はない。取り敢えず、追いかけっこはせずに済むだろ」
ルルキエルの話を聞いて、ホッと胸を撫で下ろす者が一人。
「よかった。わたしが役立たずだから要らなくなったのかと思った」
「役立たずが役立たずであることに変わりはないがな、役立たず」
「うわぁーーーーーんっ!」
頭を抱えて転げるララカットを無視して、ルルキエルは直ぐ後ろで悲痛な面持ちでベヒモスを見つめているゼスに向き直った。
「力がいる。手を貸せ」
「俺に、娘を殺す手助けをしろというのか!」
「このまま奴を放置は出来ない。持久戦になれば俺たちが不利だ。短期決戦は絶対。その上で不意を付く。これでしか奴を撃退する方法はない」
「しかしあれはルキアだ!」
「ああなってしまってはもう助からない」
「貴様っ!」
激昂に身を任せて、ゼスはルルキエルの襟元を掴んだ。片手で軽々とルルキエルの身体を持ち上げるその腕力は流石というべきか。しかし、首元を締められて苦しいはずのルルキエルの表情は、どこまでも仮面に遮られて読むことは出来ない。唯一見えている口元でさえ、何ら反応を見せなかった。
「あれは魔獣だ。ルキアじゃない。そして魔獣の恐ろしさは、冒険者であったお前なら熟知しているはずだ」
「ぐっ……」
「俺たちが負ければ、王都デュランダルが惨事に見舞われる。数万の死者が出るのは間違いない。それで済めば運がいい。最悪、王都は全滅する。もし……」
ルルキエルは一度そこで言葉を切った。
「もしルキアが死ぬくらいなら、他の人間も道連れにした方がマシだ、などとほざくなら、俺が今すぐお前を殺すぞ、ゼス・ミルトス」
「そんなことは言ってない!」
「だが、行動を起こさないということは、そういうことだ」
「違う! …………違う。違うんだ。そうじゃない。他の皆が死ねばいいなんて思ってない……」
それはそうだろう。ルルキエルとて、ゼスがそんな考えを持っているとは思っていない。今のは、彼を冷静にさせる為の方便だ。
ルルキエルを締め上げていた腕に力がなくなり、程なく彼は地面に足をつけた。顔に出さなかったが、苦しくなかったわけではない。自然と息を着いたのは、それなりに痩せ我慢をしていた結果だ。
「…………なぁ、ルキアはもう助からないのか?」
「今の時点では無理だ。何度も言うが、アレは魔獣であってルキアじゃない」
「ルキアを助ける方法はないのか?」
「わからん」
「………今のままだと、どうなる?」
「魔剣を制御している俺の魔力が尽きて奴の攻撃が始まる。正直防ぐ手だてが思いつかない。役立たずの転位で逃げ続けたとしても、いずれ彼女の魔力が尽きればそれも終わりだ。後はベヒモスに蹂躙される。あ、その前に餓死する可能性もあったか」
今の時点で外界に被害が全くないのは、シルメリアを逃がさないようにするためにララカットが展開した結界のおかげである。だがそれも、ララカットが死ぬか、その魔力が尽きれば結界は解けてしまう。
ララカットが倒れた時点でベヒモスは実空間へと戻り、王都デュランダルを蹂躙するだろう。ルルキエルが倒れても、ベヒモスに攻撃が通じない以上は逃げるしかなく、やがて迎える結末も同じところに行き着く。
力なく項垂れるゼスには酷な決断であることもわかっていて、ルルキエルは非情のまま決断を促した。
「もう一度言う、力を貸せ、ゼス・ミルトス」
「…………」
答えはなく、ゼスはルルキエルから視線を外した。その先にいたのは、不安そうに父親の様子を伺っているルシオラだ。
「お、お姉ちゃん……は?」
「すまん」
「そんな……」
力なく崩れ落ちるルシオラの肩に手を乗せて、ゼスもまた嗚咽を漏らした。
助けたいという気持ちはわかる。だがその感傷にルルキエルは巻き込まれる訳にはいかない。どこまでも平坦に、どこまでも冷静に、起きた事態に対処出来るからこそのギルドマスターだ。
変わり果てた娘を、父親に殺す手伝いをさせる。その無念は父親ではないルルキエルには想像するしかないが、想像したところでおそらく理解は出来ない。だが、それがどれだけ残酷なことであるかは理解できた。
だからこそ、気持ちを整理するくらいの時間は与えられるべきだ。
「すまん…………俺は……何をすれば、いい?」
やがて絞り出すように声を出したゼスの決断に、言葉には出さずに賞賛しながら、ルルキエルは告げる。
