闇との対峙
いよいよ全面対決だ!
もうやめろ、俺達が止めてやるから。
これ以上、罪を重ねるんじゃない!
クライマックス突入!!
その知らせが届いた時、俺達はまだ「仮面舞踏会」に揃っていた。エベーナの力によって知った、麻生美由紀の最期。そのこ事に俺達は複雑な思いに包まれていた。
ガロンッ! ガロロンッ!
店内に漂う静寂を打ち破るカウベルのけたたましい音。ドアを蹴破る勢いで入ってきたのは、店の常連である顔なじみの男性とガルだった。
「出たぞ! 阿久から知らせが来た!」
「かかったのか?」
匠が立ち上がって問い返す。
アフィエルがうちに来た次の日から、「仮面舞踏会」のメンバーが「おとり」になって街を徘徊していたのだ。そして、それが今夜、ヒットしたのだという。
「場所は?」
間壁も立ち上がっている。
「何のために俺がいると思ってんだ。大丈夫だ。引っかかったんなら、逃がしゃしねえ」
力強くガルが応える。
「急いだ方がいい。どうやら、逃げ遅れた人間がいるらしい」
「馬鹿! それを早く言え! 真砂とエベーナは、ここに残ってくれ。何かあった時に、この店で連絡を取り合おう。匠君は、街に散らばっているメンバーに状況を伝えてくれないか。どんな方法でも、それは任せる」
シェリ・ルーが矢継ぎ早に支持を出していく。
「判りました。それじゃ、狐火を使って、皆に報せます。万が一、突破された時の事を考えて、周辺に待機しているように伝えればいいんですね?」
匠は身をひるがえすと「仮面舞踏会」を飛び出していった。さすがは、狐が正体だけあってフットワークの軽い事。
「私はここで、真砂さんと一緒に皆さんを待っていますわ。私が行っても、かえって足手まといになってしまうだけですから」
「そうですね。エベーナと一緒に、皆さんが帰ってくる準備をしておきましょう」
「ああ、頼む。間壁さんは一緒に来て下さい。伊津留は──」
俺は麻生美由紀の写真を胸ポケットにしまうと、立ち上がった。
「俺も行くぜ。あんな話を聞いて、このままという訳にもいかんしな。“人間”として、行かせてもらうぞ」
「そうか──。よし、それじゃ、行こう。ガル、案内を頼む」
「仮面舞踏会」を飛び出した俺達は、先頭を走るガルの後を追いかけて走っていく。どこをどう走ったのか。側から見ればかなり異様なこの集団は、誰かに見咎められることもなく、駅付近の繁華街に辿り着いていた。この時の事は、後になっても良く思い出せない。多分「仮面舞踏会」と同じく、異空間をつなげてあったんだと思う。
本来かかるはずの時間を大幅に短縮して、俺達は現場に辿り着いた。
「コタ! 大丈夫か!」
ガルが鼻先で示した路地の奥に向かって、間壁が大声で問いかけた。
「馬っ鹿野郎! 来んのが遅ェよ! それから、俺の事を『コタ』って呼ぶんじゃねえ!」
それに答える声も、間壁に負けず劣らず大声だ。
「何でぇ。マジで大丈夫そうじゃねえか」
おいおい。その言葉の中に、本気の残念さが伺えるぞ……怖えなあ。
「どうやら、結界はまだ張られていないようだな。それだけの余裕がないのか、なりふり構っていられなくなったのか。それとも、そんな事はもうどうでもいいのか」
シェラが呟きながら路地へ入っていった。
「って言ったって、このままにしといて大丈夫なのかよ? 他の人間が入って来たりとか──」
俺の心配に、ガルが答えてくれた。
「気にしなくていいぞ。匠達が、外側から結界を張ってくれるらしいから」
その瞬間、地面スレスレに不思議な炎が灯った。
「いつまでかかってんだよ! 早くしろよ!」
路地の奥からお呼びがかかった。「今行くさ!」
俺達は匠の狐火を越え、声のする方へと進んで行った。
「よお、コタ。どんな感じだ?」
ディーガを壁に向かって投げ飛ばしていた男が振り向いた。
「遅えっつってんだろ、馬鹿野郎! それから、コタって呼ぶな! 俺の名前は『虎太朗』だ!」
その顔や腕などのむき出しになった肌には、名前の通り、虎のような模様が浮かび上がっている。縦長の瞳はギラギラと光り、口許からのぞく牙が恐ろし気だ。
「こっちにゃ、足手まといにしかならないおまけがくっついてんだ。助けに来んなら、サクサク来いってんだよ!」
背後には、腰を抜かしているらしい少女の姿があった。
楽しそうに腕まくりをしながら、間壁が虎太朗に問い掛けた。
「そいつが、ターゲットなのか?」
「そうらしいな。そのお嬢ちゃんの事を、寄越せ寄越せって、ウルセーのよ」
立ちはだかる俺達を見て、ディーガは怒りに全身の毛を逆立てた。
「ナゼダ……? ドウシテ、ジャマヲスル! ソイツガ、アノヒトヲコロシタンダ! ナゼ、ワタシノジャマヲスルンダ!?」
う、わっ! しゃべってる! ディーガの奴、しゃべってるよ!?
