第4話
5月の日暮れは遅い。私たちが最後の1軒へと向かう電車に乗った頃、西日はおっくうそうに、ようやく角度を変え始めていた。
最後の目的地は、あろうことか、私と姉が暮らしていたまさにその町だった。一覧表をなぞる村林に町の名を聞かされたとき、思わず叫びだしそうになるのをこらえた。いや、もしかしたら、そんな予感はしていたのだ。今日は嫌な予感がよく当たるから。それでも、吊革を握る力が自然と強くなる。
まだ帰宅ラッシュには少し早い時間帯。優先席付近にたむろしている高校生の集団が少しうるさいぐらいで、夕方特有の退屈な空気が車内を支配する。村林が欠伸を噛み殺した。
「ようやくラストかあ。しかしマイナーな駅だよね。俺、こんな駅があること自体はじめて知ったよ。三崎さん行ったことある?」
無邪気な声は、まさか私が昔住んでいたなんて想像もしていないだろう。私は窓の外を見た。
「……ずっと前に。でも、もう何年も行ってない」
正確な言い方ではないかもしれないけど、少なくとも嘘ではなかった。兄に引き取られてから、私は一度も訪れたことはなかった。
「へえ! どんなとこ?」
窓の外の景色は、目的駅に近づくにつれ、背の低い建物が多くなる。ときどき工場の煙突が現れた。あの中のどれかに、姉の元勤務先があったかもしれない。
「何もないところ。住んでいる人以外には、縁のない町よ」
おとしめたわけではなくて、住む町というのはそういうものだと思う。学校や仕事でよその大きな駅を使うことはあっても、必ず戻ってくる場所こそが住む町だ。兄と姉の結婚話が出るまで、私も町を出るなんて考えたことはなかった。定時制高校に行きながら、適当な働き口をみつけ、姉と助け合って生きていけたらと。さすがに私ほど差し迫った家庭環境の同級生はいなかったけど、でも多かれ少なかれ、皆、地元を基盤に生きていくのが普通だった。同じ区内でもよく知らない町があるのに、川をふたつも越えて都心の高級住宅街に引っ越すなど、あまりに現実感のない話だった。当時の私は喜ぶどころか、兄に対していつも懐疑的な視線を送っていた気がする。
15歳。私は確かに、あの町の住人だったはずなのに。
分厚い太陽が時間をかけて西の空を侵食するように、身体の内にある空洞が、耳障りな重低音に侵されていく。
まぎれている言葉を聞きたくなくて、私は意識的にスイッチを切った。
ひとつしかない改札を出て、町に降り立った。
その瞬間、覚悟していたにもかかわらず、それはあっけなくやぶれた。私は目を見開き、続いて眩暈がした。身体の芯が勝手に震えた。
町は何ひとつ変わっていなかった。買い物スポットとしてはほとんど機能していなかった駅前商店街は、やはりシャッターまじりで閑散としている。左手にはきもの屋。奥に薬局。向かいに中華料理屋。全部憶えていた。新しくできたらしいチェーンの居酒屋もあったが、夕日に照らされた「生ビール平日290円」ののぼりは、むしろ通りのひなびた印象を強めるだけだ。
誰かが善意で世話をしていた、駅の出口に置かれたプランターのヒビすら記憶通りだった。私は全部憶えていたし、その間、町も変わらずにあった。私がずっと、ただ知らないふりをしていただけだった。はっきりとわかった。
「えーっと、とりあえず商店街をまっすぐかな?」
地図に夢中になっている村林は、私がどんな表情をしているかなんてちっとも気づいていない。ありがたかった。息を吸い込み、吐いて、改めて町を見据えた。
試されている――。そう思いかけて、自嘲した。自意識過剰にもほどがある。そんなふうに捉えるべきではない。何事も。
「はやいとこ行って帰りましょう」
村林に言ったというより、むしろ自分に言い聞かせたのかもしれない。閑散とした商店街を、ずんずんと歩き始めた。
