悪夢の正体と天使の誤算
部屋へ戻った俺を待っていたのは、この世で一番見たくない顔、アフィエルだった。
この高飛車天使が明かす妖獣の正体。
そして自信満々な奴が、予想だにしなかった誤算とは?
テーブルに肘をついて不機嫌丸出しのシェリ・ルーと、窓辺に立って腕を組み、無表情にこちらを見ている野郎。
「なあ、おい、シェラ君よ」
「何だね、伊津留君」
ぶっきらぼうに返ってくる言葉。ああ、良かった。反応がある。
「もしかして俺ってば、幻覚か何か見えてんじゃないかしら?」
「ほほう、奇遇だねぇ。実は俺にも見えてんだよ。で、一体どんな幻覚だ?」
話しているうちに、徐々に余裕が戻ってくる。
「頭ぁ、金髪でよ。こう、モデルみたいにナナメにカットしててよ」
「目玉が緑色か? やたらと陰険で、目つきの悪い」
「そうそう。えらく態度のデカイ」
言いたい放題である。それもそのはず。今の俺達二人が絶対に会いたくない人物が、部屋の中にいるのだ。
ちょっとやそっとの悪口なんざ、笑って聞き流すくらいの余裕がねえなら、初めっから来なきゃいいのさ!
「んで、その幻は一体全体、何にし現れやがったんだ?」
「何か話があるんだとさ」
やっと話の流れが本題へ向ってきた。その問題の人物──アフィエルはと言えば、平静を取り繕ってはいるものの、引きつった口元と額に浮かんだ青筋はごまかしようがない。
「で、何の用だよアフィエルさん? 人の留守中に勝手に家に上がりこむなんざ、あんまりホメラレタもんじゃないぜ」
「ふん。お前達が“妖獣”と呼んでいるアレの事についてな」
相変わらず、タカビーな野郎だ。まるで六本木ヒルズの屋上から、俺達の事を見下ろしてるみたいに話しやがる。
「ほうん。そりゃまた、ご親切にっ。あ、シェラ。コーヒー淹れてくんね? 無駄に緊張したら、喉渇いちったよ」
「ん、OK」
立ち上がったシェラがキッチンへ消えると、食器の触れ合う音が聞こえてくる。
俺はおもむろに煙草に火を点けると、
「で、話しって何だよ。こっとも、これで色々と忙しいんだ。サクサク済ませてくれよ」
灰皿を引き寄せて、無愛想な声を出す。
「お前達が“妖獣”と呼んでいる、あの生き物について何を、どれだけ知っている?」
シェラがトレイを持って戻ってくる。
「別に。やたらと図体がでかくて、シッポが蛇んなってて、泣きが入るくらいタフで、あっちゃこっちゃで人間喰い散らかしてる事くらいしか知らねえよ」
バカシェラ。こんな奴の分まで、持ってきてやることないんだよ。
「シェリ・ルーよ。お前なら、もう少しまともな答えが出来るんじゃないのか?」
あ、テメー。俺の事、馬鹿にしやがったな、くらっ!
俺の隣に置かれていたクッションに座り込むと、マグカップを口に運びながらシェラが答えた。
「第三天の北の地獄、ゲヘナから逃げ出した妖獣・幻獣の魂だろう」
んだ、そりゃ? しかし、顔中を「?」マークで一杯にしている俺を一顧だにせず、アフィエルはコーヒーを口にする。
「あのな、伊津留。人間が言う“天”てのはさ、七つの階層に分かれているんだ。その、下から数えて三番目にあたる天が『第三天・サグン』。で、このサグンの北には『ゲヘナ』と呼ばれる地獄があって、岩と氷と炎とで閉ざされた大地しかない。ここに捕らえられた魂を繋いで、天使達が罰するんだ」
「じゃ、何か? あの妖獣は元々、その……第三天? に繋がれていた奴が、鎖かなんかを引き千切って逃げ出したと──」
俺の問いに、コックリとうなずきながらコーヒーを飲むシェラ。
「頭の悪い人間のお前にも、どうやら理解できたようだな。事がどれだけ重大かが」
ブチッ。
あら、切れちゃった。右手が勝手に動く。手元にあった雑誌を、アフィエルめがけて投げつける。
バサバサバサ──バッ、バサササ。
俺の投げつけた雑誌を片手で叩き落したアフィエルは、物凄い目付きで俺をにらみつけてきた。
「何をするっ!」
「『何をするっ!』じゃねーよ、このタワケ者が。つまるところ、お前等の管理不行き届きで逃げ出した化けモンが、俺達に迷惑かけてんじゃねえかよ。こんな場所でボケボケ茶ぁなんぞ飲んでる場合か? さっさとどうにかしやがれ、大馬鹿野郎!」
心底怒り狂っている俺の言葉に
「何とかしろだと? フン、下衆が。貴様等、自分達の立場をわきまえてから物を言え。あの妖獣によって薄汚い人間が滅ぼされたからと言って、我等にしてみれば、痛くも痒くもないわ」
アフィエルは傲然と言い放つ。
「テメー、仮にも天使のくせして、そぉんな事言っていいんかよ!?」
俺は世の一般常識というモノを甘く見ていたらしい事を、痛切に思い知らされる事になる。
「何か勘違いしているらしいな。我等にとって人間など、どうでも良い存在なのだ」
少しも動じてないよ、コイツ。
「天使が人間を守護しているだと? 思い違いも甚だしい。馬鹿馬鹿しいにも程がある」
え? そうなの? そういうモンなの?
