無自覚の醜さと自覚した醜さ
俺は何を望んでいるのだろう?
何を願ったのだろう?
自覚しなかった自分の弱さと、知ってしまった自分の醜さ……。
「そうそう、よろしくね。俺、伊津留の『彼女』で、シェリ・ルーって言います」
だああぁぁぁぁ──!
頭を抱える俺をよそに、ニコパッと笑ったシェラが答えている。
くおらぁっ! お前ら楽しいか? 俺をからかって、そんなに楽しいか?
俺の全身から立ち昇る殺気に反応したのか、慌ててシェラが手を振った。
「とまあ、冗談は置いといて。お腹空いてない? サンドイッチとコーンスープ出来てるから、一緒に。ね?」
そうだよ。玄関先で漫才やってる場合じゃないだろ?
ようやく部屋に上がり、ソファーに美緒を座らせて電話の子機を持ってくる。
「先に電話しちゃいなよ。俺ン家にいるって、言っていいから」
「うん」
子機を手に取ると、自宅の番号をプッシュする。
ピポ パ──トゥルルル トゥルルル トゥルルル
「あ、もしもし? お母さん? うん、あたし。今、伊津っちゃんの所」
美緒や一人は、学生時代よくうちの実家に遊びに来た。彼女の両親も、俺の事は良く知っている。
「あのね、お母さんが代わってって」
彼女から子機を受け取ると
「もしもし、萌木です。ご無沙汰しております。──ええ。今回は、大変な事に──」
医者から説明された事を、手短に伝える。うちで朝食を摂り、少し休ませてから帰宅させると言うと、よろしくお願いしますと返事があり、電話は切れた。
子機を元の場所に戻すと、シェラが温め直してくれたコーンポタージュの鍋を持ってくる。マグカップに注ぎ分け美緒に渡すと、彼女は両手で包んで、ホウッと息をついた。
俺がサンドイッチに手を伸ばすと、すかさずシェラに手の甲をはたかれた。
「だめ。お客さんが先でしょう」
皿を美緒の方へ押しやる。
えーーーっ。俺も腹減ってるんですけどぉー。ぶーぶー。
「伊津留は、おにぎり食べたでしょ?」
食ったけどぉぉ。でもぉぉ。
「本橋さんは、何も食べてないんだよ」
うっ──。はい、分かりました。
俺達のやり取りを見ていた美緒が、堪らずにクスクス笑い出した。笑うゆとりが出てきたのは有り難い事だが、笑われた俺の立場がない……。
まあ、しかし。気分もほぐれたのか、シェラの作ったサンドイッチを食べ終わると、美緒はソファーの上でうつらうつらし始めた。緊張が解けて、疲れが一気に出たのだろう。
「ほら、ココにクッションあるから。いいから、横になって。少し眠っとけ。後で送って行ってやるから」
起きていようとする彼女を無理やり寝かしつけ、毛布をかけてやる。すぐに規則正しい寝息が聞こえてくる。
「まあ、当たり前だけど、よっぽど気を張ってたんだな」
シェラを手伝って食器類をキッチンへ運ぶ。たまにはやらないとね、手伝い。
「そうだな。そういう伊津留も疲れてんじゃないのか? 徹夜明けでバタバタして」
「ん、まあな」
美緒をリビングで寝かしちまったからな。仕事の続きが出来んのよ。
「今のうちに、お前も少し休んどけよ。それで車に乗ったら、確実に事故るぞ」
うむ。少々、頭がボーっとしている。もう二度と事故りたくないからな。ここは、お言葉に甘えさせていただこう。
「んじゃ、悪い。上で少し眠らせてもらうわ。美緒が起きたら、起こしてくれよ」
自分で思っていたのより、はるかに疲れていたようだ。ロフトに上がり、シェラの布団にもぐり込むと、そのままストンと眠りに落ちてしまった。
──フッと何かの気配で眼を開く。視界が真っ白だ。俺はたった一人で、真っ白な霧の中に立っている。
“夢か?”
ぐるりと周りを眺め回す。何の変化もない。仕方ないな。少し動いてみよう。
特にこれといった方向もない。適当な方へ向って歩き出した。
“おいおいおい。俺ってば、また死に掛けてるんじゃあるめーなー?”
以前「死に掛けた」時と状況が良く似ている。
“勘弁してくれよぉ。あんな体験、一回やりゃあ上等だぜ”
身体にまとわり付く霧を掻き分けながら歩いていくと、不意に人影が出現する。
“美緒か……”
乳白色の闇の中に浮かび上がったのは、微笑んでいる美緒の姿。
“あのね、伊津っちゃん”
世にも幸せそうな笑顔で俺を呼ぶ。両手を広げて俺が一歩を踏み出した瞬間。
“私ね、結婚するの。伊津っちゃんには、一番に知らせたくて”
俺の身体が凍りついた。
一点の邪気もない笑顔。彼女は弾む足取りで、俺の横を通り過ぎる。
“美緒!”
