第十三話
――朝が来ていた。
雨は上がったのだろう。鳥がさえずっていた。
室内は相変わらず薄墨色で他の色彩は見えなかった。いや、四角い窓の形に青白い光が漏れていた。
朝と認識する間もなく、少女はまた目を閉じた。脳は働いておらず、しばらく眠り、また目を開けた。そしてまた眠る。
ふたたび目を覚ました時、アリーシャは見慣れない風景に戸惑いを覚えた。天井が低い。薄暗い。全体的に黒ずんだ室内で、柱と天板と床の木目は真っ黒に見えた。窓が閉まっていた。木で出来た雨戸を閉めているせいで、室内は時が解からないほどに薄暗かった。そして、部屋には他に誰も居ない。静まり返っていた。
ガラスの嵌め込まれた小さな窓だけが、穿たれた穴のように陽光を室内に差し入れていた。眩しいほどの光がそこから差していて、夜ではない事を教えた。認識したところで、また眠りに落ちた。
次に目を覚ましたのは、物音に気付いた時だった。扉が開く軋んだ音階で、また緩やかな目覚めが来た。
「起こしたか、すまん。」
低くもなく、高くもない声で、黒ずくめの服が視界に飛び込んできて、そう言った。
小鳥のさえずりが騒がしく、声を聞き逃してしまいそうだった。耳に届けられるその声の響きは心地良かった。管楽器のように賑やかな鳥の歌も、今のアリーシャには、眠りを誘う子守唄だった。
熱のせいで、脳がとろけている。
夢に誘われて、再び少女は眠りに落ちた。
浅い眠りと目覚めを交互に繰り返していたアリーシャの傍に、いつの頃からか誰かが寄り添った。
夢の中と外は境目がなかった。不安な時、傍に居てくれる誰かは嬉しかった。
知らない場所、知らない誰か、けれどアリーシャは眠りを優先した。
それから何度目かの目覚めだった。意識が朦朧としていたが、そのうち黒ずくめの服の男が探していたアレンだった事を思い出した。ようやく、寝ぼけていた頭が起きて回転を始めたようだった。
ずいぶん遅れて、アレンがずっと傍に付いていてくれたのだと認識した。
「おはようございます、」
タイミングを外すと、単なる挨拶も素っ頓狂なものに聞こえるのだとアリーシャは知った。言ってしまった後から、おはようなどという時刻ではないと気付いたが遅かった。振り返った時のアサシンの顔は、奇妙なものを見るような目つきだ。赤面ものだった。無言で見つめているのは、どういう意味なのだろうかと、布団に頭まで突っ込みたいような気分のままで考えた。
目と目が合わさったまま、アレンの手が伸びてアリーシャの額に乗った。大きな手が近付いてきた時に、思わず少女は目を閉じた。父親以外の男とこんなに長い間一緒に居たことはなかったから、どうしていいのかも解からなかった。ただ、ただ、照れくさくて、早く手をどけて欲しかった。けれど、本当にアレンの手が引いていってしまうと、なぜだか寂しく感じた。
「まだ微熱が残っているな、」
心地良い穏やかな声がそう告げた。弱っていた心に沁みる声だった。
しばらくすると、階段を誰かが昇る足音が聞こえた。お医者様が来て、今度こそアリーシャは確実に目を醒ました。熱を出して倒れてしまったらしい事、昨夜の続き、そんな事を聞かされた。
それからまた、階段を昇ってくる足音に気付き、ほどなく開かれた扉の向こうに、この店のマスターの姿を見た。マスターは木製の鍋敷きを手にぶら下げて、アリーシャに微笑みかけた。
「お、目が醒めたか。ちょうど良かったよ。」
傍に来て、サイドテーブルに鍋敷きを置いてそう言った。
それからすぐにまた階下へ降りて行った。いい香りが階下から漂い流れていた。誰もが気を使ってくれていることは、その場の空気で読むことが出来た。申し訳ない気持ちで一杯だった。
その後にアレンとお医者様との交渉を、目の前で聞かされた。
アレンの意外な一面を見せられて、アリーシャは驚いていた。彼は、昨夜見た不機嫌な男ではなかった。
冗談交じりの掛け合いで、お医者様と値段の交渉などを行っていた。知り合ったばかりだが、色々な顔を持っていて興味深い人物だ。けれど、暗殺者という危険な顔は、どうしても一見では結びつかないと感じた。
姿勢が良くて、どこか上品で、酒場に屯していた他の男たちとは違っていた。今も、この部屋で一人浮いている。なにより、声が素敵だった。舞台で美声を披露しているオペラ歌手のようだと思った。
けれど、昨夜階下で見た他のアウトローたち同様に、性格は頂けないとも思った。
