第5話
お腹が痛いとか急用を思い出したとか、適当な嘘をついて村林だけを行かせることも考えた。だけど結局、心ここにあらずのまま、3分後にはアパートの外に着いていた。木造2階建てで、すでに築40年近いだろうか。住んでいた頃からボロボロだったが、7年ぶりに対面した家は、いっそう小さく、傷んでいるように見えた。思わずため息が出た。
「東京にもあるんだねぇ、こういうアパート」
感心したように村林が言う。確かに今では映画やマンガにしか出てこないような建物だった。人がまだ住んでいること自体が奇跡的ですらあった。
ギシギシときしんだ音を立てながら、外階段を上る。手すりのクリーム色の塗装がほとんど剥げ、表面に錆びがざらついている。手を触れたら張り付いて離れなくなりそうだった。私は肩にかけた鞄を両手で握ってバランスをとった。
201号室は一番奥の部屋だった。
一覧表に記載されていたのはまったく知らない男性の名前だった。私が引っ越して以降、新たに移り住んだ人がいたのだ。兄と姉の結婚が決まったとき、母の形見などわずかな荷物だけ新居に移して、残りは業者に処分してもらった。私の個人的な荷物もほとんどなかったから、引っ越しは楽だった。よく晴れた3月最後の日に、兄に連れられてこのアパートを発ったのだ。昨日のことのように鮮明な気もしたし、うすらぼやけた遠い思い出のようでもあった。
重たい気持ちを引きずりながら、外廊下を歩いた。心はこんなに嫌がっているのに、足は不自然なほど規則的に動いた。辿りついた201号室のドアは無言でそびえていた。ボタン部分の真ん中が色落ちしているブザーを村林が押す。
「あれ? 反応しないな」
村林が再度挑戦しようとしたところに、私は反射的に横から手を伸ばした。
「押し方にコツがあるの」
右半分を長押しするのが、壊れかけのブザーを鳴らすコツだった。押して遊んでいた頃と変わらないビビーと無遠慮な低音が、夕暮れのアパートに響き渡った。
しばらく、何も起こらなかった。急激に安堵の気持ちが広がった。留守というのはもっとも望ましい結末だった。私はほっと息をついた。だが、念のためもう一度だけ鳴らそうとブザーに手を伸ばしたとき、ドアの内側から物音がした。
ダメだと思うより先に、ブザーを押してしまっていた。再び気に障る音が響く。室内から、外をうかがうような気配を感じた。それからためらいがちに、玄関の鍵が開けられる音。
まるで全力疾走したあとのように、鼓動が速くなり、目がちかちかした。直立不動の姿勢で、だけどなんとか立っていた。吐き気すらした。ドアノブが回る。
不意に、このドアの向こう側にいるのは姉ではないかという考えが、私の脳内を支配した。失踪したあと帰って来た姉が、ずっとここに住んでいるのでは? 世帯主となっている男性は、結婚相手かもしれない。もしかしたらあの不倫相手と無事に結婚して、子どもも産んで、姉はここで暮らしていたんじゃないか。子どもはもう小学校にあがっている年頃だろう。その下に別の子どもさえいるかもしれない。私が兄と暮らしているあいだ、新しい家族とともに、まったく違う人生を送ってきたのだ。どこか遠くへ逃げるより、この町なら姉を一番上手に匿ってくれるだろう。それはひどく自然な考えのように思えた。私が戻らなかっただけで、この古びたアパートで、変わらない生活を続けていたら……。
姉に会ってしまったら、私は何を言えばいいんだろう。「ひさしぶり」? そんな軽い挨拶はふさわしくない。「ごめんなさい」と謝るべきかもしれない。でも顔を見た瞬間謝るというのも不自然な気もする。それに姉のことだから、私に謝らせようとせず、自分が平謝りするだろう。それともストレートに「会いたかった」と言うのが正しいだろうか。
だがもっとも恐ろしいのは、姉は私に会いたくなかった場合だった。おおいに考えられた。そうしたら、今更何を言うことがあるというだろう。そうだ、私は兄に「自分のなかで姉は死んだ」と宣言したのだ。そんなのは妹じゃない。会う資格なんてない。
ドアが開き、人影が現れた。
そこにいたのは、姉だった。