「だから、お前にこのお嬢ちゃんを渡せねえって言ってんだろ? 学習しろよ」
虎太朗の後ろで座り込んでいた少女は、俺達の姿を見て少し安心したらしい。
「あ、あ、あんた達、助けてよ! 何なのよアイツ! 何なの? 一体何なの? あ、あんた達、何者なのよ? 人間なの? あんた達も化け物なの!? 何でもいいから、早くあたしを助けてよ!!」
血走った目を見開き、口から泡を飛ばす勢いでまくし立てた。だが、俺達は誰も彼女の方を見もしなかった。
「悪いけど、俺達は君を助けに来たわけじゃないんだ」
あんまり優しくない口調で俺が答える。
「ちょ、ちょっと、何言ってんのよ! それじゃ、何のために来たって言うの!?」
その言葉に余程驚いたんだろう。女子高生は甲高い声で喚き始めた。
「うるせーよ、嬢ちゃん。俺はなぁ、お前さんみたいな人間は嫌ェなんだよ」
ガルが冷たく言い放つ。
「ソイツヲ、タスケニキタワケジャナイ? ナノニ、ワタシノジャマヲスルノカ? オマエタチハ、ナニモノダ?」
ディーガが用心深く、こちらをうかがう。奴には理解できないだろう。そりゃあ、そうだろう。だけど、本当に俺達は少女を助けに来たわけじゃないんだ。シェリ・ルーが一歩前に出ると、おもむろにディーガに語りかけた。
「俺達は、お前と同じモノだ。天の定めた理から外れた、種族としての枠から外れたモノだ。今ここにいる連中は、あの娘を助けに来たんじゃない。お前を救いに来たんだ。お前がこれ以上罪を犯さないように。お前の魂が、これ以上闇に堕ちてしまわないように」
「ワタシノ……タマシイ──」
意外な言葉だったのだろう。
「お前、麻生美由紀さんが可愛がっていた、レックスだろう?」
俺は胸ポケットから、あの写真を取り出して見せた。
「レックス──。ワタシノナマエ……レックス……アノヒトガツケテクレタ──」
「麻生美由紀のな、おっかさんが言ってたよ。彼女が戻って来なかった夜、可愛がってた雑種のレックスもいなくなっちまったって。随分と寂しがってたよ」
間壁が言葉を繋いだ。
「あんた達、何なのよ? そんな事、どうだっていいじゃない! 早くそいつを殺しちゃってよ!」
別の意味でパニックに陥った少女が叫ぶ。だけど、誰も振り向かない。何も答えない。
「何でよ! あたしは人間なのよ!どうして人間じゃなくて、化け物のそいつを助けるなんて言うの!? あたしの事を助けなさいよ!」
ま、ね。常態であるなら、それが本当だと思うよ。どう見たってこの状況は、「怪物に襲われている女子高生」だからな。
「あたしが何したって言うのよ!? あたしは何も悪くないじゃない! 麻生は勝手に死んだのよ! あたしが殺したわけじゃない。あいつが勝手に死んだのよ!」
状況に体が順応し始めたのか、抜けていた腰が元に戻り始めたのか、四つん這いになりながらにじり寄ってくる。
「ナニモシテイナイダト? ワタシノタイセツナ、アオノヒトヲコロシテオイテ、ナニモシテイナイダト!? フザケルナ!!」
ディーガが怒りの咆哮を上げる。蛇が赤い舌を吐き出し、身をくねらせて威嚇する。
「オマエガコロシタンダ! オマエガ! オマエガ!!」
四肢をバネのようにたわませ、ディーガがこちらに飛び掛ってくる。
「っ! だから、落ち着けって!」
間壁がぶつかってきたディーがを受け止める。長大な蛇が襲い掛かろうとした瞬間、シェラの指が印を切った。蒼い光で紡がれた神聖陣がディーガの周囲に現れる。
「ギャンッ!!」
陣に弾き飛ばされたディーガは、アスファルトに叩きつけられた。
