過去からの光
俺達の前にディーガがいる。
悲しみに打ちひしがれ、愛する者を狂わんばかりに捜し求める孤独な魂……。
見るんだ、ディーガ!!
お前のために苦しみに耐えてくれていた人がいる事を、お前は知らなくてはいけない!!
奈緒の唐突な叫びのために、その場にいたすべての者の意識が逸れた。その一瞬の隙をついて、ディーガ=レックスが俺達の間をすり抜ける。
「──! レックス!」
「キャアァァ!」
アスファルトの路面に押し倒され、手足をガッチリと固定されている奈緒。その彼女の上にのしかかり、鋭い爪の生えた四肢で獲物を捕らえているディーガ=レックス。
「やめろ、レックス!」
「やめるんだ!」
あお向けに押さえつけられた奈緒の脇腹には、ディーガ=レックスの背中から生えた刃が喰い込んでいる。蛇は長さも太さも倍ほどに変化している。身の丈を超え、奈緒の鼻先で舌を吐き出し威嚇している。
「私ノ側ニ、アノ人ガイル? 嘘ダ! アノ人ガ側ニイテクレテイルノナラ、私ニ判ラナイハズガナイ! ソンナデタラメヲ言ッテ、私ヲダマソウトシテモ、無駄ダ」
牙をむき出して、俺達の反論する。顔を引きつらせ、涙を流している奈緒を見下ろしてディーガ=レックスは言った。
「私ガ怖イカ? 私ガ恐ロシイカ。私ハ醜イダロウ。ダガ、オ前ト私ニ、ソレ程ノ違イハナイ。姿ヲドレ程飾リ立テテモ、オ前ノ魂ガ放ツ腐臭ハ、私ト同ジモノダ」
奈緒は歯を食いしばり、喉からうめき声がもれている。そんな奈緒に顔を近づけ、舌をダラリと垂らして、ディーガ=レックスが更に言い募る。
「私ヲ、化ケ物ト言ッタナ。ソウダ。私ハ、天地ノ枠カラ外レタ、化ケ物ダ。ナラバ、オ前ハ何ダト言ウノダ。私ハ、オ前ガアノ人ニシタ事ヲ知ッテイルゾ。自分ヨリ弱イモノヲ虐ゲテ、ソンナ自分ヲ自慢シテイルヨウナ、ソンナオ前ノ心ヲ何ト言ウカ知ッイノカ? オ前ノ心モ、私ト同ジ化ケ物ダ」
俺はポケットから、ある物をつかみ出した。
「レックス! それ以上、自分の魂を貶めるな!」
ディーガ=レックスの意識が、俺に向いたのを感じる。
「これが何だか判るか? 美由紀さんが、何としても取り返したかった物だ」
俺の手のひらにあるのは、緑のリボンがかかった潰れた小さな箱。
「良く見てみろ、レックス! 彼女がどうして、この箱にこだわったのか!」
リボンを解く。包装紙を破る。箱のふたを開ける。
「見ろ! これが何なのか、お前は見なくちゃいけない」
俺が箱から取り出したのは、オレンジ色をした首輪。ゴールドの金具に留められた、シルバーのプレートが揺れている。光を反射して煌くそのプレートには、「REX」と飾り文字で彫り込まれている。
「あの日、美由紀さんが亡くなったあの日は、レックス、お前の誕生日だった。憶えているか? これは、お前のために彼女が用意したプレゼントだ」
これだけが、母親の元へ戻ってきたのだという。間壁が話を聴きに行った時に、写真と一緒に借りてきたものだ。
「今更、ソレガ何ダト言ウノダ」
視線と意識だけを俺に向け、ディーガ=レックスが吐き捨てた。
「シェラ──頼む」
背中に伝わる気配で、シェラがうなずいたのが判る。
──ファササ……。 優しく空気が揺れる。ディーガ=レックスの目が見開かれる。路面に押さえつけられた奈緒の震えが、止まる。
見なくても判る。シェラの──シェリ・ルーの背中に、紅の翼が開いたのだ。薄明かりに浮かび上がる、燃え立つような四葉の花弁。
