邂逅
シェリ・ルーが捜し求めていた相手・ルシエル。
束の間の邂逅の後、彼は去っていこうとしている。
引き止めるシェリ・ルーに、ルシエルが示した答えとは?
頭上に掲げられたシェラの細く白い指先に、光の粒子が集う。粒子は凝縮され、一枚の羽根を形作る。シェラの手のひらの上に、ふわりと落ちてきた羽根は、目の醒めるような緋色。
「これでいいだろう」
一同から、ため息が漏れた。
「一件落着って事か?」
虎太朗がシェリ・ルーに尋ねた。
「ああ、あとはこれを、アフィエルに渡せば終わりかな」
手の中の羽根に視線を落として、シェラが答える。
「んじゃ、もう結界は解いても大丈夫だな」
ガルが、路地の入り口へ向かって行った。周辺で待機している匠達に、状況を伝えに行ったのだろう。
「アフィエルが来るのか。なら、その前に退散するとしようか」
ルシエルの一言に、シェラが反応した。
「どこへ行こうと言うんだ。せっかく巡り会えたのに、また、お前はどこかへ行ってしまうのか」
「シェリ・ルー。お前と会えた事は、俺にとっても嬉しい出来事だ。でもな、俺は、お前の側にいない方がいいんだ」
意味が判らず、何もいえないシェリ・ルーを残し、自分の手を見つめている奈緒に近付いていった。
「人間とは、不思議な生き物だな。美しさを感じる純粋な心と、他者を虐げる残酷な心を併せ持つ。一つの身体に、相反する二つの心を住まわせる生き物は、そうは多くないだろう。お前、レックスの姿を見て、どう思った?」
ルシエルに問いかけられた奈緒は、自分の手に視線を落としたまま、小さな声で答えた。
「すごく、キレイだった。あんなにキレイな生き物、見たことない」
「温かかったか?」
言葉なくうなずく。
「それが、生きているという事だ。『命』というものは、間違えたからといって、デリートできるデータとは違うんだ。死んでしまったからと言って、ディスプレイの電源を切るように、何もかもが消えてなくなるわけじゃない。麻生真由美のことは、確かにお前に責任はないだろう。が、自分の目の前から、一人の人間の命が消えてしまった事実は、しっかりと受け止めるべきなのではないか?」
……いや、データとかディスプレイって、お前……。デリートとかって、どこで学習したんだよ、ルシエル。
しかし、下手な喩えよりも奈緒には判り易かったようだ。
「麻生、死んじゃった。もう、謝っても、届かないんだ──」
奈緒の心にも、ようやく変化があったようだ。ルシエルは、奈緒の手のひらにオレンジ色の首輪を乗せた。
「届くよ。美由紀の声がお前に届いたように、その声は美由紀に届くよ」
路地のそちこちに灯っていた、青白い炎が消えた。周辺で待機していた匠達が、結界を解いたのだろう。
「さあ、お嬢ちゃん。これから、どうするんだい? 帰るってったって、その格好じゃ無理だろう」
虎太朗の一言に、そこにいた全員の視線が奈緒に集中した。腕や足には、あちこちに擦り傷や切り傷があるし、服も汚れ、ところどころほつれている。確かにこのままでは、帰れないだろう。
「コタ。お前の上着、貸してやれよ。真砂んトコまで行けば、何とかなるだろ」
間壁の提案に、脱ぎ捨ててあった上着を拾い上げながら、虎太朗が不毛な反論を繰り返す。
「だから、コタって呼ぶなっつってんだろ? 俺の名前は、虎太朗だ」
その時、頭上でかすかな羽音が聞こえた。空を仰ぎ見た一同の目の前に、純白の翼をはためかせて降り立つ、ハイパー高飛車エンジェルのアフィエル氏。
「あーあ。退散する前に、来ちまったよ」
ルシエルの呟きは、周囲に黙殺された。
「終わったのか?」
前置きなしにシェリ・ルーに詰め寄ったアフィエルは、少し離れた場所に立っている、俺=ルシエルには気付いていない。
「ああ、終わったよ。レックスの魂は、ここだ」
手の中の羽根をアフィエルに示した。
「レックス? 何だ、それは?」
形のいい眉をひそめて、アフィエルが聞き返してくる。
「お前さんが“妖獣”と呼んだ、ディーガに付けられていた名前さ」
戻ってきたガルが、アフィエルの足下をすり抜けながら答えた。
「ふん。奴の名前が何であろうと、我等には関係のない話だ。それにしても、この品のない色は、どうにかならんのか。それとも、主人の品性を写し取るのかも知れんなぁ」
うっわ、ムカつく。何、コイツ。背中の羽根、全部むしってやろうかな。マジで。
(まあ、落ち着け)
俺の思考を読み取って、脳内にルシエルの言葉が流れる。
「その色が気に入らんのなら、いっそ黒にしてやろうか。しかし、己等の失敗で逃してしまった魂を、わざわざたら得てもらったのに礼もなしか。天上界の品性も大した事は、なさそうだ」
「何だと? 誰だ」
眉間に深い(不快?)シワを刻んだアフィエルが、声のした方を振り返る。
「誰だはないだろう。しばらく見ないうちに、俺の事を忘れたらしいな?」
そう言ったルシエルの姿を認めて、アフィエルの顔が強張る。
「え、あ、ルシ──エル? どうして、あなたがここにいるんだ?」
あなたあぁぁぁ?