昔の知り合いに遭遇する可能性が充分にあったから、私はなるべく余計なものを見ないようにして歩いた。一瞬でも立ち止まりたくなかった。
クリーニング屋の角を曲がるときは、思わず頭を垂れた。中学の同級生の実家だった。心臓がドクドクと早鳴るのを必死で抑えながら通りすぎる。見られませんように。見つかりませんように。ストールでもあれば顔を隠せたかもしれないのに、リクルートスーツ姿じゃどうしようもない。だから、はやくこんなものは脱いでしまいたいのだ。
角を曲がる。道路を渡る。先へ先へと急げば急ぐほど、なぜか迷っているような気分になった。
一方、身を縮めて足早に歩く私に反比例して、村林はこれで終わりなのが嬉しいのか、町の景色に無邪気に反応していた。道すがら、いちいち感嘆の声をあげる。
「すげー、この町、コンビニが全然ないね」
「三崎さん、この自販機の商品、全部80円だって!」
どうでもいいことばかり単純に喜べるのは、この男の特技なのか。さっき、少しでもありがたいなどと思った自分を後悔しながら、振り切るように私は歩き続けた。
「おーい、三崎さん」
無視して歩く。性懲りもなく、再び村林が呼びかけてきた。
「三崎さんってば」
「だから何よ、もう……」
少し立ち止まるのも惜しくて、上半身だけぐいっと90度回転させた。つもりだった。逆光で、村林の姿がやわらかい金色に包まれていた。一瞬のうちにせり上がった記憶は、鉄の腕となって私の脳髄を殴った。その場から動けなくなった。これと同じ構図を私は見たことがある。いつか姉はここで、結婚することを告げた。中学校で進路面談を受けた帰り、家へと続く道の途中の夕暮れ。
「目的地、こっちだよ?」
突っ立ったままの私を怪訝そうに見ながら、村林は道を指差した。家へと続く道を。
雷に打たれたように、身体のこわばりがほどけた。次の瞬間、私は村林に駆け寄ると、彼が手にしていた一覧表を奪い取るように見た。
「最後の家って」
村林が目をぱちくりさせながら、「ここだよ」と言って、チェックのついてない住所を指差した。
ああ、いったいどうして。
「第2かつらぎ荘 201号室……」
もう戻ることなどないと思っていた家。私の家。
一度だけ、停電を経験したことがある。どうしてもお金が工面できなくなって、電気が止められた。母が亡くなってすぐ、小学生のときだ。
冬だった。ただでさえ隙間風の吹く家なのに、電気もヒーターもつかなくなってしまった。私が不安そうにしていたのだろう、姉はホステスの仕事を休んだ。本当は少しでも働いて日銭を稼ぎたかっただろうに、私を優先してくれた。
姉は物置きからロウソクを取り出して、ちゃぶ台の上にあるだけ並べた。ひとつひとつにマッチで火をつけると、暗い部屋がやわらかい灯りで満たされた。それから家中の毛布を出して、重ねて敷いた。私たちはその上に寝転ぶと、身体をくっつけて転がりながら自分たちに巻きつけた。きゃあきゃあとはしゃいで、とても楽しかった。
毛布の中で身を寄せ合いながら、私たちはたくさんおしゃべりをした。主に姉が聞き役で、私のとりとめもない話を聞いてくれた。「好きな人いないの?」と姉につつかれた。「いないよ、男子たち子どもなんだもん」と答えると、「紫野は大人っぽいからね」と、姉はけらけら笑った。
なんだか修学旅行みたい、と姉は笑っていたけど、今思えば彼女は高校1年で学校を辞めていた。本当ならちょうどそのころ、修学旅行の時期だったのかもしれない。でも姉はそんなこと、絶対に私に悟らせなかった。いつも明るく笑って、私に寄り添っていてくれた。電気なんかなくてもちゃんと暖かかった。姉が大好きだった。
私はあれから、どれだけのものを得て、どれだけのものを失ったのだろう?