俺はこの場所に着いてから、初めてその少女の姿をまともに見た。両手の指先を飾っていたネイルは剥がれ落ち、あちこちに散らばっている。さして大きくはない目を縁取っていたマスカラとアイシャドーは、涙と汗に溶けてその顔を汚している。
「自分は何も悪くない。君は今、そう言ったな」
地面に張り付いたまま、彼女は俺を見上げた。
「そうよ。あたしは悪くないじゃない。勝手に死んだ麻生が馬鹿なのよ。あたしが殺した訳じゃない」
「そうだな。確かに君が言う通り、麻生美由紀を殺した訳じゃない。でも、だからって、君の犯した罪まで消える訳じゃない」
俺の言葉にディーガが噛み付いた。
「ウソダ! アノヒトヲコロシタノハ、ソイツニキマッテイル! ウソダ、ウソダ!!」
俺は、ディーガの復讐にかける果てしない執念を感じて、切なくも哀しくも思った。
「ディーガ──いや、レックス。お前には納得できないかもしれないが、彼女は麻生美由紀を殺してはいないんだ」
「ウソダ────!!」
路地にディーガ=レックスの悲痛な叫びがこだました。
**
これはエベーナが語って聞かせてくれた、あの日の出来事。
放課後の音楽室で美由紀は何かを探していた。教卓の下や机の間を廻り、掃除用具入れの中まで覗いてみた。
「おかしいなぁ。ここじゃないのかなぁ」
さらに深く掃除用具入れを覗き込んだ瞬間、背後から腰を強く蹴り付けられた。
「ああっ!?」
モップやホウキをガタガタと鳴らしながら、美由紀は掃除用具入れの中につんのめってしまった。背後からは、数人の女子の高い笑い声が響いている。
「何するの……」
床に座り込んでしまった姿勢で、美由紀は自分を蹴り付けた相手を見上げた。
「あーら。誰かと思ったら、麻生さんじゃない。気が付かなかったわ」
「あたしなんて、てっきり、しまい忘れたモップかと思っちゃったわよ」
ひとしきり美由紀を囲んで笑った後、リーダー格らしい少女が何かを取り出した。
「お前が探してんの、コレじゃねーの?」
手のひらに乗る程の小さな箱。グリーンのリボンがかけられた、可愛らしい箱だ。
「あ! それ!」
差し出した美由紀の手を、少女の一人が払い除けた。
「なぁに、こいつ。せっかく奈緒が拾っといてくれたのに、礼も無しかよ」
奈緒と呼ばれたリーダー格の少女は、手の上でその箱をポンポンと弾ませている。
「やめて! 返して!」
「へえ。そんなに大事なモンなのかよ?」
奈緒は美由紀の前にしゃがみこむと、箱を目の高さに掲げて見せた。
「わざわざ拾って持ってきてやったんだ。タダでお前にくれてやる訳には、いかねえよなあ。いくらで買うよ?」
美由紀の目に、困惑の色が広がった。
「そんな──。お願い、返して」
立ち上がって箱を取り戻そうとした美由紀は、側にいた女子生徒に足元をすくわれた。
「きゃあぁ!」
前のめりに倒れこんだ美由紀の頭を、別の女子生徒がモップで押さえつけた。
「何が『返してぇ』だよ。『返して下さい』だろうが。言葉遣いがなってねえな」
周りにいた女子生徒達が、笑いながら、掃除用具入れの中にあった雑巾を投げ付ける。
「やめて! やめてよ! どうして、こんな事をするの!?」
体を押さえ付ける数本のモップに抗い、投げ付けられる雑巾を手で除けようとしながら、美由紀は女子生徒達に訴えかけた。
「どうして? お前が、ウゼエからに決まってんだろ。当たり前の事、聞いてんじゃねえよ」
「目障りなんだよ」
「学校、来んなっつってんだろ」
頭上から降ってくる言葉のナイフの数々。