「未だ光を見出さぬ魂
耐え難き痛みを耐え 煉獄に身を縛る魂よ
今ひと時 仮の器に宿れ
伝えられぬ想いを伝えよ 語られぬ言葉を語れ
我 死を司る天使
アズラエル シェリ・ルーが導く
萌木伊津留の裡へ」
広げられた翼が、かすかに震える。俺の胸の奥に温かいものが生まれた。それがジワジワと広がっていき、やがて俺の裡を一杯にする。それに従がって、俺の意識は主人格の座を譲り渡す。
「レックス……。もうやめて」
俺の口を借りて、俺のものではない声が、俺のものではない言葉を語る。
「レックス。私の声が聞こえる?」
奈緒を押さえつけたままのディーガ=レックスの瞳に、驚愕の色が浮かんだ。
「美、由紀ナノカ……? 本当ニ? 本当ニ美由紀ナノカ?」
俺の体が、ゆっくりと両腕を広げた。
「おいで、レックス」
奈緒の手足をガッチリと拘束していたディーガ=レックスの脚が、彼女の体から離れる。奴の目には、俺の姿にダブるようにして、麻生美由紀の姿が見えているのだろう。
「ごめんね、レックス。私のせいで、あなたに辛い思いをさせてしまって。もう、いいのよ。私が死んだのは、事故だったの。奈緒さんのせいじゃないわ」
ヨロヨロと近寄ってくるディーガ=レックスの前に膝をつく。
「ダメダ、美由紀。アノ女ガイナケレバ、美由紀ガ命ヲ落トス事ハナカッタ。ソレハ許セナイ」
俺──いや、「俺」という器に宿った美由紀の魂は、悲しげにディーガ=レックスに訴えかけた。
「私はね、レックス。生命の灯が消えた時から、ずっとあなたの側にいたのよ。あなたがやってきた事も、あなたが考えていた事も、全部知っているわ。私の力が足りなかったばっかりに、罪を犯すあなたを止める事が出来なかった」
美由紀は俺の体を借りて、ディーガ=レックスの頭を抱き寄せた。
「全部? 私ノヤッテキタ事ヲ、全部見テキタノカ? コンナニ醜イ私ヲ、ズット?」
腕の中から逃げ出そうとするディーガ=レックスの頭を、美由紀はしっかりと、しかし優しく抱き締める。
「ええ、全部。あなたが罪を犯したのは、私のため。だから、私が地獄に堕ちるのは構わない。でも、レックス。あなたの魂を、これ以上、罪で染めるのはやめて」
そんな美由紀の魂とディーガ=レックスの姿を、俺の魂は少し離れた場所から見ている。応急処置的に素人の俺の身体を「器」にしているために、魂はとても不安定な状態にある。ちょっとした衝撃で、器とのリンクが切れてしまう可能性もあるのだ。そのため、俺の魂はシェリ・ルーの力で護られている。余計なモノを脱ぎ捨てた俺の魂は、よりシェリ・ルーの本質と近しい存在になっている。
(もしかするとシェラにとって、この世にある存在はすべて、こんなふうに感じるのかもしれねぇな)
こうして見てみると、俗に「オーラ」と呼ばれる生命力の輝きが良く判る。間壁や虎太朗、ガルのオーラの輝きといったら。そばでうずくまっている、奈緒のオーラとは比べものにならない。しかも奈緒の場合、現在おかれている立場と、これまでやってきた行いが反映しているらしい。鈍色にくすんだ暗いオーラ。ディーガ=レックスの、濁った血のような赤黒いオーラ。そして、シェリ・ルーの体から立ち昇る、綺羅綺羅しい白銀のオーラの美しさ。
(ああ、何て綺麗なんだろう──)
アフィエルはシェラの事を「堕天使」と呼んだけれど、本当に堕ちた天使なら、これ程までに美しいオーラを保てるもんなんだろうか?
