現出した悪夢
俺達の目の前にも、とうとう形になった悪夢が。
俺ってば、結構ピ~ンチ!
相棒の制止の声が届く前に、俺は路地へ入り込んでいた。ライターを拾い上げ、
「シェラ、テメー、俺を馬鹿って言ったな」
振り向こうとした俺に足に、何かが当たった。
「──?」
何気なく視線を向けて、俺はエラく後悔する羽目になる。俺に足に当たっているのは、靴を履いたままの、男物の右足。
自分の足は左右とも、ここに揃っている。シェリ・ルーので足でもなかろうなぁ。奴の足なら、もっとキレイなはずだ。……見た事ぁないが。
じゃ、一体、誰の足なんだ? それに何だってこんなトコに、片一方だけ落っこちてんだよ? 左足だけじゃ不便だろうに。
そこまで考えたとき、俺の思考回路は本人の意志を無視してその機能を停止した。脳は目から入ってきた情報をそのまま受け取る。思考回路を介さず、原始的な脳が認識する。
人間の足は取り外し不可なはずである。ましてや、こんな場所に片足だけ……。よく見れば(見なくていいっっ!)付け根の部分から引き千切られたように、肉と皮膚が大きく爆ぜている。飛び散った血痕が黒々しい。
「──うっ!!」
ようやく思考が正常に作動し始めたのだろう。胃から急激な勢いで逆流してきた温かいモノが、喉元までせり上がって来る。くるりと背を向け、体を丸めて激しく嘔吐する。
「大丈夫か、伊津留!」
駆け寄ってきたシェラが、俺の背中をさすってくれる。周囲に吐瀉物の異臭が漂った。
「げぇっ──げほっげほっ、ごほっ」
胃の内容物は、あらかた出てしまった。口の周りについた汚れを、ハンカチを引っ張り出して拭う。
「げほっ、うん。大丈夫だ」
くそっ。涙目になってやがる。空気を求めて喘ぐ肺に、深呼吸して酸素を送ってやる。空気中に溶けていた甘い血臭が、呼気に伴い肺の中に入り込む。それに反応しそうになる胃をなだめながら、シェラに頼む。
「悪い、シェラ。その足を何とかしてくれ」
「ああ、分かった」
シェラは着ていたジャケットを脱ぐと、落ちているその足にかけて視界から隠す。胃をさすり、シェラの手にすがりつくようにして 立ち上がる。こいつの言ってた『変な』ってのはコレの事だったんか? しかし、他の部分はどうしたんだ? まさか、帰ったわけじゃあるまい。危険な好奇心が頭をもたげる。
俺の顔を覗き込んでいたシェラが、ハッとして体を硬くした。
「伊津留──動けるか?」
見上げたシェラの色の薄い瞳が、炯炯と光を放っている。ライト・ブラウンの長い髪が、風もないのにザワリと揺れた。
「無理だ──っても、意味ねぇんだろ?」
シェリ・ルーの身体から発せられる、圧倒的な迫力。普段のお茶らけた姿からは、想像もできない威圧感、存在感。
路地の奥、街灯の明かりの届かぬ先から、低い唸り声が聞こえてくる。まるで、食事時を邪魔された猫のような──。しかも、その猫ときたら大きさが、トラかライオンぐらいありそうな。この声からすると。
「おい。これって──。もしかして、コレが例のかよ?」
笑いそうになる膝に力を入れて、とにかく一人で立ってみる。いざという時に、シェラにしがみついたままじゃみっともないし、足手まといになっちまう。そんな情けない羽目に陥るのだけは、絶対に避けたい。
「ああ。そうらしいな」
金色に光る視線を唸り声の方へ向けながら、短くシェラが答える。
闇が──。街灯に照らされている光の輪の外、俺達を取り巻く闇が凝った。
「あ、あいつかよ……?」
低く太く唸り声を発しながら、ドロ色の毛皮を波打たせて、巨大な獣が姿を現す。
視線の高さが、そう大して変わらない。この世の一体どこを探せば、こんなデカイ動物がいるってんだよぉ!?
大きく裂けた口から、並んだ牙が覗く。
「ちくしょー! テメーかよ、今まで人間を襲ってやがったんは!」
俺の声に反応してか、「そいつ」と目が合う。
うっ、ヤダなぁ……。
瞬間、「そいつ」が笑った気がした。しかも、「ニタァ」という嫌ぁな嗤いだ。慌てて視線を逸らそうとする。──逸らそうとする。──そらそうと……。
でーっ! 何でだよぉぉぉ!?
