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翌日、常時の如く事務所のソファで目を覚ました菊助は常時と違う何かを感じ取り、眠い目をこすって辺りを見渡した。
散らかった書類、やたら豪奢な窓際のデスクと椅子も、家具の類は何の変化もない。
唯一つ、備え付けのシンクの上に、飲んだ後と思われるカップが一つ置かれていた。
菊助は寝る前には食器を全部洗う。 加多利がそれらを手伝うわけもなく、また、放置しておいても結局後から菊助が洗うのだから、ルーチンワークで収まる内にやっているのだ。
洗い忘れという事も無くも無いがカップ一つ忘れるという事もないだろうから、単に加多利が菊助よりも早く起き、菊助を起こすわけでもなく自分で珈琲を淹れたのだろう。
そこまで考えて一度あり得ないと決断してしまったが、よくよく考えてみてもそれ以外に結論が出てこない。
その上、どこを見渡しても加多利の姿が無い。
影も形も、痕跡だけ残して消え去っている。
この現状に菊助がまず抱いた感想はこれは夢なのではないかという事だ。
菊助の主人であり、語部探偵事務所唯一無二の探偵にして無能の権化であるところの加多利が、自分で起床した上に珈琲を手ずから淹れる。 その上外出しているなど、面白おかしい冗談の様なものだ。
この話を人伝てに聞いたならば、ネッシーが鴨川で泳いでいるというのと同レベルで疑っていた。
しかし、今回はそうではない。
菊助自身が状況を整理した結果が、加多利が普通に行動しているという事なのだ。
菊助は寝癖のついた髪を手櫛で手早く直しながら、ダボダボのパーカーとスウェット姿という寝巻き姿から、茶色いチェニックのサスペンダー付きズボンと無地のシャツに着替える。
直しきれなかった寝癖はお気に入りのハンチングで誤魔化し、とりあえず外に出る準備だけは整えた。
最後に何処かに書き置きか何かが無いかと探し、見つからない事に僅かな苛立ちを覚えて、事務所の戸を開ける。 駆け足で階段を下りると、五つもある鍵を恨めしく思いながら一つずつ開けた。
最後にチェーンを外してドアを開く。
「おおっと」
飛び出しかけた菊助の矮躯を細身の長身が受け止めた。
加多利はたたらを踏んで転倒を堪えると、ずれた帽子を片手で直しながら、もう片方の手で菊助の背を抑えている。
「危ないじゃないか。 私が変質者なら今の内に連れ去ってしまうところだよ」
「先生……」
菊助の背で何やら紙袋の擦れるような音が鳴った。
「どこ行ってたんですか」
講義的な視線で訴える菊助に、加多利は困ったというように苦い笑みを浮かべた。
「友人にちょっとした小道具を借りてきたんだよ。 今日の為のね」
そう言うと加多利は菊助の背に回していた手を離す。 その手には案の定紙袋が握られていた。
「なんですか、それ」
「いやね、僕も考えたのだけれど、先ずは親御さん達からお話を聞こうと思ってね」
「はぁ、それは分かりますが、その事と紙袋と関係あるのですか?」
「まあ中で話そうか、朝はもう食べたのかい?」
菊助は首を横に振って答える。
「今日は僕が作ろう。 スクランブルエッグしかできないが、朝ならそれでいいだろう」
「非常に心配ですが、お願いします」
加多利はどんと胸を叩くと任せておきなさいと言って笑った。
果たして、菊助の眼前にはトロッとうまい加減に焼けたスクランブルエッグとサラダが皿に盛られていた。 脇にはこんがりと焼けたトーストもある。
「先生が料理を作るところを初めて見ました」
菊助はトーストにバターを塗りながら言った。
「そうだねぇ。 常時は君に任せっきりだからね」
加多利はレタスとスクランブルエッグを乗せたトーストを一口囓ると、珈琲に手を伸ばす。
「珈琲はもう君に淹れてもらった方が美味いけど、まぁたまには良いものだね」
「褒め言葉として貰っておきます」
「褒め言葉さ。 その年で家事を器用にこなす菊助君を褒め称えて崇め奉ってるだけだよ」
「さりげなくこれからもその手の仕事を僕に投げやるのは辞めてください」
菊助はばれたかと笑う加多利をキッと睨んだ。
「それで、珍しくも(・・・・)、先生が僕よりも早起きして出かけたその成果は何だったのですか」
「コレさ」
加多利はテーブルの脇にあった紙袋を手繰り寄せると、中から一房の髪を取り出した。
菊助は僅かに肩を震わせ、息の漏れるような悲鳴をあげる。
「ハハ、何、そんなに怖がる事はないよ。 コレは只の付け髪さ」
亜麻色の長い髪を弄り回しながら加多利は楽しそうに笑う。
菊助は今更のようにその笑みの意味を察した。
「い、嫌ですよ、僕は! そんなの!」
「これも捜査の一環さ。 何。 探偵物に変装は付き物だろ」
「流石にこれは許しませんよ! 第一、必要性も感じませんし、それに……」
「それに?」
「恥ずかしいじゃないですか」
菊助は俯き加減に頬を赤らめながら言う。
しかし、その動作こそが決定打となった。