(いっぺん、アフィエルの野郎のオーラを見てみてえもんだよなあ)
オーラの輝き・煌きは、そのまま本人の魂の強さだ。魂の輝きが強ければ強いだけ、弱ければ弱いだけ、それはオーラに反映される。それだけではない。魂が清ければ清いだけ、魂が壊れれば壊れただけ、姿形に表れるのだ。
──そう。今のディーガ=レックスのように。
奴の本来の姿が、今あるものではないという事は、オーラの状態を見ていれば判る。赤黒い澱んだオーラの隙間から、わずかに漏れる別の色のオーラ。
(あの姿は、ディーガ=レックスの本来の姿じゃないのか?)
俺がそう感じた時、俺の体の中にいる麻生美由紀が、奈緒に向かって語り始めた。これまでの恨みつらみを彼女にぶちまけるのかとも思ったが、どうやらそうでもないらしい。美由紀は静かに語り始めた。
「奈緒さん。あなたにお願いしたい事があるの。これ以上、私やレックスのような思いを誰にもさせないで」
よろけながら立ち上がった奈緒は、その言葉に疲れた視線を向けた。
「何を……言ってる?」
ディーガ=レックスのゴワゴワした毛皮を優しく撫でながら、美由紀は奈緒に訴えた。
「あなたには、レックスの姿が恐ろしい怪物に見えたはず。それと同じように、いじめられている時、わたしはあなたが怖かった。今になって思えば、何がそんなに怖かったのか。同じ人間なのにね」
すでにこの世の住人ではない美由紀の言葉を、奈緒はどのような気持ちで聞いているのか。
「あなたは、レックスと出会う事が出来た。だからこそ、あなたにお願いしたいの。レックスの姿は、罪を重ねた魂の醜さ。あなたもこのまま、罪の意識のない罪を重ねていけば、いつかはレックスのようになってしまうわ。罪の数だけ闇を背負った、怪物のように醜い魂になってしまうかもしれない」
奈緒に対して言葉を続ける美由紀に、ディーガ=レックスが唸り声を上げた。
「美由紀! コンナ女ガドウナロウト、ソンナ事ヲ心配シテヤル必要ナドナイ! 腐ッタ魂ヲ抱エタママ、地獄ニ堕チレバイインダ!」
そう叫んだディーガ=レックスに、美由紀が厳しく諭した。
「それは違うわ。私にはあなたがいた。だけど彼女にはいなかった。今ここで、私はあなたを救う事が出来るけれど、彼女が堕ちた時に救ってくれる人は、いないかも知れない。だからこそ、奈緒さんには、今気付いていほしいのよ。自分のやってきた事が、いかに相手の心を殺すのかを」
ディーガ=レックスの鼻面に頬をすり寄せる。美由紀は告げた。
「私に残された時間は、そう長くないのよ。もうすぐ、行かなくちゃいけないの」
その言葉に、ディーガ=レックスが悲鳴を上げた。
「嫌ダ! モウ離レルノハ嫌ダ! ズット側ニイテ!」
すがりつく妖獣に、シェラが語りかけた。
「レックス、良く聞け。すでにこの世の住人ではない美由紀さんにとって、光に逆らってこの世に留まり続けるという事は、限りない苦痛にさらされているのと同じだ。死者にとって、この世は煉獄に他ならない」
「何……?」
信じられないといった面持ちで、シェリ・ルーを見上げ、次いで美由紀を見上げる。
「美由紀、本当ナノカ?」
美由紀は柔らかく微笑んで、ディーガ=レックスを抱き締めた。
「私の事は心配しなくていいの。私はずっと、レックスの側にいるから」
そして、間壁に支えられて立っている奈緒を見た。
「奈緒さん。私は、あなたを恨んでいない。そりゃ、いじめられた時は、あなたを憎んだわ。でも、憎しみにかられて罪を重ねるレックスを見て、気付いたの。レックスを救うためには、私が奈緒さんへの憎しみを捨てなければいけないって」
俺は彼女達のやりとりを聞きながら、すぐ近くにある、誰のものでもない気配を感じていた。俺や間壁や虎太朗やガルのものよりも異質で強大であるそれは、感じとしては、シェリ・ルーに近しい。
全身がチクチクするような不思議な感じ。姿は見えないのに、何と言う圧迫感。そして存在感。
(誰だ? 誰かいる。誰がいるんだ?)