ちょっとばかし気勢を殺がれちゃって、俺はシェラの方を向いた。
「アフィエルの言う事も、ある意味、真実なんだ。信じられないかもしれないけどな」
ほんの少し寂しそうな表情をして、シェリ・ルーが答えた。
「だってよ、『人間』てのは、『神』が創造したんだろ? 何でだよ?」
──初めに神は、天と地とを創造された。
そう。神は初源の七日間に六日目に、土くれから『人間』を創り出したはず。自分の勝手で俺達『人間』を創っておきながら、その責任はとらないってのかよ?
「愚かな戯言を信じる者どもよ。我等が真実、父なる神と共に拝するは、高貴なる『初源の人』アダム・カドモンただお一人。堕落したイヴの末裔たる女の胎から生まれた『人間』など、汚らわしい限りだ」
オメーよぉ。今の台詞、女性人権擁護団体のおばちゃん達の前で、も一回言ってみろ。
しかし俺は、アフィエルの言葉を聞きながら、もう一つの神話を思い出していた。
──その昔。神は天使達を創造し、神以外の何者をも拝するな、と告げた。
やがて神は、『初源の人』アダム・カドモンを創造する。『彼』が天使達よりも高位であると考えた神は、先の命令を忘れて新しい被造物に服するように命じた。
しかし神以外に首を垂れる事を良しとしなかった天使達は、こう言って神の命令を拒んだ。
「いかにして炎の子が、土くれの子を拝せようか」
その結果、天界の三分の一の天使達が闇の深淵へと堕ちて行く事になったのである。
「堕天使」についての、あまり知られていない、もう一つの「真実」である。
深く神を愛したが故に、最愛の神によって天上を追われた天使達。ったく、この「神」って奴はよぉ……。
「で、お前の用件な何なんだ? お前等の言う所の汚らわしい地上まで、わざわざ聖書の講釈をしに来たわけでもあるまいに」
そうそう。初めは“妖獣”の話をしてたんだった。
「どうせお前の事だ。逃げ出した妖獣の魂を捕らえて来い、とか言われたんだろうが」
シェリ・ルーの一言に、アフィエルがなんとも嫌そうな顔をする。どうやら、図星らしい。
「その通りだ。サンダルフォン様のご指示で、あの魂を第三天に取れ戻すように言われている。初めは、簡単に見つけられるはずだったのだ。痕跡も残っていたからな」
“はず”や“つもり”で渡っていけるほど、世の中そんなに甘くない。「締め切りまでには、上がるはずだったんです」とか「こんなにかかるつもりじゃなかったんです」とか言っても、担当さんに許してもらえない、この俺が言うんだから間違いない。
──あれ? 何か違う……。
「それで?“つもり”と“はず”が、どうしたって?」
頭を抱えてしまった俺をさりげなく見ながら、シェラは冷たく先を促す。こいつって、敵に回すと、かなりヤな奴かも。
「しばらくの間は、順調に痕跡を追うことができた。ただあいつの気配さえ追っていれば良かったんだからな。ところが、途中でその気配が消えてしまった」
ゆっくりとコーヒーを飲み干して、カップを手の中でクルクルと回す。やめろよぉ、そのカップ高かったんだからな。
苦虫を(どんな虫なのか、幼少の頃からの謎である)まとめて数十匹、噛み潰したような渋面でアフィエルが続けた。──んむ。いい気味だ。
「妖獣の魂が、人間の中に紛れ込んでしまった。──いや、そうではないな。妖獣の奴の魂と人間の魂が融合してしまったらしい。おかげで、こちらは後手後手に回らざるを得ない」
第三天とやらから逃げ出した妖獣──ディーガというらしい──の魂は、まず何らかの「器」を手に入れたようだ。ここいら辺は他の魂と同じく、この世界の法則に従がったらしい。すなわち、「器」を持たない魂は、長くこの世に留まる事が出来ない。
アフィエル達“天使”は、たとえディーガが肉体を持ったとしても、追跡には何ら支障はなかったらしい。「器」である肉体の特徴ではなく、ディーガの「妖獣」としての気配で追跡していたというのだから。しかし、そこで問題が起こり、ディーガの気配は完全に人間のモノと融合してしまったようなのだ。天使達に言わせると、人間の気配と言うのは不安定でまとまりがなく、雑多でうっとうしいものなんだそうだ。ヨケーなお世話だっての、大馬鹿野郎!