シェラには「お前」とか「貴様」とか言うクセに、ルシエルと随分態度違うじゃねえか。昔、アフィエルと何かあったんか?
(俺も、やんちゃだったって事さ。しかしアフィエルの奴も、見事なまでに変わらんなぁ。もっとも、あの性格は変わりようがないのかもな)
げ──。昔から、あんなんかよ……。ルシエルの知ってる頃って、一体、何百年前じゃ?
「俺がここにいると、何か不都合でもあるのか?」
「そんな事は……。このような汚らしい場所に、まさか、あなたがいるなんて思いもしなかったので……」
明らかに、わざと意地の悪い質問をしている。あっはは!
ルシエル、やるじゃねえ。けど、アフィエルの野郎、言うに事欠いて「汚らしい場所」だとぉ? そもそも誰のせいでこんなことになったと思ってやがんだ。
「それでは、私はディーガの魂を受取り、第三天へ連れ戻してきましょう。二度と再び、抜け出す事のないように、また、抜け出す気など起こさぬように、厳重に縛り付けておかねばなりますまい」
──ルシエルって、一体、アフィエルに何したんだよ。物凄い、嫌な汗かいてるだろ、アフィエルの奴。
「こいつは、二度と逃げ出したりはしないさ。裁きが下り、いつか許されるその日まで。己の犯してしまった罪を、しっかりと認識しているからな」
シェリ・ルーから羽根を受け取ったアフィエルは、自分を悩ませていた仕事が終わったという安心感からか、少々油断していたらしい。
「まったく。人間など、いくら死んだところで痛くも痒くもない。しかし天界から魂が逃げ出すなど、あってはならない事だ。存在する意味もない、無用の輩が多過ぎるのだ。父なる神も、このような連中に情けなどおかけにならず、いっその事、全部滅ぼしておしまいになればよろしいものを」
そう言って、その場にいた者達を見回した。牙をむき出しにして、足を踏み出す間壁と虎太朗をシェリ・ルーが制する。うんうん。こんな馬鹿たれ天使の言うことなんざ、聞き流すにこしたこたぁない。ほっとけ、ほっとけ。
「人間共とて同じ事。まるで腐肉に湧く虫のようにワラワラと、際限もなく増えよって。ノアの洪水といいソドムの炎といい、人間を滅ぼす機会は何度もあったというのに、父なる神も甘い事よ」
アフィエルのその言葉に、思わぬところから反撃の手があがった。
「ふざけんなよ、テメー! あたし達人間が、どんだけ大変な思いの中、毎日生きてると思ってやがる。そんなに目障りなら、どうして神は、あたし達人間を造ったんだよ。自分の勝手な都合で生み出しておいて、邪魔になったら滅ぼすのか!?」
声の主は、オレンジ色の首輪を握り締めた奈緒だった。
「何だ、お前は? 子を孕む胎を持った、卑しむべき女め。お前如きが、神の御使いである私に口をきくなど不敬の極み。言葉を慎め、愚か者め!」
アフィエルが怒りの形相で、奈緒に向かっていつもの自論を披露した。ただ、いつもと違っていたのは、相手がアフィエルの高飛車発言にも、まったく怯む気配がなかったという点か。
「うるせー。卑しいのはオメーだ、馬鹿野郎! 背中に白い羽根が生えてんのが、そんなに偉いのかよ。あんたなんかよりなぁ、レックスの方が、よっぽどキレイだったよ。あいつに馬鹿にされるのは、仕方がないと思うさ。そう言われるだけの事を、あたしはしてきたんだろうし。でもね、あんたに下に見られる理由なんか、これっぽちもないよ!」
奈緒はアフィエルを睨み付け、そう言い放った。
よっしゃ! よう言うた! その場にいた全員が、心の中で快哉を叫んだ。一方、これ程に罵倒されたのは初めてなのだろう。アフィエルの髪が逆立った。文字通り、怒髪天を衝く、である。
「黙って聞いておれば、いい気になりおって! 貴様、神の怒りに触れるがいい!!」
いや……黙ってねえし、神じゃなくてお前の怒りだし……。そう突っ込みたかったが、さすがにそんな暇はなかった。
アフィエルの背中に広げられた翼が、雷電をまとってまばゆく輝く。
「消し飛べ、愚か者!!」
高飛車天使の翼から放たれた雷撃が、周辺の空気を白く染め上げた。全員の視界が焼ききれる寸前。
