第十八話 夢か真か
「なあアンナ、私は今、夢の中にいるのだろうか。」
ほんのさっきまで自分の瞳に写っていた彼はもうここにはいない。
ぼんやりとした表情を浮かべながら(端からみれば、いつものシルヴィの顔と変わらないが)シルヴィはふわふわとした思考のなかで、そっと呟いた。
八年ぶりに、いやこんなに近くから顔を見たのは初めてかもしれない。
といっても、恥ずかしくてほとんど見ることはできなかったのだけれど。
惚れ惚れするほどの精悍な顔つきと、バリトンの低い深みのある声、がっしりとした体つきには礼服の上からでもわかるほどの色気がただよい、シルヴィはくらくらと色気に酔いそうになる自分を感じていた。
八年前の顔の名残はたしかに残っており、あのときからすでに美少年であったことから、このような成長をとげることは約束されていたようなものだったであろう。
そして変わることのない深い蒼色の髪と眼は、シルヴィを八年前からずっと捉えて離さない。
さっきまでのことがまるで夢のようで、もし本当に夢ならば、そろそろ冷めてくれないと本気で困る、とシルヴィはため息をはく。
レンゲルド様に会いたいと、願わない日はなかった。
けれど、自分の立場もきちんと理解はしているために、かなわない夢だと当に諦めていたのだ。
この八年間を改めて振り返ってみたとき、どこかで奇跡が起こるのを待ちながら、結局自分は何もしていなかったのだと気づいた。
自分が動かなければ、なにもかわりはしないというのに。
「あらあら。夢ではありませんよ、シルヴィ様。ついさっきまで、あなたがレンゲルド王のもとにいたことは、このアンナが証明いたします。」
ニコリと、長年自分のそばで見守ってくれていたアンナがそういったのを皮切りに、夜会から今までのことが一気にシルヴィに襲いかかってくる。
きついほどに抱きしめられ、熱い吐息を首筋に感じたことも、あの逞しい腕が私の体を絡めとり横抱きにしたのも、太陽のような笑顔を再び間近でみることが出来たのも、全て、夢ではないのか。
その瞬間、シルヴィ羞恥のあまり倒れそうになるのを必死に我慢した。
ぶわわわっと赤くなった顔は、日頃無表情を貫くシルヴィにとって大変貴重なものであるが、その様子にもアンナはニコニコしたまま、特に騒ぐことはない。
ああ、なんという経験を今夜はしてしまったのであろうか。
「わ、私はなにか失礼なことをしていないだろうか。礼儀作法は、とれていただろうか。」
あまりのパニックに陥り、おろおろとしだすシルヴィ。
それをアンナは愛しそうに見守る。
すると突然なにかに気がついたように、シルヴィははっとした顔になり、その後盛大に落ち込みだす。
今にも泣き出しそうな声でなにをいいだすかと思えば、
「横抱きに・・・されたぞ。私の体は重くなかったであろうか。ただでさえ筋肉で重いのに最近は鍛錬もできていなかったから絶対に太っていたぞ。」
ああもうなんて可愛らしいのかしら!と、アンナは顔を微笑ぐらいに抑えながら、握りこぶしをひっそりとつくり、心の中で盛大に叫ぶ。
シルヴィは気づいていないだろう。
もしこの様子をレンゲルドがみたならば、シルヴィをおもわず抱きしめて、横抱きにし、寝室までつれていってからデロデロに甘やかすであろうことに。
へたすれば「羽のように軽い」などといわれ、証明するために(というよりレンゲルドがただしたいがために)城の中をシルヴィを横抱きにしたまま案内されるであろうことに。
少しぐらい、浮かれてもいいのに。とアンナは思う。
この八年間一途に想い続けるシルヴィを見てきたからこそ、今夜の出来事に関してもう少し前向きに考えればいいものを、と多少は歯ぎしりせずにはいられない。
もし、ほかの娘であったなら、今夜のレンゲルド王の様子をみれば、自分が愛されていることなどすぐに気がつくであろう。
まさか、と思いながらももしかして、という期待を消すことなどなかなかできやしない。
それが普通の反応であり、今夜のレンゲルド王の態度は期待してもいいほどの溺愛ぶりであったといえよう。
けれど、シルヴィはけっしてそのような期待を持つことをしない。
ただひたすら彼を想い続けていたからこそ、そのような恋愛に発展することまで考えたこともないのだ。
婚約にしても、自分が恥をかかないようにその場限りでやんわりと是といってくださったのだ・・・・などとシルヴィは思っているに違いない、とアンナは頭を悩ます。
願わくば、なにごともなくレンゲルド王との婚約、そして結婚がすみやかに行われますように。
シルヴィ様を相手に愛を囁くには、まず外堀を埋めないと難しいかもしれませんよ?といつかレンゲルド王にいってやらねばならないなぁと思いながら、今だ、パニックになりすぎてふらふらしているシルヴィをしっかりと愛でるアンナであった。
そして一方、後宮の中のある部屋では、后候補としてこの国に訪れシルヴィになにかとちょっかいを出していたあの二人が、憎悪に顔を醜く歪めながら密談を行なっていた。
彼女たちは不思議で仕方なかった。
なぜ、王はあのような、みすぼらしい、目立ちもしない女を選んだのか。
彼女たちは自信があった。
それぞれ、父親に王を虜にしてこいといわれ、正妃の座を当然とるつもりでここまでやってきた。
つい最近まで自分の国と彼の国が戦争をしていたことなど、彼女らにとってみれば、なんの障害にもなりえなかった。
どうせ、自分をみたら、王はたちまち虜になってしまうのだと疑いもしなかった。
だって今までずっと男たちはそうだったのだから。
自分になびかない男など誰一人いなかった。
王の顔がどういったものなのかは、今まで敵国同士であったためにみたことはなかったが、まぁ、自分の仕事は王を自分に溺れさせることなのだから、どうでもいいかと考える。特に興味などなかったのだ。
その考えが変わったのは、彼を、王を初めてみたとき。
あまりの美しさ、気高さ、そして荘厳さに息が止まるかと思った。
あの無表情の顔が、愛しいものをみるときはどう変わるのであろうかと想像するだけで、胸がはちきれそうになった。
その表情が、もし自分に向いたら。
彼女たちの目標は、王を溺れさせることから、王に愛されることにかわった。
彼が自分に溺れる姿もみてみたいが、まずはあの表情が柔らかく変わる姿をみたい。
そして、包容力のある体で自分を包み込んでもらいたいと、恋を夢見る少女のように胸をときめかせた。
結果的に、彼の表情が柔らかく変わる姿をみることはできた。
包容力のある体でしっかりと抱きしめる姿もみることができた。
本来ならば王の側近でさえ最近は見ることの叶わなかった、彼の輝かんばかりの笑みも、見ることができた。
ただし、その表情がむけられた相手は自分ではなかった。
この後宮に来た時から、自分を最大に苛つかせる存在に、その眼は、その表情は向けられていたのである。
そんな滑稽な事態を目の当たりにして、だれがこのまますごすごと祖国に帰れるものかと、彼女たちは怒りを、あのみすぼらしい女に向ける。
なぜ、自分たちを尻目にあの女なのか、王に直接問いかけてみたかったが、そんな真似は死んでもしたくなかった。
そのような行動をすることはあの女に負けを認めることになりそうで、プライドの高い彼女らは耐えられなかったのである。
そして彼女らは思いつく。
あまりにも滑稽で、幼く、バカバカしいほどの企みを。
彼女らの表情が夜会から帰って初めて、晴れやかなものへと変わっていったのを、そばで見守る侍女はただただじっと、見つめていた。