見えない手で頭を挟みつけられているかのように、視線を逸らす事が出来ない。いや、頭だけじゃねぇ。全身がまるで金縛りにでもあったみたいに、ピクリとも動かない。
「そいつ」の嗤いが、さらに広がった。唾液の溢れた口の中で、真っ赤な舌が踊る。まるでそれ自体に生命があるかのように。くそー! こんちくしょー! 動け動けよ動けぇぇ! 馬っ鹿野郎ぉぉ!
自分の身体で唯一本人の希望通りになるのが、心の中で叫び、罵倒する事。なんて、なんて、救われねーじゃねーかよぉぉっ!
そんな俺を面白そうに見ながら、「そいつ」が近寄ってくる。獣独特の歩調で、ノソリノソリと、しかし確実に。
ああああ……。視界一杯に、黄色く濁った瞳が広がる。
──食イタイ
──喰ライ尽クシテヤル
強烈な飢え。全てを喰らい尽くしても尚、やむ事のない飢餓感。
──憎イ憎イ憎イ憎イ……
──ナゼ私ガ? 私ダケ、不公平ダワ
──ドウシテ俺ナンダ? アイツノ方ガ、アイツノ方ガ……
──オオ、呪ワシイゾォォ
──死ンデシマエ、死ネ死ネ死ネ……
──殺シテヤル、アンナ奴
──死ニタクナイ
無限とも思える、感情の激流。押し流されてしまいそうな「憎悪」、触れれば切れてしまいそうな「殺意」「呪詛」「絶望」……。ありとあらゆる「負」の感情。
ぱぁんっ!
景気のいい音が響き、頬がジンジンと痛み出す。
「伊津留っ! 気がついたかよっ!?」
殴られた頬に手を当てて、コクコクと首を振る。しかし、イタヒ……。
悔しそうに眼を細める「そいつ」との距離は、いつの間にか半分を切っている。
「馬鹿が。あいつの技にはまって、お前、自分から食われに行くトコだったんだよ!」
シェラが激昂しながら怒鳴りつけてくる。
「俺の後ろにいろ。危なっかしくてたまんねぇ」
手荒くシェラの背後に押しやられる。思っていたほど、時間は経過していないらしい。ほんの数秒の間の出来事。獲物自らが食われに来るのを待っていた獣は、街灯の明かりに全身をさらす。光は「そいつ」にとっては「得意ではない」程度の事らしい。今まで動かなかったのは、ただ単に面倒だっただけのようだ。
目をつけていた餌(えっ? 俺かっ?)を横取りされて、そうとう頭にきているのだろう。不機嫌そうな唸り声が徐々に高くなっていく。それに合わせて、太い尻尾がクネクネと気味の悪いダンスを踊る。全身を覆う泥色の毛皮の中、尾だけがヌメッと光っている。先端が持ち上がり、パクリと口を開ける。
尾? お? おおおぉっ? ありゃあ、尻尾なんかじゃねぇぞ!
パックリと開いた口からは、赤い舌がのぞいている。まるで地獄の淵から漏れる炎のようだ。それは俺の腕ほどもあろうかという、 巨大な大蛇。
なぜだぁぁ! この世の生物学的進化論ってモンを、完全に無視してんぞ、テメー!
裂けた口をひときわ大きく開けて、蛇が鋭く威嚇音を発する。その瞬間、あらかじめ決められていた合図のように、「そいつ」が飛び掛ってきた。
すくんでしまった俺の胸倉を掴んで、力任せに前方へ投げ飛ばしたシェラが、相手から目を離さずに怒鳴った。
「伊津留。先に行って、路地から抜け出せるかどうか、試してみろ!」
その声に尻を蹴飛ばされるように、俺は路地の奥へと駆け込む。ここを曲がれば──。道を通り向けようとした瞬間、すごい勢いで何かに弾き飛ばされる。
「ってー。んでだよぉ! 何で出られねぇんだよ、この野郎!」
ばんっ! と両手を何もない空間へ叩きつける。見えない壁となった空間は、断固として俺を拒んでいる。
「おい、シェラ! どうなってん──」
わめきながら振り返った俺の目に飛び込んできたのは、朱に染まった肩を押さえ、しゃがみこんだシェラの姿。
奴は、シェラと俺の間にいる。逃げられないのを知っているのか、弱っている方を先に片付けてしまおうと決めたらしい。
あの蛇が厄介だ。でも、何とかせんと……。何とかなるのか?
キョロキョロと周囲を見回し、転がっているビール瓶を発見した。それを拾い上げると、いきなり相手にブン投げる。と同時にダッシュ。
結構な勢いで飛ぶビール瓶を、空中で器用に蛇がよけている。その間に俺は自己最高記録を更新すべく、全力で奴の脇を走り抜け、相棒の許へ辿り着いた。