闇の解析・反撃開始
シェラが少しずつ解析していってくれる俺の中の闇。
そうだ、俺は聖人君子じゃない。
でも、誰かの涙の上にある幸せなんて欲しくない。
待ってろ、ディーガ!これから反撃開始だぜ。
「今日は何だか、ドタバタだな。ゆっくりと話をする暇もない」
自分のカップを持ってきたシェラが、俺の前に座る。
「少し話をしようか」
「ん……。いや、お前も何かと大変そうだし」
確かに悩みの種は尽きないけれど、こいつだって色々抱えてんだ。そうそう俺のことばかり言っていても始まらない。
「大丈夫だから。気にすんなよ」
笑いを作って見せた俺に、あきれたような表情でため息をついた。
「変に気を使っているのは、お前の方だろ? 気にしなくていいってのは、こっちの台詞だよ。ディーガの方は、真砂がネットワークを使って探してくれているし、何かあったら連絡が来るようになってるから。それに、俺のほうの用事は、少しくらい寄り道したからってどうなるモンでもないしな」
だから話してみろよ。と促されて、俺は自分の胸の奥のモヤモヤを吐き出すことにした。忘れたと思っていた過去も恋。思いがけない再会によって湧き上がる嫉妬心。無自覚に放った呪いの言葉。
「諦めがついたと、自分の中では決着がついたと思っていたんだ。それなのに、美緒と一人の二人に会っただけで揺らぐような決心だったなんて……」
テーブルで頬杖をつきながら俺の話を聞いていたシェリ・ルーは、噛んで含めるように語り始めた。
「それって、そんなに悪い事なのか? たとえ決着のついた過去の恋でも、好きだった人に出会えば心が動かないか? ライバルがいれば『いなくなって欲しい』と思うのは、普通の事だろう。別に特別な話じゃない。それさえも許せないほど、伊津留は聖人君子なのか?」
「そんな訳じゃないけど……」
そう……だよな。俺ってば、聖人君子じゃない。思いっ切り俗にまみれた、平凡な人間なんだ。シェラの言葉を聞いているうちに、何だか気が楽になってくる。
「伊津留は今でも、本橋さんの事が好きなんだな?」
「ああ。好き──なんだと思う」
この気持ちは本当に「恋」なのか?
それとも、逃げ出してしまった自分に対する、後悔への言い訳なのか?
「彼女を自分のモノにしたいか? それが、たとえば二人を引き裂き、彼女を傷つけてしまう結果になったとしても」
シェラの言葉に俺はハッとした。俺のこの想いは、彼女の、美緒の気持ちをまったく無視しているんだ。一人の身に何かあったら、美緒はどれだけ傷つくだろう。考えた事もなかった。
「そう……だな。美緒を泣かせてまで、俺のモノにしたい──とは思えないかもな」
心の闇が、少しずつ解きほぐされていく。あれほど苦しかった波が、嘘のように消えていくのが判った。
「シェラ。お前と話して良かったよ。あのままだったら、俺はきっと、美緒を傷つけていた。一人の命が助かった事を喜べねえ、サイテーな野郎になってたさ」
俺の言葉を聞いて、シェラは静かに笑った。
「そりゃあ、良かった」
「実は俺、結構凹んでたんだ。こんなに嫌な奴だったのか、ってね」
大きく伸びをして、息を吐き出す。胸の奥にあった塊が、音を立てて堕ちていった気がした。
「奴と出会えば、誰でもそうなる。人である以上、それは仕方のない事だ」
「? 奴?」
「妖獣、ディーガの事さ。妖獣と言う存在は、いわば負のエネルギーの集合体だ。正と負のエネルギーが微妙なバランスで成り立っている人間が、奴と出会えば必ず天秤の皿は負に傾く。これは誰にも止められない。伊津留の場合、その対象が倉田さんと本橋さんに向かってしまったという訳だ」
だから、必要以上に落ち込むことはない。シェリ・ルーはそう言ってくれた。
あの妖獣と出合った後に、俺の意識の奥でざわめいていた声。妬みや憎しみが満ち満ちた囁き。あれらはディーガの負のエネルギーに触発された人々の感情なのだ。自分で経験しているだけに、その闇の深さは人事ではない。
「そもそも、妖獣って何なんだ? そのあたりの説明がないまま、話が進んで行った気がするんだが」
「ああ、そうか。俺達には、今更だからな」
シェリ・ルーはクッションに座り直すと、改めて語り出した。