「シリアルNo.453『ランドグリーズ』」
そうして現れたのは刃渡り百二十センチほどの直刀。形はラーズグリーズとほぼ同じ。唯一の違いは、刀身が空色をしている点だ。薄い青が綺麗な魔剣はラーズグリーズと同じコンセプトで作成された兄弟剣である。
「おい、役立たず」
「はい、役立たずですが、何か御用でしょうか?」
随分卑屈になったララカットに、そのランドグリーズを渡す。
「これでベヒモスの防御を敗れ」
「この魔剣は?」
「ランドグリーズ。ラーズグリーズの兄弟剣。ラーズグリーズが敵の攻撃を無効化するのに対して、ランドグリーズは敵の防御を無効化する」
「あ、なるほど! こいつで無効化した後、わたしの魔法を力いっぱい込めればっ!」
「摩擦係数ゼロの地面を滑りに滑って苛立って、その苛立ちに任せて暴れている三十メートルを越す巨体に、そう簡単に攻撃できるはずがないだろう。それに例え無効化して傷を作っても、あの硬い皮膚が魔法を容易く通すとは思えない。だからまず、シリアルNo.89『アギトベルゼス』で奴の周囲の時間を止める」
「それ、どれくらい止めていられるの?」
「奴の巨体と、魔法防御力から想定して、最大でも五秒が限界だろうな」
ララカットの魔力量なら、さらにその数倍は止めていられるかもしれない。だが残念なことに、『アギトベルゼス』を制御できる演算力がララカットにはない。
これはルルキエルの役目だ。
総じて、計画はそう複雑ではない。
「アギトベルゼスで奴の動きを止める。ララァがランドグリーズでベヒモスの防御力を無効化する。間髪入れずに、ゼスがその傷口をハンマーで物理的に壊して内蔵に穴を開ける。その内側めがけてララァの最大攻撃魔法を叩き込む」
その間、僅かに五秒。
「き、厳しくない?」
「厳しいのは百も承知だ」
「待て。俺のハンマーにそこまでの攻撃力はないぞ」
「わかっている。だから、もうひとつ味付けをする。No.180『サイクロトロン』」
現れたのは剣でもなんでもない、赤い布だった。絹で出来ているらしく、肌触りは心地よい。それをハンマーの柄に巻きつける。
「これを結びつけた物は回せば回す程、攻撃力が増大する。一回で二倍。二回で四倍。最大百回まで回せる。最終的に二の百乗まで攻撃倍加が可能だ。これで底上げする」
ちなみに百回以上回すと武器使用者にリバウンドするため、それ以上は回すことは出来ない。加えて、その増大効果が適用されるのは回し終えてからたったの一秒しかないという制限付きである。
「だからタイミングを誤るなよ?」
「わかっている!」
あれがルキアであると躊躇することさえ許さない。その意味を込めてゼスにハンマーを返すと、彼はその言葉の裏の意味を正しく理解したらしかった。
「回転に何秒かかる?」
「一回、回すのに一秒程度は欲しい」
「上出来だ」
アギトベルゼスを召喚して、ルルキエルは発動態勢に移った。
「では行こう。ゼスのハンマー回転が九十五回を超えた時点からカウント開始。
九十八回の時点でアギトベルゼスによるベヒモスの行動を強制停止。
同時にララァによるベヒモス上空転移。
九十九回目でランドグリーズで防御無効化。
その直後の百回目の勢いで、ランドグリーズで付けた傷口をゼスが物理攻撃で破壊。その攻撃で広がった内臓目掛けて、即座にララァの魔法攻撃。
直撃する前に、これもララァの転移魔法で二人揃って離脱しろ。
言っておくが――」
そこで一度言葉を切り、ルルキエルはずいっと顔をララカットへと近づけた。
「攻撃魔法は出し惜しみなしで行けよ? 次はないからな」
「お、オッケーです。了解。ラジャー。ルル、顔が怖いよ」
「当たり前だ」
ルルキエルの返答はにべもない。
「あの化け物相手に、第三階位魔法で何とかなる思ったお前の気楽さが意味わからん。俺のことを空気読めないとかよく言えたな」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。別にふざけてたわけじゃないけど、今度は正真正銘の最大攻撃魔法使いますから、許してください」
「ま、説教は生き残れた後でするとして、ゼス、準備はいいな」
「…………」
答えはすぐに返ってこなかった。だが。
「ゼス」
「……ああ。始める」