シェリ・ルーの力に護られているはずの俺の魂に、その何者かの気配は近寄ってくる。これだけの圧倒的な存在感を持ちながら、俺以外の連中が気付いた様子もない。とすると、今、俺が意識を保っている次元は、現実とは別次元という事になるんだろうか?
そんな事を考えているうちに、強大な気配は、俺の魂に直接語りかけてきた。果たしてそれは、本当に“言葉”だったのか。何らかの意志が、俺に理解しやすい形に翻訳されたのだろう。
(────)
俺の頭の中で鳴り響いた言葉。それは、奇妙な出来事に対して耐性がついていたはずの俺を、硬直させるのに充分な内容だった。
(いや、俺は構わないけど……。けど、それでいいのかよ?)
姿の見えない相手に話しかけるのは、恐ろしく間が抜けているような気がした。
(────)
(まあ、あんたがそれでいいって言うんなら、俺に反対する理由はないしな)
美由紀は握り締めていた首輪を、レックスの首につけてやった。
「ああ、やっぱり似合うね。遅くなっちゃったけど、誕生日おめでとう」
そう言って笑うと、美由紀の魂は、すっと俺の体から抜けて行った。まるでその魂の行方を追うように、膝をついた俺の頭上を、じっと見つめているディーガ=レックス。
「──レックス。もう、彼女に心配をかけるな。お前のために、光差す道からあえて顔を背ける彼女を、そろそろ自由にしてやるんだ」
シェリ・ルーの言葉に、ディーガ=レックスはノロノロと顔を向けた。
「私ノ罪ハ深イ。ソレヲ理解シテナオ、コノ憎シミカラ、コノ苦シミカラ抜ケ出ス事ガ出来ナイ。コノママデハ、私ダケデハナク、私ヲ愛シテクレタ美由紀ノ魂マデモ救ワレナイ。ドウスレバイインダ? ドウスレバ、美由紀ノ魂ハ救ワレルンダ?」
見上げてくるその瞳に、もうあの狂気はない。深い悲しみがあるだけだ。シェラが、ディーガ=レックスの前に膝をついた時、俺は、すっと立ち上がった。
「伊津留……?」
目を閉じた俺の口から、再び俺のものではない声が滑り出てくる。
「心配する事はない。大丈夫だ。お前の憎しみも、お前の苦しみも、全て俺が引き受けてやる。美由紀の魂が堕ちる事はない」
その声に、今度はシェリ・ルーの顔色が変わった。
「伊津留……お前……どうして?」
「久しいな、シェリ・ルー。お前の相棒の器を借りたぞ。伊津留には承諾済みだし、ちゃんと器を整えてやるから、心配するな」
「ルシエル……」
俺の体に宿った次なる相手。魂だけの俺に語りかけてきた相手。それは、シェリ・ルーがずっと捜し求めていた半身。大天使ウリエルによって引き裂かれた、シェリ・ルーの魂の半分──ルシエル。
(あの苦しみに満ちた魂を救ってやろう。しばし、器を貸してはくれまいか)
そう語りかけてきたのだ。
麻生美由紀の時とは違い、俺の魂は体の中に収まっている。すぐ間近に、ルシエルの存在を感じる。恐ろしいくらい強大なのに、俺の魂を弾き出してしまわないように、力をセーブしてくれているのも判った。先程まで感じていたシェリ・ルーの気配とは、どこか似ていて、どこか違う。シェラの半身なんだから、気配が似ているのは当たり前なんだが。
(でも、シェラのものよりも、荒々しくて強い。そのくせ、何だか子供っぽい感じもするし)
俺がそんな事を考えていると、ルシエルの笑いを含んだ「声」が聞こえてきた。
(俺の半身が、随分と世話になっているようだ。礼を言う)
(言われる程の事は、してねーよ。って言うか、世話されてんのは俺の方だし)
目を開いた俺は、自分の体が、その魂に見合った形へと変化していくのを感じた。髪が伸びる。シェラと同じくらいの長さか。多分、瞳の色は、そのまま黒だ。いや、もしかしたら、より深みを増した黒かもしれない。四肢から余分な肉が落ち、その分、上背が増えた。あ、俺、この状態がいいな。え? 戻っちゃうわけ? え~~~?
