慟哭
思い出されるのは、あの人の最期の姿。
もう二度と、自分を抱き締めてはくれない、あの人の腕……。
許しはしない。
自分から大切なあの人を奪った「人間」を許しはしない。
闇にまどろみまがら彼は思い出す。初めて口に含んだ血の味。口腔に広がる甘さ、そして苦味。
「死にたくない」
あの人はそう言った。
「もう死にたい」
あの人はそう言った。
それは、どちらも本心。相反する心に揺れ動きながら、その狭間で追い詰められていったあの人。
彼を抱き締めてくれた、優しかったあの人は、もういない。彼を愛して、温めてくれたあの人は、もうどこにもいないのだ。その事を思い出した時、彼は自分の胸の奥にポッカリと深淵が口を開いたような気になる。その深淵は、ひどく冷たいモノで満たされている。
彼を抱き上げてくれたあの人の手は、とても温かくて、とても柔らかかった。あの人の笑顔は、彼の裡を不思議な温もりで一杯にしてくれた。愛される事を知らなかった彼は、あの人と共にいる事で得られる温もりが、「愛」であるとは気付かなかった。でも、あの人と一緒にいた時間は、確かに彼にとって幸せな時間だったのだ。
しかし幸せな時間は、唐突に終わりを告げた。いつもの時間になっても戻ってこないあの人を心配して、彼は迎えに行ったのだ。辿り着いた彼は、鼻腔を刺激する血の臭いに気が付いた。臭いの先にあったのは、血溜まりの中に倒れたまま、動こうとしないあの人の姿。
迎えに来た事をほめて欲しくて、温かい手に抱き上げて欲しくて、彼は血溜まりの中へ歩を進めた。まだ温かい、粘り気のある、金属的な、それでいて甘い臭いのする生命の源。彼があの人の指をなめると、ほんのわずか目を開けた。鼻を鳴らして甘える彼に、あの人は残った力で訴えた。
「──死にたく……ない」
彼に触れようとして持ち上げられた手は、そのまま彼に触れる事なく地に落ちた。跳ね上がった血の飛沫が、彼の口元に付着した。初めて口にしたその味は、限りなく甘美で、限りなく苦い。それは彼の理性を速やかに狂わせていく。
視野が赤く染まった。彼の全身に刻み込まれた、あの人の言葉。血と肉に含まれた、あの人の無念。唐突に断ち切られてしまった未来への夢。それらすべてが、彼を狂わせていく。彼はむしろ喜んで、その狂気の波に己を委ねた。
許せないと思った。彼から大切なあの人を奪った、すべての者が許せなかった。復讐をあの人の生命に誓った。
そして──新しい彼が生まれたのだ。否、本来の姿に生まれ直したと言うべきか。
のそり、と闇の中で立ち上がる。まだまだ力が必要だ。まだ思い出していない事があるのだから。しかしそれは、もう思い出さなくてもいいのかもしれない。彼の大切なあの人を、一人寂しく死なせた奴等。あの人が追い詰められていたのに、助けようともしなかった人間共。そう。この世に生きる人間すべてが憎い。
身を潜ませていた物陰から姿を現わす。わざわざ思い出す必要はないんだ。他の事は考えなくていい。この世の人間を殺し尽くす事。そして大切なあの人の思い出だけ。それだけを憶えていればいいのだ。
さあ、希望を絶望に変えに行こう。狩りを始めるのだ。彼の味わった絶望を与えに。彼の抱える虚無を与えに。
**
「そう言えばさぁ、最近、聞かなくなったよねぇ」
ファーストフード店のトイレを占拠し、化粧を直しながら気だるそうに会話を交わす、数人の女子高校生。
「聞かなくなったって、何が?」
「ほら、アレよアレ。例の事件だよ」
髪を整え、マスカラを付ける。眉を描き直し、口紅を塗る。
「あー、どっかで捕まったんじゃねぇの?」
「えー? そんな話、聞いてないよぉ」
「そんじゃ、どっかで死んじゃったんだよ、きっと。ねえ、それよりさあ、これからどうすんよ?」
それぞれの荷物を手にすると、甲高い声で騒ぎながら店から出てくる。
「カラオケにでも行く? あ、でも、あたし今日お金ないや。どっしようっか?」
「テキトーにオヤジでも捕まえてさぁ、おごらせちゃおうよ」
そのうちに彼女達はターゲットを発見したらしい。真面目そうなサラリーマンの青年に駆け寄った。
「ねえねえ、お兄さん。あたし達これからカラオケに行くんだけどさぁ、一緒しない? 今ちょっと、お財布ピンチなんだよねぇ」
青年は事態が良く飲み込めていないらしく、意味不明な事を口走りながら、女子高生達に引きずられるようにして移動していく。
「い、いや、君達……。一体、何なん……。僕は、あの……」
キョドキョドと周りを見回しながら、怯えたような表情を浮かべるサラリーマン青年。そんな様子を目にして、少女達の嗜虐性に火が点いた。目配せすると、カラオケ店ではなく、その脇の細い路地へ入っていく。
「き、君達、何をする……?」
壁際に追い詰められた青年は、ズリ落ちそうになる眼鏡を押さえ、鞄を抱えて立っている。
「何だったらさあ、別に付き合わなくてもいいからさあ。お小遣いだけちょうだいよ」
「そうそう。お兄さん、お金持ってるんでしょ?」