赤い布を柄に巻いた銀色に輝くハンマーを頭上に持ち上げて、その巨躯を駆使したハンマーの回転が始まる。
一回、二回、三回…………。
「ルキア……」
十四回、十五回、十六回…………。
「助けてやれない父さんを許してくれとは言わない。だが言わせてくれ、すまない。本当に、すまない」
五十五回、五十六回、五十七回…………。
「シエラとの約束も守れず仕舞いだ。俺は俺が思っていた以上に、情けない父親だったらしい」
七十九回。八十回。八十一回…………。
「もっとたくさん話したいことがあったはずなんだが、不思議と言葉が出てこないもんだな」
八十八回、八十九回、九十回。
「お前をこのままにすれば、大勢の人が死ぬ。お前に人殺しをさせたくない。だから、俺は俺にできることをやる。それが俺の責任だ」
九十一回、九十一回、九十二回。
「俺はきっと天国には行けないだろうから、あの世で母さんに謝っておいてくれ」
九十三回、九十四回。ルルキエルが宣言する。
「カウントを開始する」
九十五回。
「三」
九十六回。
「二」
九十七回。
「一」
九十八回。
「アギトベルゼス起動! 行け、ララァ!」
起動タイムラグは僅かな間。ベヒモスの周囲に黒い粒子が舞って、力の限り暴れていた魔獣の動きを止めた。黒い粒子は時空を司る第四の次元構成要素である。
「転位して!」
それを操る魔剣の起動に呼応したララカットが、自身とゼスをベヒモス上空へと転移する。落下の勢いそのままに、彼女は魔剣ランドグリーズを振り抜いた。
その間も、ゼスによるハンマーの回転は続いている。
「切り裂いて!」
九十九回。
ランドグリーズによる防御能力の無効化。その名の通り、鉄のようなベヒモスの身体の皮膚を、豆腐のようにスパッと斬り刻む。その傷口から魔力が吹き出るよりも前に、ゼスの回転は終わりを告げた。
百回目。残り二秒。
「うおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ!」
二の百乗に上乗せされた攻撃力を誇る超重量級のハンマーの先端が、ランドグリーズによって斬られた傷跡に突き刺さる。瞬間、威力に耐えきれずにハンマーが爆発した。だがその破裂以上の威力と重圧を持って、ベヒモスの肉体が破裂する。
攻撃は届いた。残り一秒。後は――
ゼスの巨体が反動で吹き飛ぶ様子を省みず、魔獣の巨体の中央に空いた穴――その先に見える骨と内臓目掛けて、ララカットが自身最大の魔法を炸裂させる。
「世界に終わりを告げる光!」
そして離脱。タイムリミット。アギトベルゼスの停止効果が終了する。
グアギャァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ――――ッッッ!!
痛みに喘ぐベヒモスの咆哮すら飲み込んで、ただただ光り輝く渦が視界を包んだ。ベヒモスの巨体を覆う光の渦。巻き込まれないよう魔法発動寸前の転移魔法で帰還した二人をかばうように前に出て、ルルキエルは数キロ先で立ち昇る光の柱を睨めつける。
第一階位の攻撃魔法。引き起こされる現象は、第三階位に見られた雷撃のような純粋な熱量による焼却ではない。巻き込んだ内側の、ありとあらゆる物質を光子へと変換して消滅へと導く――空気も、大地も、生命も、例外なく昇天させる世界最大級の魔法の一つだ。あれを結界の外で施行すれば王都デュランダルは死の土地と化す。結界が消滅しなかったのは、魔法の効果を内側にのみ発揮させたララカットの器用さのおかげだろう。
防御も回避も不可避の光の奔流。だがそれほどの魔法であってさえ魔獣を倒せる保証はない。現実に、あの内側には今も変わらず魔獣の気配が存在している。それだけの密度を持って生まれて来るからこその魔力災害だ。
「タイミングさえ合えば……」
だがルルキエルには勝算があった。あの魔獣の元はルキアなのだ。数日前、ルルキエルが魔剣を使って蘇生させた人間である。
魔獣に変貌を遂げ、その内側に押し込まれてしまった状態ではアクセスすら出来なかったが、ゼスの攻撃で身体を破壊し、ララァの魔法で内側から蹂躙した状態であれば、例え魔獣自体が死んでいなくとも、ルキアの中に埋め込んでいた魔剣の機能を復活させることは可能だと踏んでいた。
そしてその予測は正しかった。