「つまりは、逃げられた魂を連れ戻す事はおろか、見つけ出すことも出来ないでいるって訳か」
相棒の鋭い突っ込みに、奴は世にも渋い顔でどっか別の方向を向いている。シェラは残ったコーヒーを飲み干して、先を促す。
「それで?」
をい。ここまで聞いたら、いっかな鈍い俺でさえ、こいつの言わんとしている事は想像できるぞ。けど、シェリ・ルーはアフィエル自身に言わせたいようだったし、奴が困るのは俺も大歓迎なので、そのまま沈黙を守っていた。俺もケッコー、人が悪い。
「──私もこれで、地上の事には詳しいつもりだ。もちろん、他の天使達に比べてと言う意味だが。──しかし、永の歳月、地を流れていたお前であれば、我等には眼の届かない小さな場所まで入り込めるだろう。いかがわしい、下等な友人も多いそうだからな」
いちいち、嫌味な野郎だ……。
苦虫がもう百匹程追加されたような表情で、それでも必死に体面を取り繕いながら
「堕天使シェリ・ルーよ。妖獣・ディーガを捕らえて見せよ。見事成功したならば、お前の帰天をサンダルフォン様に取り成してやっても良い」
くぉら、このガキ!(天使の年齢なんて知るかよ!)人にモノを頼む時に使う文法ぢゃねえだろうが、それはよっ!
シェラッ! テメーも黙っとらんで、なんとか言うたれ! ガツンと!
「別に。お前に頭を下げてまで、戻りたい場所ではないな」
うーし、良く言った。ひとり会心の笑みをたたえる俺に反し、相棒の言葉に呆然とした顔になるアフィエル。
「天に帰る気がないと言うのか? 何をたわけた事を言っているのだ。我等『天使』にとって、帰天本能は何よりも優先されるものだぞ。それを……」
「帰天本能」? あんだ、そりゃ? 後から聞いた話によると、動物に「帰巣本能」があるように、天使にも「帰天本能」というものがあるらしい。人間が持っている「睡眠」「食欲」「闘争」などの諸々の「本能」の中で「生存本能」が優先されるように、天使にとって「帰天本能」とは、全てにおいて優先されるべきモノなのだそうだ。
その本能を否定されたんだから、驚いて当然だろう。
「戻ったからといって、何が変わる訳でもなし。所詮、俺は『アズラエル』だからな」
よっぽど、ロクな事なかったんだな。それに、半身を探し出さないといけないわけだし。
「私の申し出を断る、というのだな?」
申し出? はい? 押し付けじゃなくて?
言葉は正しく使いましょうね、アフィエル君。
断られるとは、思っても見なかったのだろう。顔色を失くしているアフィエルは、傍から見ていておかしくなるくらい、動揺していた。
「ああ。お前の申し出は断らせてもらう。だが妖獣の件は話が別だ。これ以上の被害を出さないために、そして何より、奴が罪を重ねないために。お前に言われる以前から、俺達は奴を追いかけている」
シェリ・ルーの言葉に、アフィエルは複雑な顔をする。
「結局は引き受けるのではないか。それならば最初から素直に──」
「勘違いするな、アフィエル。天の意志とは関係ない。これは俺や伊津留、地上に暮らす者のためだ」
「何とでも言うが良いさ。私達、天に属する者にとって、ディーガが捕縛されればそれで良い。奴の魂がサグンの牢に戻れば、それで良いのだ。私はこのまま天に戻り、サンダルフォン様に事の次第を伝えなければならない。後の事はお前に任せる。しっかりと働けよ」
なけなしの威厳をかき集めると、マントのように全身にしっかりと巻き付け、アフィエルは高飛車に吐き捨てた。──が、さっきよりも勢いがないように感じるのは、俺の気のせいではないはずだ。
先ほどのシェラの発言によって、奴の鉄面皮にヒビが入った事は間違いない。ざまぁみろってんだ。この超高層ビル男め。さっさと天でもどこのでも帰れってんだ。
「用件は済んだか? だったら、さっさと帰ってくれ。俺は疲れてんだ」
そっけなく言うと、洗面所へ向かい顔を洗う。嘘でも方便でもなく、マジで俺は疲れてんだ。自分の気持ちだって整理しなくちゃいけないのに、今はアフィエルの倣岸な態度に付き合っている余裕はない。
リビングに戻ると、高飛車天使の姿はすでになかった。ああ、精神衛生上よろしくなかったわい。
シェラが淹れ直してくれたコーヒーを、今度はゆっくりと味わって飲む。一日分にしては十分過ぎる程の出来事が、怒涛の勢いで襲い掛かってきた感じだ。
美緒を送って戻ってきたら、シェリ・ルーと詳しい話をするつもりだったんだけど……。何だか、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
自分の心の奥に凝っていた闇。一人の存在を疎むほどの嫉妬。それを目の前に突きつけられて、俺はどうしていいのかわからなくなっていた。それなのに、あの馬鹿天使は余計な事ほざいて帰りやがって。