(伊津留──、お前──)
(いや、ゴメ……。マジで、悪ィ)
内面でのやり取りは、さて置き。
「お前は無関係な人間を殺し過ぎた。その償いだけは、しなくてはいけない」
ルシエルの言葉に、ディーガ=レックスは深くうなだれた。
「この世でもっとも大切な者を失った、お前になら判るはずだ。お前が殺してしまった人間にも、どこかで悲しむ誰かがいるという事を。それさえも理解できなくなってしまったと言うのなら、お前の魂に救われる余地はない」
ファサァ──。
空気が震える。重さを感じさせないけれど、しっかりとそこにある。俺の背中に開いた、四葉の花弁。だがそれは、シェリ・ルーのものとは相反するように、漆黒の翼。
「その時には俺が、再生の叶わぬ最下層の窖へ、お前の魂を突き落としてやる」
ルシエルは厳しい声でディーガ=レックスに告げた。
「美由紀ガ耐エ忍ンダ苦痛ニカケテ、私ハ誓ウ。コノ身ハ必ズ、裁キヲ受ケヨウ。タトエ魂ヲ切リ裂サカレヨウト、ソレダケノ事ヲ、私ハシデカシテシマッタノダカラ。美由紀ガ心安ク、光ノ道ヲ歩ンデ行ケルヨウニ」
そこで一旦言葉を切ると、ルシエルを見上げた。
「美由紀ハ──アノ人ノ魂ハ、天国ニ迎エラレルノダロウカ? 私ト一緒ニイタ事デ、美由紀ノ魂ニ傷ガ付イタリシテイナイダロウカ?」
ルシエルは、そんなディーガ=レックスに優しく微笑みかけた。
「大丈夫だ。心配する事はない。彼女からの伝言があるぞ。“魂の償いを済ませ、もしも生まれ変わる事が出来たら、もう一度、私のところに生まれておいで。今度は互いに、きちんと生きて行こうね。それまで、しばらくの間、さよならだよレックス”」
広げられた漆黒の翼が、細かな光の粒子をまとって輝く。
「お前の心の内にある憎しみを取り除かない限り、同じ過ちを繰り返すだろう。俺がその苦しみを、全部引き受けてやる。いずれお前の罪が許され、再び生まれ変わる事が出来た時に、美由紀に対して恥じないでいるために」
そう言って、ルシエルはディーガ=レックスの頭上に手をかざした。ルシエルの手から光が放たれ、やがて輝く光輪となる。だがディーガ=レックスは、何か言いたそうに視線を動かした。その視軸の先には、間壁に支えられて立つ奈緒がいる。
「もう、彼女の事は気にするな。彼女もいつか裁かれる。たとえ人間の法で罪に問われる事はなくても、魂の法の前では逃げられない。彼女が自分のやってきた事に気付く、その時まで。それまで、彼女の魂は目に見えぬ、だが逃れようのない司法官に裁かれ続ける。彼女自身の『良心』という司法官に」
シェリ・ルーはそう言って、その紅の翼を広げた。
「さっき言っただろ? やった事とやられた事の釣り合いはとれるようになってるって。このお嬢ちゃんも、それは身に染みただろう」
虎太朗が腕を組んで、皮肉を含んだ口調で言った。視線はやはり、奈緒に向けられている。