しかしまばたきをすると、姉はもうおらず、知らない女性が立っていた。髪をひっつめにし、化粧気がなく、真ピンクのTシャツを着ていた。30代中盤くらいか、もっと上にも見えた。姉とは似ても似つかなかった。
「いきなりお邪魔してすみません。僕たちは電力会社の者です。このたび、支払いを滞納されているようでしたので……」
村林の声がぼんやりと聞こえた。私は直立不動のまま、身体の中で目だけが生きているように、部屋の中をぐるぐると見回した。狭い台所の一口コンロには鍋がかかっていた。隅にはスーパーのビニール袋が積み上げられている。年季の入った換気扇。ひと続きになっている居間には、私が使っていたのと似たちゃぶ台が置かれている。窓には、これまた真ピンクのカーテンがかかっていて、ひらひらと揺れていた。
「妈妈?」
別の人物の存在に気づいたのはそのときだった。居間と奥の部屋を仕切るふすまから、少女が顔をのぞかせていた。
目の前の女性が何か早口で言い返して、ようやく私たちは、ふたりが中国人であることに気づいた。女性がジェスチャーしながら、片言で訴える。
「おカネ、今ないカラ……」
村林がまいったなーと頭を掻きながら、しぶとく食い下がっていた。その間、私は加勢もせず、じっと少女を見ていた。ふすまの奥にランドセルの赤が見える。ということは小学生なのだろう。真っ直ぐな黒髪をひとつに結んで、村林と母親のやり取りを訝しげに見つめている。
少女の表情を、私は知っていた。外の世界から身を守ろうと、警戒し、気を張りめぐらせる顔。信用できるのはごく狭い範囲だけ。よそから来た綺麗な身なりの大人ほど、用心すべきものはない――そう、あれは私だ。
少女と目が合った。鏡越しに自分と目が合ったような錯覚に陥って、私は一瞬うろたえた。思いきって微笑みかけようとする。だが、少女は私を同じ目でじっと見つめたあと、ふっと目をそらした。そして、表情を変えずにふすまをしめた。
「じゃあ、また改めて来ますから、そのときはお支払をお願いしますね!」
村林がぺこぺこしながら後ずさりし、玄関のドアが閉められた。
「ちくしょー、なんで日本人名義のとこに中国人が住んでるんだよ~」
駅へと戻る道すがら、村林は大袈裟に怒ってふざけてみせたけど、私は気の利いた言葉ひとつ返すことすらできず、彼の後ろに着いていくので精一杯だった。町は相変わらず閑散としていて、もはや顔を隠す努力すらしなかった。紙みたいな精神力で、私はなんとか歩いていた。夕暮れが押し迫ってくる。一刻も早く駅に辿りつきたかった。
「あのブザー、なんでコツ知ってたの?」
村林が思い出したように訊く。夕陽が顔に深い影を落とすのを感じた。もう何と思われても構わない気がして、そのままを言った。
「昔、住んでたから」
村林はきょとんとした。そして、2秒後に爆笑した。
「三崎さんの笑いのセンス、ハンパねー!」
ツボに入ったのか、村林は駅の階段を上がりながら笑い続けた。私は力なく笑顔を浮かべることしかできなかった。冗談だったらよかった。
改札を通るとき、不正乗車を見た。
ちょうど右隣の改札を出ようとしているサラリーマンとすれ違ったとき、サラリーマンの後方から人影が現れたかと思うと、さっと背後にくっついて、一緒に改札を抜けていった。サラリーマンは何も気づいてなさそうだった。
「ちょちょ、今の見た!?」
左隣の改札を同時に通過した村林が興奮しながら言った。言われるまでもなく理解していた。サラリーマンを利用して、不正に改札を通過したのだ。目にもとまらぬ早業だったから、常習犯なのかもしれない。
「すげー、キセルだ。駅の人に言ったほうがいいかな」
私は首を振った。キセルは中間区間の運賃未払いのことであって、今のような状況を指す言葉ではない、という意味を込めたつもりだったけど、村林は「放っておけ」という意味だと受け取ったらしく、「ま、もう行っちゃったし捕まんないか」とひとりごちた。もっとも、私も申告するつもりなどなかった。
すべてが私の身体をすり抜けていくようだった。茫然としたまま、死人のようにホームまで歩いた。
「営業所で報告書書いたら、解放だ~」
村林が伸びをした。ホームに電車が滑り込む。これでようやく帰れると思った瞬間、顔が歪んだ。
いったいどこに、私の帰る場所があるというんだろう。