「神が“世界”を創造なさった時、この世を美しいもの、清いもののみで満たそうとなさった。そのために、醜いもの、不完全なもの達の居場所がなくなってしまったんだ。神だって、最初から全てを完全に造れた訳じゃない。創造していく過程の中で何かが欠けたり、どこかが歪んだまま生み出されてしまった者達も多くあった」
「ディーガは、その不完全なものって訳か」
俺の言葉に軽くうなずき、テーブルの上で両手を組んだ。
「神はその『失敗作』達を消そうとなされたが、それが不可能なことに気が付かれた。一度生み出されてしまった存在は、いかに神といえども消滅させる事は出来なくなっていたんだ。仕方なく神は、それらのもの達を第三天・サグンへと連れて行かれた。そしてそのまま、地獄の牢獄に繋がれたんだ。『失敗作』が世界を汚さないようにと」
すでに何度も思った事だが──まったく、神って奴は……。
「妖獣ディーガは、天地に凝った陰の気を集めて造られた。だから、常に陽の気を求める。つまり、自分にはない正のエネルギーだ。しかしディーガの持つ負のエネルギーは甚大だ。奴に出会えば、誰もが少なからず持っているマイナスの感情が暴走してしまうんだ」
「なるほど、良く判ったよ」
俺はクッションを抱きかかえて床に転がった。
「なあ、奴をどうにかする手段って、あるのか?」
「さあ。どうだろうな。正直、判らないんだ。今、それを探しているところだな」
俺の問いかけに、返ってきたシェラの答えは、何とも心細いものだった。
「絶対に何かあるはずなんだ。必ず見つけ出してみせる。──時に、伊津留」
「んー? なにー?」
次の瞬間、俺は世にも恐ろしい言葉を聞いた。
「担当さんから電話、あったぞ」
「あーーーーーっ!! やべぇーーーーーーっ!!!」
**
その電話が掛かってきたのは、締め切りも過ぎ、何の進展もないままに数日が経過した頃だった。
「もしもし?」
「あ、もしもし伊津留さんですか? 俺、匠です。って、判りますかねぇ?」
電話の主が判らず、俺が「あー」とか「うー」とか言っていると、受話器の向うで笑い声がした。
「あはは、やっぱり判りませんか。コンビニでバイトしてる、ほら……」
ああ、はいはい。判りましたよ、狐君ね。君、匠って名前なんだ。
「お知らせしときたい事があるんですけど、シェラさん、いますかねぇ?」
あいにくと、シェリ・ルーは買い物に出ていた。あいつが買い物に行くようになってから、おまけが沢山ついてくるようになったなあ。
「そっかぁ。じゃあ、伊津留さんでもいいや。あのですね──」
……おい。「でもいいや」って何だよ。
「例の奴ですけど、調べていたら妙なことが判ったんですよ。詳しい話もしたいんで、今夜、真砂さんトコに来て欲しいんですけど、大丈夫ですか?」
はいはい。判りましたよ。了解しました。今夜二人で“仮面舞踏会”へ出向く事を約束して、俺は電話を切った。
はひー。
咥えた煙草に火を点け、大きく息をついた時、ドアの鍵が開く音がした。
「ただいまー」
近くのスーパーの袋を抱えたシェラが帰って来た。
「何? どうかした?」
ソファーでだらけている俺の姿を見て、シェリ・ルーが問いかけてくる。
「匠君から電話。奴の事で妙な事が判ったって。詳しい話がしたいから“仮面舞踏会”へ来て欲しいそうだ」
「匠君? ──ああ、彼か。妙な事ねぇ。何だろう、気になるなぁ。伊津留も行くだろ?」
買ってきた物を冷蔵庫へしまいながら、シェラが振り返って聞いてくる。
「当たり間だろ。もちろん、行くさ」
ここまできて、置いてけぼりはないだろうよ。絶対行くってばよ。
ソファーの上でだらけ切っている俺は、プカリプカリと煙草をふかす。あぁー、何もする気が起きない。アップダウンの激しい時間を過ごしたせいかどうかはわからないが、必要以上に疲れが出てしまった俺は、担当さんに原稿を渡した後(担当さんがうちに来て、俺の後ろで出来上がるのを待ってた……泣)から、ダラダラ状態が続いている。
「おーい、伊津留。そろそろスイッチを入れて、シャキッとしてくれないかな? はっきり言って、かなり邪魔だよ」
腰に手を当てたシェラが、ソファーの前に立って見下ろしている。
「ああーん? そんな事言われてもなぁ」
日光に溶けたマーガリンのような俺は、ふやけた返事を返す。シェラは大きくため息を吐くと、俺を横目に眺めて言った。