「それじゃあ、お前を元の姿に戻すぞ。それから、魂の状態にする。いいな、シェリ・ルー」
「ああ。いつでもいいよ、ルシエル」
ディーガ=レックスの前後に立ち、各々の四葉の翼を広げる。互いを包み込むように。ディーガ=レックスを包み込むように。光の粒子がルシエルからあふれ出し。シェリ・ルーの翼へと移行していく。ディーガ=レックスの頭上にあった光輪も、徐々に輝きを増していく。それに従がってディーガ=レックスの姿が変わっていく。
背中から生えていた牙状の鋭い刃が消えていく。ドロ色の毛皮は、まるで漂白でもするかのように、端から色が変化する。長く細い毛は、光の加減で微妙に色合いを変えるアイスブルー。わずかな風にも優雅に揺れる。
「キ──レイ」
そう呟いたのは、ようやく一人で立つ事ができた奈緒だ。
蛇の姿をしていた尾は、絹のような質感を持った長い尾に変わる。細められた目から伺える瞳は、知性をたたえた黄玉の色。そして、その額にもう一つの目が開く。縦に開いたまぶたから、見て取れる瞳もまた黄玉の色だ。耳の後ろから、羊のようにキツく巻いた太い角が現れる。
「これで、お前の憎しみは取り除かれた。その姿こそが、レックス、お前の本当の姿だ」
ディーガ=レックスの頭上に輝いていた光輪が消えた。全身を軽く震わせ、ディーガ=レックスが立ち上がる。先程までの醜い姿からは、想像もつかない。憎しみが、魂の本質までも歪めていたのだろう。
「何て──何て、キレイなの……」
その姿に魅了されるように、奈緒がふらふらと近寄って行く。
「おいおい、やめとけって……」
奈緒を止めようとしたガルに向かって、ディーガ=レックスが言った。
「イヤ、構ワナイ。私ノ中ニ、モハヤ彼女ヘノ憎シミハ存在シナイ」
その声は落ち着いている。多少、金属的な響きもあるが、耳に快い声だ。三つの目で奈緒を見つめる。じっと立っているディーガ=レックスの体に、震える奈緒の指が触れた。流れる毛並みに指を這わせる奈緒に、ディーガ=レックスが語りかけた。
「私ハコレカラ、自分ノ犯シタ罪ヲ贖イニ行ク。ドノヨウナ理由ガアッタニセヨ、己デシデカシテシマッタ事ニ対スル責任ハ、己自身デ取ルシカナイノダカラ。私ハモウ、アナタヲ憎マナイ。アナタガ早ク、自分ノ心ノ歪ミニ気付イテクレル事ヲ願ッテイル」
口唇を噛み締めている奈緒を残し、ディーガ=レックスはその場から離れた。待っていたシェリ・ルーとルシエルの許へ戻る。
「では、魂の在るべき場所へ戻ろうか」
ルシエルが両手を差し出す。三つある目を閉じ、ディーガ=レックスはその手に向かって首を垂れた。その姿が足下から解け始め、光の粒子に変換されていく。誰もが言葉を失くし、目の前にある幻想的ともいえる光景に見入っていた。やがて、ディーガ=レックスの全身が解け終る。獣一頭分の質量の光の粒子が渦を巻きながら舞い上がる。螺旋を描きながら舞う粒子に、シェリ・ルーが手を差し伸べた。