「どうしてよ、どうして? 私が何かした? 私があなた達に、何かしたの?」
美由紀の必死の問い掛けは、奈緒の冷ややかな答えにかき消されてしまった。
「別に。あたし達もさぁ、毎日ストレス溜まる訳よ。だから、あんたでストレス発散してるの。判ったぁ?」
その声と共に、手にしていた箱を美由紀の目の前に落とした。
「学校に来るなら、大人しく、あたし達のストレス発散に付き合うしかねーよなぁ」
奈緒は冷笑を浮かべながら、落とした箱をゆっくりと踏み潰した。
「ああっ──」
無残に潰れた箱に、美由紀が痛々しい声を上げた。
「こんなモンなぁ、大事そうに学校にまで持ってくんなよ。馬っ鹿じゃねえの? そんなに大事なら、落としたりしてんじゃねえよ」
自分の踏み潰した箱を掴み上げると、背中越しに開いた窓から投げ捨てた。声を失っている美由紀を見て、少女達はまた、甲高い笑い声を上げた。口々に罵倒の言葉を吐きながら音楽室を出て行く。ドアに手をかけ、奈緒が振り向いて言った。
「美由紀ちゃん。明日からも、あたし達のストレス発散、よろしくね」
彼女達が去った後、うずくまったままの美由紀の口から嗚咽が漏れた。握り締めた拳で床板を叩く。
「どうして? どうしてよ? ねえ、どうしてなの?」
答えの返ってくるはずのない問いを繰り返す。意味もなく、訳も分からず、このままずっと、奈緒達のグループに虐げられ続けるのか。
フラフラと立ち上がった美由紀は、箱が投げ捨てられた窓枠へ近寄って行った。涙で曇った美由紀の目が、窓のひさしの部分にかろうじて引っかかった状態になっている、潰れた箱を発見した。
「あった──」
生気を失っていた彼女の顔に、一瞬、明るい光が差した。音楽室の中を見回し、転がっていたモップを拾い上げた。窓枠から身を乗り出し、モップの柄で箱を引き寄せようと試してみる。しかし長いモップの柄は、美由紀の思い通りには動かず、ともすれば微妙なバランスで引っかかっている箱を落としてしまいかねない。
「くっ──。上手くいかない……」
落ちれば、校舎の下へ拾いに行けばいいだけの話なのだが、そのときの美由紀の頭には思い浮かびもしなかった。
「あと、もう少しなのに」
美由紀はモップを放り出すと、窓枠を乗り越えた。頭の中には、小箱を手にすることしかない。そのための手段は、美由紀にとってどうでもいい事だった。窓枠に手を掛けて体を支えると、美由紀は箱に手を伸ばした。
「もう、ちょっと……」
ギリギリまで両腕を伸ばす。美由紀の震える指先が、小箱のリボンにかかった。攣りそうになる指が、懸命に箱を手繰り寄せた。
「やった!」
美由紀の顔が喜色に輝いた。その瞬間──。
彼女の体を支えていた手が、汗ですべり、窓枠から離れた。何かを考える暇もなく、ただ掴んだ箱だけを胸に抱え込み、美由紀の体は宙に投げ出されていた。やがて──鈍い音が響いた。
**
「──だから、彼女は麻生美由紀さんを、直接殺してはいないんだ」
俺の話が終わると、地面に座り込んだままだった女子高生、麻生美由紀を苛めていたグループのリーダー格だった少女・奈緒は力なく呟いた。
「あ、あたし達が悪いんじゃないじゃない」
確かに、彼女が直接手を下した訳ではない。それでも──。
「それでもやっぱり、君達にも原因があるんだ」
長い話を聞いて、ディーガ=レックスも言葉を失くしていた。
「ソンナ──」
「お前が学校に着いたのは、それから間もなくの事だ。だから、麻生美由紀の最期に間に合ったんだ」
ディーガ=レックスに、シェリ・ルーが静かに声をかけた。