無理やり振り返ると、そこには一人が立っている。そして、その腕を抱いて幸せそうに笑っている美緒。
“伊津っちゃん、私、幸せになるから”
“悪いな、伊津留。俺のほうが先に結婚するらしい。こいつの事、幸せにしたいんだ”
そう。過去に見た光景を、俺は追体験しているんだ。
あの時、俺は二人に「おめでとう」と言った。でも、その言葉の裏に隠されていた思いは?
“嫌だ!”
叫びが口を突いて出た。
“行くな、美緒。ここにいろ。俺の所にいてくれ! 美緒っ!”
振り返った美緒が残酷な言葉を口にする。
“だって、伊津っちゃん、何も言ってくれなかったじゃない”
“伊津留。美緒はお前じゃない、俺を選んだんだ。諦めろよ”
一人の言葉が、俺の理性を引き裂いた。
“嘘だ! 違う! 行くな、美緒!”
言葉が意味を成さない。一人が美緒の肩を抱いて遠ざかっていく。
“離せっ! 俺のだ──美緒は俺のモンだ! その手を離せ!”
届かない。どんなに叫んでも、美緒には届かない。──彼女が選んだのは俺じゃない。ならば、いっそ──いっそ奴がいなくなってしまえば……。
ソウ。奴ガイナクナッテシマエバ。
別の声が俺の思考にかぶさってくる。
何ヲ悩ム必要ガアル?
オ前ノ欲シイ物ヲ、手ヲ伸バシテ取レバイイ。誰モガヤッテイルコトダ。
誰もが……手を伸ばして……。
欲シクハナイノカ? ──欲しいとも。
悔シイダロウ? ──悔しいさ。
ナラバ…… ──ならば……?
その瞬間、鋭い痛みと景気のいい破裂音がして、ポカッと眼が覚めた。
目の前にシェラの顔がある。あ、起こしてくれたのか。ん? でも──。
シェリ・ルーの右手はまるで誰かをひっぱたいたかのように、奴の顔の前に掲げられ、俺の左頬は熱を帯びてジンジン痛みを訴えている。
どうやらコノヤロは、俺の事をひっぱたいて起こしたらしい。
「伊津留?」
そのままの姿勢で、シェラが口を開く。
「何だよ?」
思いっきり不機嫌に返事をする。
「目ぇ、覚めたか?」
「くらぁ! ひっぱたいといて『目ぇ、覚めたか?』はねーだろー、フツー!」
くそっ! ヒリヒリする頬に手を当てて起き上がる。そんな俺を見て、シェラが大きく息をついた。
はしごを降りるためにシェラを促すと、奴が俺の腕をつかんで声をひそめた。
「お前、どんな夢を見てたのか知らないけど、連中の言う事に耳を貸すなよ。いつも俺がフォローしてやれるとは限らないんだ」
その言葉にギクリとする。
「ち、ちょっと待てよ。その『連中』ってのは何なんだよ? 訳わかんねーぞ」
シェラは俺が夢見たのを知っている。俺は何を思った? 何を願った? その『夢』の中で?
「そう。その『連中』だよ。奴等は、人の心の隙間に入り込む。そうやって、人間の『負の感情』を喰ってデカくなるんだ。お前の夢の中に入り込んでいたのは、あの“妖獣”の一部だ」
げろっ! 何と!?
「彼女を送っていったら、詳しく話してやる。とにかく、自分の心に隙を作るな。伊津留、お前は自分が思っているよりも、精神的に強いんだ。よっぽど心が乱れていない限り、奴等はお前に手が出せない。いいな?」
こくこくこく──。らじゃーです。ただ、首を縦に振るばかりである。
かなりスッキリした顔で起きていた美緒を、安全運転で実家へ送り届ける。せめてお茶でも、という美緒のお母様のお誘いを丁重にお断り申し上げ、俺は自宅へと急ぐ。
シェラに聞きたい事が沢山あった。伝えておきたい事が沢山あった。
俺の「負の感情」──それは一人に対する「嫉妬」以外の何者でもない。
どこか俺の目の届かない場所で、ヤツが嘲笑っている気がする。所詮、お前も人間なんだと。どんなに気取って見せても、結局は自分が一番可愛いんだと。
駐車場に車を入れると、身体を引きずるようにして部屋へ向う。
「たぁだいまぁ──」
今日一日は始まったばかりだと言うのに、すでに疲れ切っている俺は、一体何者?
ポテポテとリビングへ入る。シェラの返事はない。普段なら少しは変だと思うのだが、今の俺に、通常の思考は望むべくもない。
「おーい。帰った──ぞ……」
「お早いお帰りだな。邪魔しているぞ」
俺は言葉を失った。