「愚か者は、己じゃ、この馬鹿め!! 気位ばかり高くて、忍耐の足りぬ奴よ。己の感情に鼻面引きずられおって、この未熟者めが」
アフィエルの放った全ての雷撃を、立ちはだかったルシエルが片手で受け止めている。
「ル、ルシエル……」
頭に血が昇っていたアフィエルの顔から、今度は音を立てて血の気が引いていく。バチバチと火花をまとわりつかせながら、ルフィエルはその手を握りこんだ。
「どうやら、その魂を任せる訳にはいかんようだな。思いたくはないが、天上界は、お前のような天使で溢れているのか──。いや、今も変わらず……というところか」
ルシエルの手の中で、雷撃は握りつぶされてしまった。シェリ・ルーと良く似た仕種で髪をかき上げ、ルシエルは指を鳴らした。途端に、アフィエルの手にあった紅の羽根が、シェラの手の中に移動した。
「この魂は、こちらで預らせてもらおう。時が来れば、そして必要があれば、第三天にも届けよう。どうせ、今のお前に渡しても、ロクな扱いをしないようだしな」
言葉が出てこないらしいアフィエルは、金魚みたいに口をパクパクさせている。
「判ったら、さっさと戻ってサンダルフォンに伝えよ! 文句があったら、次元・時空の狭間を辿って会いに来いとな」
先程の雷撃を握り潰した手を開くと、中には小さな結晶がある。それをアフィエルに向かって弾き飛ばした。結晶がアフィエルの足下に着弾すると、雷撃が湧き起こる。
「うわっ!」
両腕で顔面をガードしているアフィエルに、ルシエルは皮肉たっぷりに言った。
「お前の忘れ物だ。ちゃんと持って行け」
顔を両腕で隠したまま、アフィエルは翼を広げた。真っ白だったはずの奴の翼は。今は、ルシエルに返された己の雷撃のせいで、少々焦げている。へっ、ざまあみろ。
「その言葉、確かにサンダルフォン様に伝えるぞ!!」
──いや、それ、捨て台詞のつもりなのか? かなり、情けないぞ。まあ、俺の知った事じゃないけどな。あれ、隠れた顔は絶対、泣いてんぞ、アイツ。
決して優雅とは言いがたい姿で、どこぞかへ飛び去っていくアフィエルを、その場の全員がおそらく、心の中で舌を出して見送った事だろう。
「さて、俺もそろそろ行くか。これ以上は、依り代の身体に負担をかける」
ルシエルの言葉に、シェリ・ルーが口を開きかける。
「何も言うな。俺はなるべくなら、お前の側にいない方がいいんだ。俺もディーガと同じく、償いを続ける身だ。いつの日にか、お前の許に戻れる事もあるかも知れん。だが、それは今ではない。お前が俺を求めて、地上を彷徨っていたことは知っている。その気持ちに応えたいとも思う。けれど、それは出来ないんだ。理由を俺の口から伝える事も出来ない。まあ、今度機会があったら、ウリエルにでも聞いてみてくれ」
「そんな言い分で、納得できると思っているのか?」
「思っちゃいないさ。でも今は、無理矢理にでも納得しろ。これ以上、何も言えん。俺も、お前に語れる日が来るのを、願っているよ」
そう言うと、俺の中からルシエルの魂が(魂……なのか?)抜けて行くのを感じる。どういう原理か判らんが、俺の、『萌木伊津留』の姿に戻ったらしい事は理解できる。
「悪い。行っちまったよ」
申し訳なさそうな口調になってしまう俺に、シェリ・ルーが無言でうなずいた。そして、俺の肩に顔を埋める。
「お前のせいじゃないさ。それは、シェリ・ルーも判っている事だ」
代わりに声を掛けてくれたのは、虎太朗だった。
「いつまでも、ここでこうしている訳にもいかんだろう。そろそろ、場所を移そう。匠達には、先に真砂んトコに行っとくように伝えといたぞ」
ガルの言葉で、全員が路地の入り口の方を向いた時──。
「なあ、おい。兄ちゃん達、面白い格好してっけど、仮装行列か何かか?」
そこにいたのは、トロンとした目付きの、出来上がったオッチャンだった。シェリ・ルー以下、全員が凍り付いている中で、やけに冷静な奈緒が答えた。
「そうだよ。クラブのイベントなの。ね?」
なぜか、俺に振ってくる。判ったよ。話に乗れば、いいんだろう?
「ああ。クラブ『仮面舞踏会』の、恒例イベントなのさ」