悪夢の到来
悪夢は知らないうちに忍び寄る。そう、誰の側にでも……。
「ねぇ、知ってる? この間から続いてる事件の事」
助手席の女が尋ねる。
「事件? ああ、野良犬が人間を襲ってるっていう奴? 犬のくせに人様襲うなんてな」
右手の煙草を口元へ持っていきながら、運転席の男が答えた。
「そうそう。ニュースで、夜間の外出は控えるようにって言ってたよね」
そういってから女は、腕時計に視線を走らせる。時刻はすでに十一時半を回っている。久しぶりのデートで浮かれていた二人は、映画のレイトショーの帰りであった。事件も警告も知っていたが、普段から会社の残業などで帰りが遅くなる事に慣れていたために、あまり気にていなかったのだ。何より「自分達に限って」という気持ちもあった。
だが、一度時刻を気にし始めると、途端に不安にかられてしまうのだ。まるで、人間の時間の流れの外にある、人間外の時間帯に足を踏み入れてしまったように。
そんな恋人の怯えに気が付いたのか、運転していた男が口を開く。
「平気だって。そんなに不安がるなよ。イザって時には、俺が守ってやるから」
「本当ね。絶対よ」
「ああ、ホントホント」
大通りを抜けて、静かな住宅地へと車を乗り入れる。
「さ、ホラ。もうすぐ家に着くから安心しろよ」
しかし次の角を曲がった瞬間、男はブレーキを思いっきり踏み込んでいた。タイヤの滑る甲高い音が、夜の闇に響き渡る。
「うわっ──!」
「キャアッ──!」
ガクンッというショックと共に、車体が止まる。
「何? 一体、何なのよ?」
両手で胸を押さえながら、女が男に詰め寄った。
「あ、ああ。ここ曲がったら、目の前に大きな犬がいたんだよ。そんで、慌ててブレーキ踏んだんだけど……」
「轢いちゃった、の?」
「いや──、でも──。わかんねぇよ」
男の手がノロノロとシートベルトを外す。
「ちょっと後ろ回って見てくるわ。やっぱ、轢いてたりすっとマズイしな。ちょっと待っててくれよ」
車内に女を残してドアを開けると、男は後方へ回って確認しに行く。
ハイ・ビームに照らされて、シンと静まり返った家並みが、白々と浮かび上がっている。ただ自分の鼓動と息遣いだけが、閉ざされた狭い空間に響いている。
「お、遅いな智司。何してんだろ……」
小声で呟いたつもりだったが、想像以上に大きく聞こえる。車の後ろに回ったきり、相手の戻って来る気配はない。
不安を紛らわそうと、カーラジオのボリュームを上げようとして、女はふと疑問を抱いた。
静かだ。静か過ぎる──。行き交う人影もない。先ほどのブレーキに対しても、何の反応もないのだ。交通量の多い町中での道ではない。それこそ文字通り、他人の家の玄関先なのだ。まだ家々の窓には明かりが灯っている。何らかのリアクションがあって、然るべきだ。
「やあよぉ。智司、早く戻ってきてよぉ」
両手で己の肩を抱くと、震えているのが良く分かる。
ピシャ──
まるで雨がフロントガラスを叩くかのような音に、女は飛び上がって反応した。
ガラスの上部に数ヶ所、水滴が落ちている。雨にしては、変な降り方だ。ガラスを伝いながら、水滴が流れてくる。
ゆるやかに、ネットリと──。
それが雨であろうはずない。なぜなら、雨には「色」がないからである。ましてや赤い雨など存在するはずがない。
ドンッ!
ボンネットの上に、丸いボールのような物体が落ちてきた。ボールは周囲に闇色の飛沫を撒き散らし、ボンネットの上を飛び跳ねた。
「ひっ──!!」
ゴロリと転がったボール=生首の見開かれた瞳と女の視線がモロに合った。悲鳴をあげようとする声帯と、深く息を吸い込もうとする気管の別々の動きによって、自分の声とは思えない、かすれた声が喉に引っ掛かっている。
半分引き毟るようにしてシートベルトを外し、車外へと転がり出る。
「あ、あぁぁぁ、さ──さとさとさと──さささ、さとしぃぃぃ──ヒィィィ──!!」
精神に異常をきたしたかのように、意味を成さない言葉をわめきながら、少しでも車から──男の生首から──遠ざかろうとする。 腰が抜けているために、全力で進んでいるにもかかわらず、ちっとも前に進まない。
不意に背後で唸り声が沸き上がる。それは新鮮な獲物を見つけた肉食獣の歓喜の唸り。
「ヒィィヒァァァぁぁぁ──!」
顔中を涙と脂汗と涎で汚しながら、爪が剥がれるのも構わず、四つん這いになって必死で逃げる。
──嫌っ! イヤァァッ! 来ないでぇ、嫌よぉ! 助けて助けて誰かあぁぁっ!!
叫び声を上げようとした女の背中に、ズンッ、と獣の体重がかかる。耳元に、生臭い息が触れる。体中の毛が逆立った。
「いやあぁぁぁぁぁ──っ!!」
最後に女の口から出た意味のある言葉も、唐突に終わりを告げた。