恋慕と嫉妬の狭間
忘れていたはずの心の痛み。
どうして、お前の隣にいるのは俺じゃないんだ!?
トゥッ……トゥルルルッ トゥルルルッ……
静かな空間を電話の呼び出し音が鋭く切り裂く。夜間モードなので音は控えめだが、俺の考え事を中断させ、驚かせるには十分だ。
誰だ? こんな非常識な時間に電話なんぞしてくる無礼な奴は? ハッ、ま、まさか、担当様ではあるまいか?
「──はい、萌木です」
「──」
をい! こんな時間にイタズラ電話ぢゃねーだーろーなー?
「もしもし?」
「──伊津っちゃん?」
棘を含んだ俺に言葉に、受話器の向こうから、消えてしまいそうな返事があった。この声は……この呼び方は……。
「もしもし? 美緒? ネコちゃんか?」
頭の中に女友達の顔が浮かんだ。
「どうしよぉ、伊津っちゃん。助けてよぉ。もう、分かんないよおぉ」
本橋美緒。俺の中学校時代の片思いの相手である。
「どうしたんだよ? 落ち着いて話してみろ。今、どこにいるんだ?」
電話の向こうで、彼女の細い鳴き声が聞こえる。
「今、今ね。××総合病院にいるの。どうしよう。一人が、一人が死んじゃうぅ」
上で、シェラの起きた気配がする。
「病院? ひとりが? 泣いてちゃ分かんないだろ? とにかく、そこにいろ。今から行くから。××総合病院だな?」
シェラが不安そうに見つめる中、彼女がうなずいているのが伝わる。電話を切ると、シェラを振り返る。
「悪い。病院行ってくる。事と次第によっちゃ、彼女連れてくるから。何か軽いモン作っといてくれるか?」
「大丈夫か? お前、徹夜明けだろ? ついて行こうか?」
「ん、大丈夫だ」
すっかり冷たくなってしまったジャケットに腕を通すと、財布と煙草を突っ込んで車のキーを取り上げる。
普段、移動にはバイクを使っていたのだが、例の事故でおシャカにしてからは、車を使っている。どっちにしたって、美緒を乗せてくるんだったら、バイクじゃ無理だし。
「じゃ、行ってくるから」
慌しくドアを閉めると、駐車場へ向う。
倉田一人。通称ひとりは美緒の婚約者で、来年の春には挙式予定だ。そして、その事を考えるといまだに胸が痛む。忘れられない自分がいる。
まだまだ空いている道路に、ヘッドライトの反射が白々として、俺の気持ちを逸らせる。ステアリングをきる手が震える。煙草に火を点けて、深く吸い込む。
落ち着け、落ち着け。俺が事故ったら意味がない。落ち着いて──くそっ!
××総合病院は、事故った俺が目覚めた場所だ。エンジンを切るのももどかしく、病院内へ駆け込む。待合室の椅子に腰掛けていた女性が、俺の足音にパッと顔を上げた。美緒だ。
「来てくれたんだ、伊津っちゃん」
真っ赤に目を腫らした美緒がしがみついてくる。明るくて、クルクルと表情の変わるその顔は、今はやつれて血の気が無い。
「ひとりは?」
震える肩を抱きしめながら、美緒に尋ねる。
「今、手術中なの。伊津っちゃん、一人が死んじゃったら私、どうしよぉ」
不安気な瞳が見上げてくる。俺は自分の胸に美緒の顔を押し付けると、そっと髪を撫でた。棘が刺さったままの胸に。
お前は俺の胸の中で、奴の心配をする、俺の胸で泣きながら、他の男の名前を呼ぶんだ。俺の心のどこかに、昏い炎が灯ったような気がした。「嫉妬」という名の炎が。
言葉にならなかった想い。告げられずに終わった恋。「好きだ」と言えずに、彼女の前から去ったのは俺。逃げ出したのは俺の方だ。俺に二人の事をとやかく言う権利は無い。
諦められた、と──忘れられたと思っていたのだ。今までは。
だが、現実は? こんなにも、彼女が愛しい。こんな状況でなければ、俺は躊躇わずに美緒をかっさらっていただろう。
なぜ奴なんだ? 筋違いだとは思う。逃げ出したのは、自分なのに。だけど止まらない。止められない。なぜ? なぜ、俺ではなく、お前の隣にいるのは奴なんだ!?
「伊津っちゃ──ん?」
黙り込んでしまった俺を美緒が覗き込んでいる。
「あ、ああ。何でもない」
彼女の肩に手をかけながら、手術室へと向う。今は美緒に顔を見られたくない。恐らく俺は、とても醜い顔をしている。最高に浅ましい顔をしているはずだ。そんな顔を、彼女にだけは見られたくない。
「一体、何だってひとりが?