「お前が怒りに任せて、目の前にいる彼女を殺しても、美由紀さんは喜ばない。それは、お前が一番良く知っているはずだ。美由紀さんと一緒に長い時間を過ごし、そして──彼女の血肉を身裡に取り込んだお前なら」
新聞の記事にあった、痛いが見つからなかった謎。その答えは、とても単純な事だった。アフィエルが言っていた、妖獣ディーガの魂の気配を追えなくなった理由。
「亡くなってしまった美由紀さんをそのままにしておけなかったお前は、彼女の血を口にした。そして──彼女の遺体を、喰ったんだ」
人間の血肉は、正邪を問わず彼等の理性を狂わせる。
「ソンナ──。ソノ女ガ、アノ人ヲ殺シタンジャナイ? ナラバ、私ノコノ身裡ニアル、抑エヨウノナイ怒リハ、私ノ身ヲ焦ガス、狂オシイ怒リノ炎ヲ、ドウシロト言ウノダ! ダメダ! ソンナ事ハ許サナイ!」
ディーガ=レックスの体が一回り膨れ上がった。恐ろしい勢いで学習しているディーガ=レックスの言葉は、聞いていてもはや何の違和感もない。
「許スモノカ! 今更、何ヲ言イ繕ッテモ、アノ人ハ戻ッテ来ナインダ! ナノニ、ソノ女ハ生キテイル。ソンア事ガ、許サレルハズガナイ!」
ディーガ=レックスの背中が盛り上がり、まるで牙のような、刃のような(あれは、骨なのか、もしかして?)鋭い突起が、毛皮を突き破って現れる。
「おいおい。これ以上、どんな変身をしようってんだよ?」
虎太朗が呆れ顔で呟いた。
「やめろ、レックス! これ以上、己の魂を血で汚すな。もうやめるんだ!」
間壁の叫びに、レックスが悲痛な答えを返してきた。
「私ノ魂ハ、スデニ血塗レダ! コノウエ血デ汚レタカラト言ッテ、ドウト言ウ事モナイ。ドウセ私ノ魂ハ地獄ヘ堕チル。ダガ、アノ人ヲ死ニ至ラシメタ者共ヲ、一人残ラズ殺シテカラダ!」
ディーガ=レックスは全身の毛を逆立て、俺達に向かって吼えた。獣の眼に涙腺があるのなら、今、奴は血の涙を流しているだろう。麻生美由紀の死は事故だった。彼女の仇を討つ事だけを思っていたディーガ=レックスは、今になって、その標的を見失ったのだ。しかし、間違った仇討ちはやめさせなくてはならない。奴の魂が、これ以上壊れてしまわないように。今の奴の醜い姿は、そのまま奴の魂の壊れた姿だ。
「レックス。地獄へ行くなら、お前一人で行け。お前の道行きに、彼女を付き合わせるんじゃない」
シェリ・ルーの声が、静かに、けれど厳しく空間を貫いた。
「何……ダト?」
思いもかけぬ事を言われたディーガ=レックスは、攻撃態勢に入ったまま固まった。
「お前がこれ以上罪を重ねれば、お前の魂だけじゃない。お前の事を心配して、ずっと側にいた、美由紀さんの魂も罪に染まるんだ」
シェラの言葉は、ディーガ=レックスの胸に届いたようだ。
「怒りと憎しみで曇ってしまったお前の眼には“見え”ない。彼女はずっと、お前の側についていたんだ。お前がやっていた事も、全部知っているぞ。このうえ美由紀さんを、更に苦しめたいのか?」
俺達がディーガ=レックスを説得している間に、奈緒の抜けていた腰が治ったらしい。誰も自分の注意を払っていない事を確かめると、何とか逃げ出そうと動き始める。
(何なの、コイツ等。何、話してんだよ? 理解できねえよ)
ジリジリと、その場から離れようとする。
(コイツ等、まともじゃないよ。さっさと殺しちまえよ。こんな奴、さっさと殺しちまえよ。こんな奴、こんな奴──)
「さっさと殺しちまえよ! こんな奴! こんな化け物! さっさと殺してよ!!」