エピローグ
これまで見えなかったモノが見えるようになり、考えもしなかった出来事に遭遇して、色んな「不思議」を見た。
でもさ、「日常」があるから「不思議」を感じられるんだよな。
「ああー、今日もいい天気だあ」
俺は窓を一杯に開けると、思いっきり伸びをする。足下に置いてあったカゴから、洗濯したタオルを引っ張り出して広げる。
「平凡な日常って、素晴らしいねえ」
鼻歌混じりに、洗濯物を干していく。何も心配する必要のない日常が、俺には、とても新鮮に感じられた。
──あの後、奈緒を連れて『仮面舞踏会』に戻った俺達一行は、待機組のメンバーから盛大な労いのもてなしを受けた。ディーガ……いや、レックスや麻生美由紀の事、亡くなった人々の事を考えると、手放しで大騒ぎする気分にはなれなかった。けれども、それぞれの裡に大きな安堵感が漂っていたのは確かだ。
詳細を真砂達に語るのは、間壁と虎太朗だ。お互いに、ああでもない、こうでもないと言い合っている。
俺はと言えば、さすがに連続しての降霊(ルシエルも霊なのか?)の影響か、少々ヘタリ気味でカウンターでコーヒーをすすっていた。あー、この甘さが、疲れた身体に染みる~~。
特に何を話すでもなく、俺とシェリ・ルーが並んで座っていると、シャワーを借りてサッパリした奈緒がやって来た。少しためらいながら、俺の隣の席に腰掛ける。そうそう。俺、この娘に聞きたい事があったんだ。
「ひとつ、聞いてもいいかな?」
真砂からコーヒーを差し出されていた奈緒は、化粧を落とした顔を俺に向けた。その表情は、歳相応に幼い。
「どうしてあの時、あの馬鹿天使に噛み付いたんだい?」
「あれ──、見てたんだ」
「ルシエルと一緒にいたからね」
奈緒はカップの底から浮き上がってくる、注がれたミルクの模様を見つめ、俺の問いに答えた。
「あの天使。アイツの事見てたらさ、何かこう、いやぁな気分になったんだ。まるで、自分を見てるみたいでさ──。きっとあたしも、アイツみたいな顔して、アイツみたいな目をして、アイツみたいな言葉を使って。そう思ったら、無性に腹が立った。あたしと同じ、腐った魂を持ってるお前に、エラそうな事言う資格があるのか──ってね」
「なる程……」
煙草に火を点けた俺は、カップを両手で包み込んでいる奈緒の横顔を見た。
「あたしン家ってさ、すごい厳しかったんだ。子供の頃から塾とかばっかしで、友達と遊んだ事なんてなかった。第一、友達なんていなかったし、作る方法も知らなかったしね」
コーヒーを口に含み、喉を湿す。カップの中に言葉を落とし込むように、ポツリポツリと語り始めた。自分の子供の頃の話。厳しかった両親の話。まるで自分の中に蓄積されていた、何か苦しいモノを、全部吐き出そうとするかのように。
「きっかけは、何だったのかなぁ。麻生が、レックスの写真を見せていたんだ。あれだったのかも」
麻生美由紀が、楽しそうに写真を見せて笑っていた。その姿を見た時、奈緒は彼女に嫉妬を感じたのだと言う。
「思い出したんだ。どうしても飼いたかった子猫を、取り上げられた時の事」
自分にはいなかった、友人に囲まれた美由紀。自分には許されなかったモノを、許されている美由紀。自分よりも恵まれていると思った。そんな美由紀を妬ましく思った。
初めは、八つ当たりのつもりだったと言う。だが皮肉な事に、美由紀をいじめるようになってから、奈緒にも仲間が出来た。
「いじめ仲間」という決して褒められたものではない関係だったが、奈緒には初めて出来た友人だった。友人達の関心を失うまいと、美由紀に対する奈緒のいじめはエスカレートしていき、最早何が始まりだったのかさえ、忘れてしまう程となったのだ。
「麻生が死んだって聞いた時、本当はすごく怖かった。誰かがあたしを指差して、『お前が麻生を殺したんだ』って言い出すんじゃないかと思った。でも、クラスの誰も、学校ですら何も言わなかった。いじめもなかった事にされちゃった。だから、あたし達も、何もなかったことにするしかなかったんだ」
麻生美由紀が死んだのは、自分のせいじゃない。そう考える事にした。そう思い込む事にした。そして──罪悪感を忘れた。
「何やってるんだろう、あたし」
そう呟いて、奈緒は自嘲に似た笑いを浮かべた。
しばらくの間、何も語らず、ただコーヒーを味わう。静かに流れた時間の後、奈緒は帰ると言って立ち上がった。
「そんじゃ、俺、送って行くわ。時間も遅いしな」
座席から立ち上がったのは、意外な事に虎太朗だった。大丈夫だと言い張る奈緒を、虎太朗は「女の子なんだから」との理由で言い負かした。荷物を抱えて席を立った奈緒は、少しためらった後、俺とシェラに向かって口を開いた。
「──あたしさぁ、もうやめる。あの、ウルトラムカつく、馬鹿野郎みたいになるの、ゴメンだし。そんで、麻生とレックスの事、忘れないようにする」
ウルトラムカつく馬鹿野郎とは、もしかするとアヤツの事ですかな? なる程、そいつは言い得て妙だ。
「そうか。それを聞いたら、美由紀さんもレックスも喜ぶよ、きっと」
シェリ・ルーは奈緒を見上げると、そう行って柔らかく微笑んだ。店内のライトに照らされて、神秘的に輝く。