気付けばアレンの事ばかり目で追っていて、我ながらで気恥ずかしくなった。確かに、見た目だけなら素敵な男性だと思う、アウトローたちと共通の無神経さが無ければ良かった。オマケに大酒呑みのようだった。
残念な男の残念さ加減を数えているうちに、階下から昇ってくる足音に気付いた。
先程から漂っていたいい香りの正体が、赤い鍋掴みに挟まれた格好でやってきた。
グラタン皿は少々大振りで深めだ。見たところでは三人前くらいはありそうな大きな皿だった。昨夜見た酔っぱらいたちなら、この程度は一人で平らげてしまうのかも知れない。歯を見せて笑うマスター自身が、これをぺろりと食べてしまいそうな大柄な人物だ。ベッドに寝ているアリーシャには、皿の中身は見えなかった。けれど、トロトロに煮込まれたトマト特有の、甘酸っぱい、いい匂いがしていた。
サイドテーブルに皿を置き、マスターはアリーシャが起き上がろうとする時には手を貸してくれた。
皿の中身をついついお行儀悪く、覗き込んでしまう。テーブルに乗ったトマト料理はリゾットで、ナスとスペアリブが入っていた。丸くカタチを保ったトマトの実がつるりと光って、トロトロに煮えたソースと分けての二段使いなのだろうと思った。とても美味しそうで、思わず生唾を呑みこんでしまった。慌ててアレンを見た。幸いなことに、恥ずかしい音に気付かれなくて済んだようだ。ほっ、とした。
マスターが両手を広げて、誇張したゼスチュアで宣言した。
「さぁさぁ、遠慮は無しだ。たんと食いな。俺の自慢のトマトリゾットだ。」
何の下心も無い、純粋な親切心からの言葉だった。
アリーシャは深く深く礼を捧げた。
見ず知らず、一文無しの今の自分にここまでしてくれる、その優しさに心から感謝した。
「有難うございます、このご恩は決して忘れません。」
この恩に、どう報いれば良いのかも解からなかった。言葉など、なんの恩返しにも、救いにもなりはしない、それでも何も返さないままは申し訳なくて、アリーシャは組んだ両手に祈りをこめた。神様へ、この人々への祝福を願った。
「いや、まぁ、もういいさ! ほれ、早く食っちまいな、腹が減ってるだろう!」
照れ隠しに何度も頭を掻いて、マスターは笑った。平民と呼ばれる貧しい人々の方が、貴族たちよりも何倍も親切だと思うのは、気のせいだろうか。涙がこぼれそうになった。
アレンが給仕をして、皿に取り分けた料理を渡してくれた。
こういう細やかな事にまで気が回るのだと知って、ますます驚いた。
そして、小皿にどすんと乗っている大きな肉の塊に、呆気に取られてしまった。
殿方は大雑把なものだから、とは母の口癖だった。
少しだけ、アリーシャは悩んだ。マスターはダシにしただけだから食べなくても良いと言ったけれど、とてもそんな風には受け取れない。なんの動物にしろ、肉は高価な品物だという事を少女は知っていた。
きっと、わざわざこれを入れてくれたのだと考えた。病んだ身にこんな重い食事は少々きつかったけれども、気持ちには応えなければと考えた。
フォークとナイフを使うと、小さなお皿だからこぼれてしまうかも知れない。そう思ったから、少女は迷いなく手を伸ばした。マスターは褒めてくれた。けれど、アレンは呆れたような目で見ていた。
何かはしたない真似でもしたのだろうかと、アリーシャは気が気ではなくなった。
呆気に取られるアサシンの目と、心地悪げな少女の目は、しばらく見つめ合っていた。微妙な空気が二人の間にだけ、漂っていた。
驚いたように見えたアレンの表情は、そのうち、苦笑に変わった。
貴族の晩餐ではないからと、油断したのが悪かった。もう一口、柔らかく煮えた肉片にがぶりと噛み付いて、アリーシャは男の方を見ないことに決めた。
この、美味しいお肉に集中しよう。思えば何日ぶりかで食べることが出来た、まともな食事だった。
ホロホロになった肉の塊は本来、脛の部分の堅いところだろうに、コックの腕がよほどに良いのか、噛めばあっさりと千切れてしまう柔らかさだ。脂っこさはない、ぷるぷるになったスジがゼリーのように口の中で溶けた。自身が今まで食べたなかでも、最高に美味しいお肉だと思った。
「美味しい、」
謙遜でなしに、自然と口をついて出た。
マスターのほころんだ口元が、さらににんまりと丸まった。その背後を抜けて、アレンが部屋を出て行く姿をアリーシャは見咎めた。不安が急に胸に広まった。他の者の声が急に遠くなった気がした。