少女達の言葉に、ようやく青年が反論した。
「何を馬鹿なことを言っているんだ。第一、どうして僕が、君達にお金を渡さなくちゃならないんだ。こんな事して、恥ずかしくないのか?」
手前に立っていた女子高生の顔付が変わる。
「ゴチャゴチャ、うるせえんだよ。黙って大人しく財布出せよ」
「サクサク出しちゃいなよ。それともさあ、何なら今ここで『痴漢でーす!』って叫ぼうか? お兄さんみたいな奴の言うことなんか、誰も信用してくんないよ?」
自分達の優位を信じて疑わない、まだ幼いはずの濁った瞳。サラリーマン青年は口をつぐみ、うつむいている。
「判ったら、さっさと金出しなよ。こっちも暇じゃないんだからさ」
青年は答えない。街灯の光が眼鏡のレンズに反射し、その表情は読み取れない。
「おい、聞いてんのかよ!?」
乱暴な言葉を投げ付けていた少女が、ふと口をつぐんだ。
「え? 何、どうしたの?」
「──今、誰かしゃべった?」
「ううん、別に。誰も話してなかったけど……」
最初に異変に気付いたのは、セミロングの髪を派手な赤茶色に染めた少女だった。
「──誰か、いるのかよ?」
背後を振り返り、暗がりに向かって声をかける。
「何なに?」
「誰かいたの?」
側にいた少女達も何かを察したらしく、不安気に振り向きながら、せわしなく口を開く。
「──ケタ」
光の届かない、吹き溜まった闇の中から、何者かの声が聞こえた気がした。
「誰だよ!?」
「そんなトコに隠れてんじゃねーよ! 出て来い!!」
コンクリートの壁に発育途中の少女達の声が響く。その声は、明らかに恐怖の色を孕んでいた。
カシッ、カシッ、カシッ──。
硬く鋭いものがアスファルトを掻く音。闇が一点に凝縮し、膨れ上がった気がした。
「ミ──ヅ、ケタ……」
人語を語る形には出来ていないアゴから、たどたどしい言葉が漏れる。
「な、何コレ!!」
暗がりから現れた、その姿。泥色の毛皮。鈍く光を反射する太い爪。めくれ上がった口唇から覗く乱杭歯。
「ね、ねえ──。コイツって、もしかして」
「そんな、まさか」
怯えながら震えている少女達を、黄色く濁った眼で見据えながら近寄ってくる獣。不気味に蠢く、奇怪な蛇。
「ミ、ツケ、タゾ──。ソノ、フクダ。シッテ、イ、ルゾ──」
明瞭な発音ではない。片言の人語。しかし、意味が通じるだけに、余計に不気味さが募る。息を飲んで立ち尽くしている少女達の背後から、不意に笑い声が弾けた。
「あっはは、おっかしいったら。さっきまでの威勢の良さは、どうしたよ?」
先程まで、目の前の少女達にいたぶられていたのと同じ人物とは、とても思えない豹変振りである。
「お嬢ちゃん達、ちっとオイタが過ぎるねえ。黙って見てようかとも思ったんだけど、それも、あんまりだしな」
かけていた眼鏡を放り投げ、ネクタイを緩めながら不敵に笑っているのは、サラリーマン青年。上着を脱ぎ捨てて肩を回しながら、凍り付いている少女達に告げた。
「これに懲りたら、少しは良い子にしてろよ。これからヤバい事が始めるから、早く行け」
その言葉にディーガが反応した。
「ナゼ、ジャマ、ヲスル。ソノフクダ。サガシタゾ。シンデ、シマッタアノヒトト……オナジフクダ」
逃げ出そうとしていた女子高生の一人が、立ち止まって振り返った。
「死んじゃったあの人って、まさか、麻生? あいつ、勝手に死んだクセに何だって──」
「オマエ、シッテイルナ……。アノヒトヲ、シッテイルナ!」
「馬鹿野郎! 立ち止まらずに、早く逃げろ!!」
何の予備運動もなく、ディーガの巨体が跳んだ。着地したディーガが少女の退路を断つ。
「オマエカ? オマエガ、アノヒトヲ──オマエガ、アノヒトヲコロシタノカ!!」
その怒りの波動が、物理的な衝撃となって襲い掛かってくる。仲間から取り残された少女は、恐怖に目を見開き、ズルズルと腰を抜かして座り込む。
「あ、あたしのせいじゃない! あいつが、麻生が勝手に死んだんだ! あたしのせいじゃない!!」
壊れた人形のように首を振りながら、自分のせいではないと繰り返す。
「ちっ!」
舌打ちをした青年は、アスファルトに座り込んでいる少女とディーガの間に割り込む。
「だから、さっさと逃げろって言ったんだ」
「ジャマヲスルナ! ソノオンナヲ、コッチニヨコセ!」
短時間のうちに、随分と滑らかに人語を話すようになってきている。物凄いスピードで学習しているのだろう。
「悪いな。このお嬢ちゃんを、お前にくれてやるわけにゃ、いかねえんだ」
背後に少女をかばった青年の姿が、徐々に変化していく。瞳が縦長になり光を反射する。脇に垂らされた両手が、バキバキと音を立てて変わっていった。指が太くなり全体的に黒い毛に覆われていく。鋭い爪が伸び、口許には長い犬歯が覗く。
「お嬢ちゃん、良く覚えておきな。この世の中、やった事とやられた事の釣り合いは、バランスが取れるように出来てる。その時になって、やってません、知りませんは、通用しねえんだぜ」
その言葉は、果たして彼女の耳に届いたのか……。