ルルキエルの内側に、自身が制御下に置く魔剣の波動を感知する。
『リワインディングタム』――状態を巻き戻す。以前は、殺されたルキアを生前の状態に戻した魔剣。だが今度は、魔獣をルキアであった状態に戻す、わけではない。
『ナイハステータ』――状態を固定化する。一度失われたルキアの命は、リワインディングタムによって復元された状態で固定化し。
『ファルバックイッド』――生命を代替する。固定化された状態の生命体を、さも生きているように活動させることで、ルキアはここ数日を生きていた。
リワインディングタムで魔獣をルキアだった状態に戻すことは出来ない。ルキアに戻る前に、魔獣を完全な状態に戻すことになる。それでは先程の攻撃の意味がない。
だからルルキエルが施したのは、ルキアの内側で起動していた三つの魔剣の能力をカットすることだった。
これでルキアの肉体は否が応でもカトローナに殺された状態に戻ることになる。魔剣によって蘇生された状態で起こった魔獣への変異も、蘇生自体が無効になれば解除されるはずだ、というのがルルキエルの考えだ。
それは一片の根拠もない推論。賭けだ。
「ララァ、まだ魔力は残ってるな」
「もうあの魔法は無理よ?」
「わかっている。そうではなく、あの渦の中にあるルキアの身体を、こちらへ転移できるか?」
放置しておけば、ララカットの魔法がルキアの肉体ごと消滅させてしまう。その前にこちらへ引き戻さなければならない。
「…………助けられるの?」
「無理だな。元からルキアは死者だ。すでに殺された人間だ。だが、いくらなんでも遺体がないのは寂しいだろう?」
一拍だけ間を開けて、ララカットはうっすらと微笑んだ。
「……ん。わかった。何とかしてみる」
「合図を送る。彼女の肉体を魔獣の状態から解除するから――」
「その直前で、転移させるのね?」
「行くぞ」
吹き荒ぶ風がルルキエル達の肌を打つ。熱量はないはずだが、それでも肌はチリチリと焼けて、額に浮かぶ汗が流れては染みを作った。そういえば、汗をかくほど動いたのはいつ以来だろうか。
「リワインディングタム、ファルバックイッド、ナイハステータ停止」
ここからでは光が強すぎて、その中央部にいるルキアの様子は見えない。それでもルルキエルには、魔剣を介してルキアの肉体の変異を感じ取っていた。
「五秒後、転移させてくれ」
「了解」
ララカットは何も聞いてこなかった。
そしてきっかり五秒後、アベンダの姿に擬態された、ルキアの身体がルルキエル達の元へ転送される。
賭けには勝ったのだろうが、気分は晴れなかった。
魔獣に変異した際に服が破れたからだろう。裸体で現れたルキアの死体をそっと地面に降ろす。幾ら何でも裸ではかわいそうだろうと、着ていた上着を掛けてやる。
ルキアを数日前にカトローナに殺された状態へと戻すことが出来たことで、魔獣は消えて脅威は去った。これでようやく戦闘が終わったのだと、ルルキエルは未だ周囲を光の粒子へと変えながら天へと昇る光の柱を見上げる。
不意に、ハンマーを回していた時のゼスの言葉を思い出した。もし天を貫く光の先に死後に行ける場所があったとして、それが善人だけが行ける場所だとして、自分はそこに行けるだろうか。無意味な自問だという自覚はあった。直ぐに答えが出たからだ。
「行けるはずもないか」
現実主義のルルキエルにとって、死後の世界は存在しない。だから死んだらそこで終わりだ。情緒もなく、感傷もなく。あるのは厳然たる肉体の終焉である。火葬して、骨になって終わりだ。シルメリアのように肉体を捨て、精神だけになってまで生きたいとは思わない。
リン酸カルシウムで構成された骨の残骸を前にして人が死を悼むのは、別れを告げられた生きている側の感情の問題なのだろう。だからこそ、その死という事象に悲しみを覚えない自分は、もしかしなくてもシルメリアと同類に違いなかった。
自嘲気味に笑って、ルルキエルはゼスとルシオラに視線をやる。
突如現れた裸の女性――その死体が誰なのか、事情を全て知らない二人はルキアのことを想って今だ光の柱を見ている。だから話さなくてはならない。この似ても似つかない女性こそがルキアなのだと。
やがて光が収束して消え始めた頃、ルルキエルは意を決して事の始まりを語り始めた。
完結まで、あともう少しお付き合いください。