アレンはすぐに戻り、テーブルの端に濡れたナプキンを畳んで置いた。
「食後に使え、」
「あ、りがとうございます、」
慌てて飲みこんで、途切れたお礼の言葉を述べた。
戻ってきた男を見て、心底安堵した。そして、そんな自分に戸惑った。
階下から慌ただしい足音が響いた。大きな音を立てて階段を一足飛びに駆け上がってくる。誰かと訝しむ間に、開け放たれた扉をがっしりと掴んで、見知らぬ若い男が姿を見せた。
息を切らせたその男は、何度か呼吸を整えるといきなり言い放った。
「おい、旦那方! なんか知らねぇが、胡散臭い連中が大勢詰めかけてきたぜ!」
アリーシャは、手にした骨を取り落としそうになった。慌てて皿に戻して、アレンに向き直った。
「あの連中です、嗅ぎつけてきたに違いありません!」
自身を追ってきたのだ、それは確実だった。だからアレンを頼って来たというのに、今のアリーシャの心には後悔と自責の念だけが渦を巻いていた。
自身が、連れてきてしまった者たちだった。こうなると解かっていて良かったことだ。
愚かさに、自分自身を呪いたくなった。
「連中はきっとこの街を襲います、人々を早く逃がしてください!」
身体が勝手に震えだした。指先がわなわなと、自身ではどうしようもなく、肉を皿に戻して良かったと取り留めもない事を心に浮かべた。動揺していると自身で思った。
アレンは落ち着いた仕草で少女の膝から皿を取り上げ、テーブルに置いた。代わりにそこに置かれたナプキンをアリーシャの手に持たせた。
「心配するな。この街の連中は一筋縄じゃいかない。」
男の返答は、どこから来るのかも解からない謎の自信に満ちていた。
アレン以下、店のマスターも今朝会ったばかりの老医師も、ニヤニヤと笑うばかりでまるで焦ってなどいなかった。けれど確かに、上品なオペラ歌手は、危険な暗殺者に早変わりしていた。
「一般市民の避難は完了しているか?」
アレンが問いかけると、すぐにマスターが返事を返した。
「ああ。昨夜のうちに安全な場所へ移ってる。出来ればお嬢ちゃんもそっちへ移したかったんだがなぁ。」
マスターは心底残念そうな顔をして、アリーシャに視線を向けた。会話を聞く限りで、彼らはとうの昔に迎え撃つ為の準備を済ませているのではないかと感じた。
後は出る幕がなかった。
「流感だと全員に感染るぞい、やめとけ、やめとけ。」
老医師が手の平を大袈裟に振って、首も左右に振って、否定した。
「今は動ける状態じゃないわい、」
「はい、はい!」
さっき来た若い男が威勢よく挙手をした。
「いざとなりゃ俺が負ぶって逃げますよ。ただ、ここは危ないから奥の部屋へ移動しときましょう!」
声の大きい青年だった。およそ、アレンより一回りは若そうな、あまり落ち着きはなさそうな男性だ。短く刈った黒髪は、少し青みがかかっているような気がした。そして、彼もまたアレンと同種の人間なのだろう、顔は印象が薄くて特徴を持たなかった。
晩餐会の終わった夜、父が言っていた話を思い出した。
アサシンは、自身の印象を記憶から消してしまう能力を持つ者だけが成れるのだ、と。
酒場の風景を思い出した。
この街は、顔を持たない者たちの街だった。
「さて。それじゃぁ、わしも退散するとしようかの。」
老医師が、床に置かれたボストンバックを閉めた。
「なんせ、わしゃぁ一般人だからの。」
「けっ、よく言うぜ。薬より毒に詳しいくせしやがって。」
「それはお互い様ってもんじゃな。」
ワケありの人間たちがワケありの軽口を飛ばし合う。
お礼もまだだった事を思い出して、アリーシャは慌ててそちらを向いた。
「あっ、あの、わざわざお越し頂きまして、有難うございました。診療の代金は、いずれ必ずお支払いいたしますので、申し訳ありません、このまま借用させて頂きます。」
「ああ、気にせんでいいよ。お嬢ちゃんは女王候補だ、公爵様からたっぷりと頂くことになっとるよ。」
ますます気が引けるような、老医師からすれば冗談の域の言葉を、笑いながらで返された。
「教会の地下におるから、薬が入り用なら尋ねてくるがいいさ。」
重そうな鞄を手提げにして、医師はアレンとマスターに向き直ってそう言った。
「薬より、連中を突っ込むための棺桶を発注しといてくれ。大量にな。」
マスターが物騒な冗談を返した。




