8
水の滴る音を聞きながら、加多利は一人きりの事務所の中で、温い静けさの湯に頭まで浸かっていた。
菊助が帰ってこない。
既に日は傾き、強い西日が事務所の中を赤く照らしていた。
そうして一人でいると、どうしても自分の心の中にある暗い陰が顔を出してくる。
しかし、陰はまだいい。
加多利が恐れるのは、その影に潜む獣のような過去の自分だ。
ふと一人になった時、傍に菊助が居ない時、加多利の中に閉じ込められた獣が、例えば机の影や、人影の中からこちらをじっと見つめている。
長年連れ添った友人のような、裏切り者を見るようなその視線は、隙を見せると何時でも飛びかかる用意があるぞと告げていた。
その獣が、我慢ならないと言ったように、いよいよ陰から一歩足を踏み出す。
二足歩行の、人の形をした黒い霧のようなそれは、ゆっくりと加多利に近づいてきた。
加多利は胸の上に重石を載せられたように、声を上げる事も、息をする事もできない。
黒い手が、加多利の首に触れた。
――――もういいだろう。
人影は一言そう言う。 その声は加多利自身の物だ。
頭の中で響くように、次々と催促する言葉が流れた。
――――我慢しなくてもいいんだ。
影は、ゆっくりとその顔を加多利の顔に近づけてくる。
ぎゅっと目を閉じても、まぶたの裏の闇にでさえ、影は映り込んだ。
いよいよ影が加多利の額に触れようとし――――世界は暗転した。
気がつくと傍で菊助が心配そうに加多利を見ていた。
自分でも分からぬ内に加多利の手が動き、菊介の頭の上に乗せられる。
菊助はそれを嫌がる素振りは見せず、されるがままに絹のようなその髪を撫でさせた。
「大丈夫ですか」
声の中にはどこか悲壮な響きがある。
「ああ、ただの夢だ」
「そう、ですか」
加多利は心配そうに自分を覗き込む菊助に微笑んだ。
もう少し心地よい髪質を堪能したかったが、それは諦めて、とりあえず身を起こす。
「それより、こんな時間まで一体何をしていたんだい」
菊助は困ったように暫く口籠もると、もごもごと呟く。
「帰りにスーパーでお弁当と、駅前の肉屋さんでコロッケをと思いまして」
「あそこのコロッケは美味しいからね」
駅の方まで行ってたのなら遅くなっても仕方ないかと納得すると、急に空腹感が主張してきた。
丁度手渡されたコロッケを頬張る。
「美味しいね」
「ええ」
「菊助君」
「なんですか」
「分かったよ、今回の失踪事件の顛末が」
菊助は手にしたコロッケを取り落しそうになるのをこらえながら、目を丸くした。
「正気ですか? 先生、本当に熱でもあるんじゃないですか」
「そこまで言われるといっそ清々しいね。 いいや、僕は大真面目だよ」
菊助はやはり信じられないといった顔で加多利を見ている。
「明日、もう一度水谷邸に行くよ」
状況に追いつけない菊助の手からコロッケを奪い取ると、二口で平らげる。
「あ、」
「うん、やっぱり美味い」