「君の魂を守るのは、君自身だと言う事を、忘れないでいて欲しい。彼女達のために。そして何より、君自身のためにね」
奈緒はうなずくと、店のドアに手をかけた。
「送ってってくれるんでしょ、コタ?」
呼びかけられた虎太朗は、目を丸くした。
「コタ──って、お前。ま、いいか。俺の名前は虎太朗だけど……あんたなら構わねえよ、お嬢ちゃん」
「あたしは、奈緒よ。小野田奈緒。お嬢ちゃんって呼ぶの、やめてね」
カロン、カロロン──
カウベルの音に送られて二人が出て行く。その後姿を、店にいる全員が見送った。一人の例外もなく、ポカンと口を開けていた。
「あの虎太朗が……」
「コタって呼ばせた……」
「あり得ねえ」
俺とシェリ・ルーと真砂は、顔を見合わせると、大声で笑い出した。何だか、すごく久し振りに声を上げて笑ったような気がする。俺達三人につられて、店中に笑い声が弾けた。
嘆き悲しんでも、死んだ者は戻って来ない。俺達は生きている。生きている以上、これから先も生きて行かなくてはならない。それなら、悲壮な顔をしているよりも、笑っていた方がいい──。
洗濯物を干し終わった俺は、掃除機を引っ張り出してくる。なんでもない、日常の出来事。しかしそれも、毎日を「生きて」いればこそ。
「天気がいいと、気持ちがいいやねえ」
世界が変わった訳じゃない。世界を見る「俺」が変わったんだ。世界は相変わらず、そこにある。変わったモノ、変わらないモノを内包して、世界は存在している。人も、妖獣も、妖しも、堕天使も、すべてを含めて存在する世界。それは何て偉大な事なんだろう。
──どうしようか迷ったんだけど、俺はルシエルの事をシェラに聞いてみたんだ。
長年かけて捜し求めてきた、半身。ようやく巡り合えたルシエルとの時間は、あまりにも短いものだった。シェリ・ルーにとっては、到底満足のいくものではなかっただろう。俺の問い掛けに、シェラは何とも言えない表情をした。
「確かにね。納得いかない事だらけだし、言ってやりたい事も山ほどある。ルシエルの奴、自分だけ一方的にしゃべって行っちまったからな」
カップから立ち昇る湯気を、ため息で吹き飛ばした。
「俺はルシエルを見つけ出して、元の自分の戻る事しか考えてなかったけど……。よく考えてみると、ルシエルはルシエルで、自分の生きていく道を見つけたのかも知れないな」
そう言って、シェラは淡く微笑んだ。俺がこれまで見た中で、一番印象的な微笑みだ。最近見慣れちまったせいで、あんまり気にならなくなってたけど、こいつ、綺麗な顔してたんだよなあ。
「なぜウリエルが俺とルシエルを引き裂いたのか。それは今になっても判らない。でも、ルシエルには判っていたのかもしれない」
視線を上げると、店内を見回す。
「いつかそれが、俺にも判るといいが──。ルシエルが俺の側に戻らなかったのは、俺なりの生き方を見つけろっていう事なのかも知れない。そんな気がするよ」
「それで、これからどうするんだ?」
「そうだな。考えた事もなかったけど……。ゆっくり考えるさ。時間は、たっぷりあるんだし」
「それも、そうだな」
俺とシェラは顔を見合すと、コーヒーカップで乾杯をしたんだ──。
掃除機のスイッチを切ると、コードを巻き取り。クローゼットの中にしまい込む。
「これで、よし──っと」
台所でコーヒーを淹れると、部屋に戻って一息つく。テーブルに置かれた郵便物に目をやり、その中の一通を手に取った。差出人は、倉田一人と橋本美緒の連名だ。
『あの時は、お世話になりました』
そんな書き出しで始まった手紙は、二人の近況を伝えてくれる。
「そっか、結婚式、早めるんだ」
すでに退院している一人は、今回の事もあって、予定を早める決意を固めたようだ。ぜひ、シェリ・ルーと二人で出席してくれ。そう締めくくられていた。
「シェラね……。行くのかな、あいつ?」
シェラ──シェリ・ルー。そう。今、俺の部屋の中に、奴の姿はない。どうやら、ようやくの事で自分がこの先どうするのか、決心がついたらしい。うむ。良い事だ。
手紙をたたみ、予定を確認しようとカレンダーを見上げた俺の耳に、チャイムの音が飛び込んできた。はい、はい。今、開けますよ。
鍵を外し、ドアを開ける。目の前に大きな紙袋を抱えた、長身の人物が立っている。陽に透けた髪は、明るいブラウン。鳶色の瞳は、いたずらっぽく光っている。そしてその、ととのった中世的な美貌。聞いていて、耳に心地良い声が言葉を紡ぐ。
「ただいま、伊津留」
俺も笑顔で答える。
「ああ、お帰り。シェラ」
そう。地上に降り立った緋色の大天使は、今も俺の部屋に戻ってくる。自分に託された様々な想いを、四葉の紅い翼に宿し、極上の笑顔と、両手一杯の紙袋を持って。
「今日は特売日だったから、思いっ切り、買物してきちゃったよ」
「ほー。そいつは、ありがたい。ってか、早くメシにしてくれよ。俺、もー。腹減っちゃって……」
「はいはい」
そして俺は、ドアを閉める。
この先も、この相棒といる限り、ドアを開けるたんびに感じるのだろう。
『世界は、不思議であふれている』と──。
~Fin~