第一話
ずぶりと突き刺した剣が。
引き抜かない限りは血が出ないものだと思っていた。
嘘だった。
腹に深く刺さった白銀の刃も、激しく隆起する腹筋も、薄い紅色に濡れている。
引き抜けばどうなるかを知っているのか、男は激痛に顔をしかめながらも剣を両手で握っていた。苦悶の表情、けれど目鼻立ちはぼんやりとして、記憶の中の顔は見覚えがなく、霞んでいる。
雨のしずくが前髪の先から落ちている。濡れそぼった髪の色は黒かった。細身の男で、上は裸で。
指の合間からも薄く血流が流れ、ピンク色の筋が幾つも肌に沿って流れている。雨にまじり、滲んだ。
血の流れは、真っ赤じゃないんだ。
薄紅色の液体はさらさらで、両手と腹を染めて、僅かな光源にてらてらと光る。
剣の刃と肉の境目は赤かった。皮膚を破った奥の肉の赤さが白い刃に絡んで貼り付く。ぴったりと。
刹那の瞬間だったはず。
それなのに、やたらと長い時間のコマ送りのような、映像は脳裏に焼き付けられていく。
泥にまみれた靴底が、男の腹に吸い付いた。白いショートブーツは薄汚れて茶色のまだら模様が浮く。
肉が引き攣れて、嫌な擬音を手の平に届けた。引き抜く刃に吸い付いている。肉が。
貼り付いた肉が引っ張られて、ズリズリと感触は刃を突きぬけて手に届き、腕を伝って脳天をざわつかせる。
一瞬だったはず。
五本の指がぽろぽろと落ちる。
二つ折りになって、男が膝を着いてうずくまる。
泥が、撥ねる。
雨が降っていて、世界は灰色で、男の腹が真っ赤で、泥が赤黒く染まる。
腹には血の塊が息づいていた。ぶくりと大きな泡があり、指のない手の上で盛り上がり溢れ出た。
赤い湧水のように腹の上で血が盛り上がり、溢れていた。
赤黒い泥が、男の周囲に広がって、足元へ迫ってくる。
水溜りに溶けた血の色は黒く、蛇のような速度で雨の波紋に乗って進む。
雨の音が、耳鳴りに混じっている。
灰色が渦を巻く空。針のように振り落ちる銀の軌跡。刺さりそうな銀に煌めく糸くずが、澱んだ墨汁の暗い空から大量に落ちていた。
男は前のめりに泥の中へ倒れ、指のある手が伸ばされていた。
雨で流され、血の赤は薄紅色に希釈されて、爪の間は赤かった。
節くれだった太い指に、四角く切られた爪。掴みかかろうとしているかに見えた。
鉛のように重くなった身体は、もう自身では寝返りすら打てないはず。
剣の先で瀕死の男を裏返す。目は鈍色に、濁っていた。
白い小さな手が伸ばされ、勢いの衰えた血の噴流に向かう。
わななく手は血に染まり、雨と滲んで薄紅に染まる。
「我が名、王命の契約にもとり汝をここへ呼び寄せる、癒しと生命の源、精霊の母、偉大なる大地母神ヴルンシェムよ、我に力を貸し与えよ、その魔力持ちてこの者の命永らえるべし。」
鈴の鳴るような美しい声が旋律を紡ぐ。微かに上ずった声は時折調子を外す。
震える手はぼんやりと光り、灰色の景色に仄明るいオレンジの色を差した。
噴き上がる血溜まりが、見る間に消えてゆく。赤黒く開いた肉の切れ目が萎んで塞がった。
「さぁ。望み通り、覚悟のほどは見せました。約束ですよ、わたしの護衛をしてくれますね?」
切羽詰った鋭い声が、男の上に降りかかった。
傷は文字通り消えてなくなり、血の気の失せた肌になおも冷たい雨は降り続ける。
幼い手は男を引き起こそうとして、男の腕に跳ね除けられた。
灰色と暗い血の色に染まっていた世界が、ようやくとりどりの色合いを戻し始めている。
少女は、初めて男の顔を認識することが出来るようになった。
暗殺者の顔かたちは、見ようと思う者には見えない。