「先生の話では、大型の動物に襲われたんだろうって。私もまだ、一人に会ってないの」
夜中に連絡をもらって駆け付けた時には、もうすでに手術は始まっていたのだと言う。
倉田家の家族は来ていない。彼の両親は、一人が高校生の時に、事故で亡くなっている。親戚は、北海道に伯父夫婦がいるだけだと聞いたことがある。
自分だけで、手術が終わるのを待っていた美緒は、消える気配のない「手術中」のランプに耐え切れず、俺の所に電話を入れてきたのだ。
何を話すでもなく、病院に着いてから一時間が経過した。
“大型の動物”による怪我──。思い当たるのは、あの“妖獣”しかいない。だとしたら、もう動ける程に回復したというのか? 信じられない回復力だ。そんな奴を滅ぼす事は可能なのか?
不幸にも一人は、その復帰第一号の犠牲者になってしまった訳だ。
うつむいて考え込んでいた俺は、横に座っていた美緒の緊張した気配に、顔を上げた。「手術中」のランプが消えている。
やがて扉が開くと、ストレッチャーに乗せられた一人が運び出される。
「あ──、かず……ひと──」
追いかけて行こうとする美緒を押し止めると、出てきた医者に礼を言い、手早く事情を説明して容体を尋ねる。
「発見が早かったのが幸いしたようです。大型肉食獣の爪と牙のように鋭利な刃物で背中を数ヶ所、抉られていますし、脇腹には内臓にまで達する傷もありましたが、生命は取り留めました」
今まで“妖獣”に襲われて助かった者は、皆無である。まだ、本調子ではないのか? だとしたら、本当に運が良かったな、一人。いや、こんな目に遭ってしまって、運が悪かったと言うべきか……。
今後の治療とリハビリについて簡単に説明を受け、何かあった時のために名刺を渡す。再度、礼を述べると、所在無げに立っている美緒の腕を引っ張って歩き出す。
「ち、ちょっと、伊津っちゃん? 私、一人の所に行かなくちゃ──」
ゴチャゴチャ言っている美緒に、
「もう、俺達がする事はねえぞ。病室はちゃんと聞いたし、面会謝絶だ。ついでに言うなら、ここは完全介護だしな」
美緒が恨めしそうな顔をして俺を見る。
「駄目だ。お前も休まなくちゃ、倒れちまうよ。ひとりの意識が戻った時に、お前が倒れたなんてバレたら、あいつ、這ってでも俺の事殴りに来るぞ」
心の裡を隠しながら、もっともらしい事を言ってのける、お前が一人の側にいるのが、嫌なんだよ!
「俺んトコの同居人が、メシ作って待ってるからさ。何かあったらうちに連絡が来るように、先生にも話しつけたし。ネコの家にも連絡しとかねえと、心配してんぞ」
俺の言葉に微笑みながら、美緒が答える。
「変わってないね、伊津っちゃん、中学の時から、女の子には優しかったんだよね」
バカ。女の子に優しかったんじゃねえ。俺は、美緒、お前にだけ優しくしたかったんだ。
美緒の手を握ったまま、愛車へ向う。
時計を見ると、そろそろ八時になろうかというところだ。
「んぁ、行こうか」
車の増え始めた道を走り出す。
「ありがとね、伊津っちゃん。誰かに助けてもらいたいと思った時、伊津っちゃんしか思い浮かばなかったの」
信号待ちの間に美緒が呟く。
「伊津っちゃんには迷惑だったかも知れないけど、私、伊津っちゃんがいてくれて、すごく助かったから」
うつむいている彼女の頭をポンと叩くと、アクセルを踏み込んでいく。
「覚えててくれて、嬉しいよ」
アパートの裏の駐車場に車を停めると、美緒を部屋へ案内する。
「あ、そうだ。今のうちに言っとくけど、うちの同居人、壮絶に顔が良いんだわ。あんまし、まともに見ないほうがいいぞ」
とりあえず、警告だけはしておく。
「え? もしかして、伊津っちゃんの彼女? だったら悪いなぁ」
ちっがぁ──うっっ! 断じて、そんなんじゃないっっ──と思いたい(こら!)。
まあ、他の事に気が回るようになっただけ、良しとしておかうか。
「……ただいま」
ドアを開けて、美緒を促す。
「あ、お帰りぃ」
奥からシェラが返事をする。
「ん。彼女が、本橋美緒。俺の中学時代の同級生。んで、コッチが──おい?」
顔を出したシェラにペコリとお辞儀をして、顔を上げた美緒の動きが停止した。
「もしもし?──美緒?」
最悪の状況を想像しながら、呼びかける。ギギギと音がしそうな動作で、美緒がゆっくりと振り返った。
「──伊津っちゃんって、ゲイだったんだ……?」
だぁぁかぁぁらぁぁ!! 違うって言ってんだろぉぉぉっ!!