「そんなだらけた顔して店に行ったら、ガルに何言われるか判らないぞ。大口開けて、笑われるかもな」
あ……。それはちょっと嫌かも。シェラや真砂にからかわれたり笑われたりするのは気にならないけど、ガルに笑われるのだけは、ちと勘弁。口悪いんだよ、あの一つ頭のケロベロスはさ……。
「んじゃ、スイッチ入れますか」
ぐーっと伸びをすると、煙草をもみ消す。何だか久し振りに、人間の形になったような気がする。時計を見てみると、真砂の店に顔を出すには半端な時間だ。
「なあ、シェラ。“仮面舞踏会”に行く前に、病院に寄ってもいいかな?」
倉田一人が病院に担ぎ込まれて以来、俺は見舞いにも行っていなかった。何だか、自分の心を整理する時間が必要だったんだ。まっ、今さらだけどね。
「倉田さんのお見舞いか。意識、戻ったんだっけ?」
「ああ、美緒が連絡してきた」
まだベッドからは起きられないが、意識はしっかりしているそうだ。傷の経過も良好らしい。
久し振りに車を出すと、シェラを乗せて病院へと向かった。途中で、柄にもなく花を買う。食べ物だと、喰えなかった時に困るからな。
病院に着くと、ナースステーションで病室を確認する。意識を取り戻した一人は、思った通り個室から移動していた。
リノリウムの廊下を歩きながら、俺は妙に緊張している自分に気が付いた。教えてもらった病室のネームプレートを確かめると、深呼吸を繰り返す。スーハー、スーハー、落ち着け、俺。
そんな俺を見て、シェリ・ルーが心配そうに声をかけて来た。
「大丈夫か?」
そんなに大丈夫じゃなさそうに見えるんだろうか?
奴に向かって平気だとうなずいて見せ、ノックをしようと右手を挙げた。
ガララ……。
「あれ? 伊津っちゃん? どうしたの?」
絶妙のタイミングでドアを開けたのは、誰あろう本橋美緒その人だった。
「あ、え、う……」
一方、完全にタイミングを外してしまった俺は、挙げた右手を下げるに下げられず、ヒドく間の抜けた姿で固まってしまった。
「外で何だか人の声がしたような気がしたから。あ、シェリ・ルーさんも来てくれたんですか? どうぞ入ってください。今、ひとりも起きてますから」
先日の不安気な表情とは打って変わって、晴れやかに笑う彼女。そんな彼女を見て、一人の事を「ひとり」と呼ぶ声を聞いて、俺は自分の心が落ち着いている事に安堵した。
病室は六人部屋で、一人はその窓際にいた。実際にうまっているベッドは三台で、そのせいか妙に広々として感じられた。起こしたベッドに背中を預け、思いの外、元気そうな表情の一人が窓の景色を眺めている。
「よぉ。具合はどうだよ?」
俺の声に振り向いた一人は、頬が少しコケてはいるが顔色もいい。
「伊津留、来てくれたのか。悪かったな。締め切りとか大丈夫なのか?」
「ケガ人が人の心配してんじゃねえよ。あ、ネコちゃん、これお見舞いの花」
抱えていた花束を美緒に渡す。お花を生けて来るわね、と、病室を出て行く美緒を見送って一人は口を開いた。
「伊津留、そちらがシェリ・ルーさんか?」
俺の後ろにいたシェラが進み出て、一人と向き合った。
「初めまして、倉田さん。伊津留の所に居候させてもらっている、シェリ・ルーです。どうぞシェラと呼んでください」
笑みを浮かべて挨拶をするシェラ。
「美緒からお話は伺っていましたが──直にお目にかかると……」
言葉を探しているらしい一人に、助け舟を出してやった。
「美人さんだろ、うちの相棒」
「ああ、その通りだ。それしか言葉が浮かばないよ。──伊津留、色々と世話になったみたいだな。ありがとう」
静かに息を吸い込む。大丈夫だ。心に波は立たない。
「何……言ってんだよ。ダチだろ、俺ら」
──言えた。
「伊津留、俺、お前に言わなくちゃならない事があるんだ。美緒の事だけど──俺、知ってたんだ。お前が美緒の事……」
一気に話してしまおうとする一人の言葉を、俺は無理矢理遮った。
「一人。もういいんだ。もう、終わった事なんだよ。お前が気にする必要はない。お前はこれから先、美緒を幸せにする事だけを考えていればいいんだ」
「俺、ずっとこの事が気になっていたんだ」
自然と俺の顔に笑みが浮かんだ。一人も、苦しんでいた。俺だけじゃなかった。
「ああ。一人、お前になら任せられる。美緒の事を、頼む」