第6話
新入社員飲み会の店は、日比谷だった。営業所の最寄り駅は常磐線だが、千代田線が乗り入れているので、日比谷までは一本で着く。私と村林は並んで座席に座った。
「ごめん、ちょっと疲れたから、着くまで寝ててもいい?」
私が頼るような言い方をするのが珍しかったのか、村林は「いいよ、着いたら起こしてあげるよ」とやけに優しい口調で応じた。お言葉に甘えさせてもらう、という顔をしてから私は目を閉じた。
だけど、もちろん、眠れるわけなんてない。
瞼の裏の暗い世界で、私の目は醒めきっていた。神経を集中させて、何も考えないことを努力しようとする。昂った精神を落ち着かせて、平常心を取り戻す必要がある。日比谷に着く頃にはいつもどおりの顔でいたい。今夜の飲み会が終わって、週が明ければ配属先が決まる。ここさえ乗り切れば楽になれる。適当に飲んで、適当に会話して、適当にやり過ごす。
しかし目の奥の暗闇は、あっという間に体内を流れ落ちていく。押しとどめようと伸ばした手の先からするりと喉の奥へこぼれ落ちた。止める間もなく、深い部分の暗い穴と繋がって広がる。穴がまた大きくなったのが、自分でも見える。
言葉が暴れ出した。
村林の声、マクドナルドの店員の声、4軒目のお爺さんの声……。今日一日のあらゆる言葉が、いっせいに騒ぎ始める。聞きたくない。どうでもいいことばかりなのだから。私がひとり生きていくうえで、本質的に何も関係ない。
「「好きな人いないの?」」
遠い昔の、姉の声。鍵をかけて仕舞っていたはずなのに、今日思い出してしまったから、隣でささやかれているみたいにクリアに響いた。姉の笑い声。何故、そんなに楽しそうなんだろう。
「「好きな人いないの?」」
いない。好きな人なんているわけがない。
だってお姉ちゃん、お姉ちゃんはどこかに行ってしまった。
私が一番好きだった人は……。
穴が広がる。声に捕らわれそうになる。私はそれらを無理やり締め出そうとした。平常心、平常心、と呪文のように頭の中で繰り返す。こんなのには慣れているはずだ。強い力でスイッチを切っていく。大丈夫、すぐに元に戻せる。最後の声を消す。一瞬の空白が訪れる。
沈黙とともに甦ったのは、少女の強い目線だった。
思わず、瞼を開いた。
蛍光灯の明るさに目がくらんだ。18時台の千代田線は、会社帰りの人びとで混雑し始めていた。あっという間に新御茶ノ水を過ぎていた。隣の村林は、あろうことか小さくいびきをかきながら眠っていた。
私は膝の上で、手を広げてみる。指先ではヌーディピンクのネイルが控えめに光っている。黙って握り締めた。
少女と自分は同じだと、思った。でも思い上がっていた。はっきりと拒絶された。あの町のことなら、なんでもわかっていると思った。だけど実際は7年のうちに、私はすっかり失っていた。私はいつの間にか私が警戒していた種の大人になっていた。少女の瞳はそう語っていた。外部から来た、小綺麗で、信用のおけない大人に。
変わっていなかった町。変わったのは私のほうだった。
捨てられたのだ、と思っていた。私は姉に捨てられたのだと。
――でも、本当に?
≪次は、日比谷、日比谷です≫
電車がゆるやかに速度を落とし、かぶさるようにアナウンスが響いた。身体をぶるりと震わせて、村林が起きた。もそもそと、億劫そうに動く。
≪乗り換えのご案内です。日比谷線、有楽町線、都営三田線は、お乗り換えください≫
私の人生は、いったいいつから変わってしまったんだろう。うらびれた町で育ち、そこで生きていくはずだった少女は。
いつの間にか、違う人生に乗り替えていた。でも私は運賃を払っていない。対価を払っていない。私は何もしていない。見合うものなんて持っていなかった。ただ姉に与えられ、次は兄に与えられ、気づかぬうちに享受して、何食わぬ顔で別の世界に生きている。キセルしていたのは私だ。
「「たまには遊びに帰ってきてよ。実家だと思ってさ。……待ってるから」」
兄のその言葉を思い出したのは、たぶんずっと願っていたからだ。期待しすぎてはいけないと念じながらも、どこかで信じたかった。無性に兄に会いたかった。この混沌を地球上の誰とも共有できなくとも、兄にだけは知ってほしい気がした。
地下鉄からホームに吐き出される。人の波が移動する。私は決意した。
「ごめん、村林君。みんなには遅れるって伝えて」
そう言い残すと、向かっていた出口とは別方向に走り始めた。
「え、ちょっと、三崎さん!?」
後ろから村林の叫び声が聞こえる。振り返らなかった。都営三田線のホームを目指す。千代田線から乗り換える。私は走った。
息を切らしながら、坂の上の家に辿りついた。最寄りのバス停を降りてからほとんど小走りになってしまった。タオルハンカチで首筋の汗をぬぐう。今日一日でこのシャツはどれだけの塩分を吸収したことだろう。
2か月ぶりの帰宅だったが、危惧していたような違和感はなかった。角を曲がったところに、白い家はふわりと建っていた。自然な動作で玄関ポーチの扉を開けた。頭より身体が先に憶えている。ポーチライトの灯りに包まれる。むしろ、スーパーに夕食の買い物に出かけ、戻ってきたくらいの感覚だった。
ただし問題は、自分は今鍵を持っていないということだ。3月に家を出るときに置いてきてしまった。
地下鉄からバスに乗り換えるときと、バスを降りた後に1回ずつ、兄の携帯に電話した。両方とも留守電だった。メールもしようと思ったけど、なんて打っていいのかわからなくてやめた。「これから家に行っていい?」と訊くのも変な気がしたし、かといって「これから家に帰ります」というのも違う気がする。結局2度目の留守電に、これを聞いたら折り返しくださいとだけ残しておいたけど、コールバックはかかってきていない。
外から見る限り、家に電気はついていなかった。念のためインターホンを鳴らす。やっぱり反応がない。兄はまだ帰っていないようだ。
急に脱力した。ずっと急いていた気持ちが、にわかに収束していく。
金曜日の夜なのだから、飲み会にでも行っているだろう。まだ20時前なので、仕事すら終わっていないかもしれない。もしかしたら、朝まで帰って来ないなんて事態も充分考えられた。
風船がしぼむようにポーチに座りこんだ。鞄を脇に置き、膝を抱える。深くため息をついた。
鍵がなくて家に入れないなんて、子どもみたいだ。
携帯電話には何人かの同期からメールが届いていた。「大丈夫!? 無理しないでね」とか「こっちのことは気にしないで」といった内容が、絵文字とともに夜に浮かび上がる。村林が体調不良とでも伝えたのかもしれない。彼女たちには、いきなり飲み会をすっぽかす理由なんて他に見当たらないだろう。そう思ってもらったほうが助かる。最後の最後にやってしまったな。私は苦笑して、携帯の画面を閉じた。
そのうち、スーツで体操座りしている自分が滑稽で、少し笑えてきた。5月でよかったなと思った。冬だったら悲惨すぎる。
近所の家から、うっすらと談笑する声が聞こえてきた。一緒に美味しそうな匂いも漂ってきて、私は顔を腕と脚のあいだにうずめた。そういえば昼にお茶して以来、何も飲み食いしていないのだ。お腹の奥が匂いに反応したけど、今更どこか近所で食事を済ませる気にもならなくて、私は身体を丸めてただただ無力に座り続けた。




