5
水谷邸の門前、そこそこ大きな邸宅の、威圧感すら覚えるその門に相対する位置に菊助は一人で立っていた。
二つあるガレージには、車が一台しかないが、それも高級車である。
手には高級菓子店で買った中々お値段の張るクッキーが入ったバスケットを持っている。
肌に差す陽光が夏の訪れを予期させる今日この頃、菊助は慣れぬ服装でここまで徒歩できたわけだが、その疲れは確実に彼の体力を奪っていた。
いや、それと同時に精神的にも彼を蝕んでいたと言ってもいいだろう。
それが証拠に先程から浜辺に打ち上げられたイルカの様な目で数分に一度盛大な溜息を吐いている。
先日の加多利の厭な笑みから既に何かしらかの不穏な空気は感じていたが、まさかここまでとは流石の菊助にも思いつかなかった。
流石にここまで、似合うとは。
自分の事であるが、まさか、まさかここまで様になっているなどと、どうして予想できるだろうか。
菊助はチェック柄の丈の長いスカートの端をぎゅっと握りしめ、インターホンに映っているであろう自らの姿を夢想する。
白い花柄の刺繍を控え目にあしらったシャツと度の入っていないメガネ、本物同様にサラサラの亜麻色の長髪は背中で三つ編みにしてある。 そんな可愛らしい少女の姿が脳裏に浮かんだ。
何を隠そう、菊助自身の姿である。
その似合いっぷりは恥ずかしそうに辺りを見渡しては赤面し、風が吹く度にバッと素早くスカートを抑えるその姿は、見る物にある種の庇護欲さえも感じさせる程だ。
菊助はオドオドと水谷邸の前でしばし戸惑っていたが、やがて決心がついたらしく、インターホンに指を伸ばす。
一度鳴らしてしばし待つと、
『どちら様でしょうか』
明らかに不機嫌そうな女の声。
富野から聞いていた話ではこの家に住むのは美空とその両親だけの筈であるから、これは母親なのだろう。
仮に大学進学後音信不通となった兄が恋人でも連れて帰っているなら話は別だが。
「美空さんの友達の菊池京子です最近美空さん学校にいらっしゃらないから心配で……」
常時よりも少し高めの声を意識しながら菊助は答えた。
『あぁ、京子ちゃんね。 娘から話は聞いているわ。 でも御免なさいね、娘はタチの悪い風邪なのよ』
「ちょっと会うだけでもダメですか? 心配なんです」
『京子ちゃんに伝染るといけないから、御免なさいね』
「あの、それならせめて此れだけでも」
菊助はそう言ってクッキーの入ったバクケットを掲げてみせる。
しばしの沈黙の後、戸が開く音と共に家から一人の女が出てきた。
青白い肌の、すらりと背の高い女性だ。
「わざわざ来てもらったのに御免なさいね」
その声はインターホン越しに聞いたそれだが、最初に比べて幾分か柔らかな声音になっていた。
「勝手に押しかけた私が悪いので。 あの、じゃ、お兄さんは……」
「兄? それはあの娘が言ったの?」
母親は明らかに語感を荒らげて聞いた。
「いえ、何でもありません、違う人だったかも」
「そう。 そうでしょうね。 息子なんて、家には居ないもの」
「あの、私もう帰りますから、これ、皆さんで食べてください」
菊助は自分が男だとバレないよう、顔を背けながらバスケットを差し出す。
「ありがとう。 あの子にもちゃんと言っておくわね」
「ありがとうございます」
なるべく楚々とした様子で頭を下げると、菊助はその場を後にした。
背後からあの母親のものであろう視線が、痛いほどに感じられた。