悪夢の記憶
どうして自分は「人間」を襲うのか?
この世界へどうやって降り立ったのか?「彼」は記憶を辿り始める。
初めて、獲物を逃した。まだ体調が万全ではないらしい。彼は不機嫌そうに唸り声をあげた。
方法を変えなくてはいけないかも知れない。これまでのように、闇雲に人間を襲う事は難しくなる可能性がある。あの二人のような人間が現れないとも限らない。
彼は猛烈に考えていた。
「狩り」には「知恵」が必要だ。それには「学習」しなくてはなるまい。いままでは力づくで、どうにか出来た。力の弱いもの、年老いたもの、正気を失っていたもの、不意を狙ったもの。でも、それだけでは、駄目かもしれない。現に、今回は逃げられている。
そもそも、自分はなぜ人間を襲うのか? 勿論、食すためである。と、彼の本能が告げる。だが、それ以外に何かあったはずだ。何か、大切な事が……。
彼は闇の中にうずくまって、初めて「自分」について考えている。
どうやって、この雑多な世界へやってきたのか?
「自分」と言う存在は、一体何なのか?
彼は自分の記憶の中を遡ってみた。
まず最初に思い出されるのは、炎と煙が絶え間なく立ち込める平原。荒涼としていて、水もない。生きて動くもののない世界。想像できないくらい広い大地は、深い亀裂に覆われ、巨大な火柱が立ち上る。
鎖に繋がれた手足。視界を遮る牢獄の檻。
自分だけではなく、そこかしこに同じような牢獄があった。
いつが夜明けなのか夜なのか。それ以前に空があるのかすら分からない世界。
遥か彼方、南の方角からは何者かの歌う声が風に乗って聞こえてくるが、時に沈黙して業火の燃え上がる音だけが耳を振るわせる。
無機質な顔をした巨大な者達が、自分と同じように囚われている事だけは見て取れた。
次に思い出すのは、魂の自由。繋がれていた鎖を断ち切り、堅牢であるはずの檻を抜け出し、自由に虚空を駆け回る。
そして追っ手。檻を抜け出した自分を追い、何者かがやってくる。囚われれば、再びあの檻へ連れ戻されるのだ。……いや、今度はもっと酷いことになるかもしれない。
とにかく逃げるのだ。奴らの手の届かない場所へ。
そうして逃げて逃げて──。「彼」はどこかへ辿り着いたのだ。それが「どこ」なのかは分からない。でも、温かくて優しくて。「彼」が今までに経験した事のない安らぎがそこにはあった。
魂の脈動を刻む鼓動。それに合わせて全身を巡る熱い血流。「実体」を持たなかった「彼」にとって、全てが新鮮な出来事だった。
やがて来る苦痛。全身がよじれるような痛み。温かな、安心できる場所から引き離される不安。失いたくない焦燥と、新たな世界に対する期待が入り混じった、何とも形容しがたい気持ち。
次の瞬間、「彼」が感じたのは光。眩しいほどに溢れる光。文字通り、生まれて初めて浴びた光は、「彼」を惜しげもなく照らしていた。
その身に触れる柔らかな毛並み。優しく慈しむ抱擁。「彼」にとって、味わった事のない至福のとき。この一瞬のためなら、魂が束縛される不自由も甘受する価値があると思った。
それから訪れたのは出会い。どういう経緯だったのは忘れてしまった。とにかく、冷たい雨に濡れて、心細くて、寂しかった。
自分を暖めてくれる者なら、誰でも良かった。でも、その出会いは「彼」にとって運命。
濡れぼそった「彼」を静かに抱き上げ、震える身体をそっと拭いてくれたのは……。
誰だっただろう? とても大事な事なのに、思い出せなくてイライラする。ぼんやりと記憶の中に浮かび上がるその人物は、とても優しかった気がする。自分を大切にしてくれた。自分も大切にしたいと思った。──人間なのに? 自分は人を喰う。なのに、どうして大切に感じるのだろう? その矛盾が解消されない。
ただ、思い出せることがある。その「大切な人間」を、「彼」は失ってしまったのだ。その人間は、「彼」を置いて逝ってしまった。この雑多な世界に「彼」を一人で置いたまま。
そうだ! 自分からあの優しかった人間を奪い去った連中に復讐するために、自分は「狩り」を始めたのだ。「彼」の大切な人間を奪い去った連中。助けようともしなかった連中。
だから「彼」は人間への殺戮を心に誓ったのだ。
それさえ分かれば、それでいい。
これで心おきなく殺戮を続けられる。まだ「狩り」は始まったばかりだ。自分の身内に巣食う、この虚無は殺す事によってしか埋められない。いや、埋まらないかもしれない。それでもいいのだ。「彼」から喜びの全てを奪った、「人」という名の種族に復讐するためには、身内に虚無を飼っていたほうが都合がいい。常に飢えていなければ、「狩り」は続けられないのだから。
それが思い出せれば、後は体力を取り戻すだけだ。早く回復すれば、それだけ早く復讐を開始できる。
今は眠ろう。休む事によって、力を取り戻すのだ。
そして、「狩り」を続けよう──。