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キセル  作者: 佐井 識
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第3話

 その金曜日、点呼を取られたときから嫌な予感はしていた。私のこの手の予感はたいてい当たる。昼休憩前に実地研修のグループ分けが発表されて、やはり予感は的中した。しかも、2つも。

「三崎さん、よろしく!」

 皆がざわざわと移動を始めるなか、グループ分けが記されたレジュメを手に、村林がテンション高く近づいてきた。仕方なく、小さく会釈して応える。

 午後からは営業研修の一環として、2人一組で電気料金を滞納している家庭に集金に行く。新入社員のあいだで「取り立て屋」と呼ばれ、もっとも恐れられている研修だった。

「三崎さんと一緒だったら、いい打率出せそうな気がするな~。結構、容赦なく取り立てるタイプじゃない? あ、でも回収率高すぎるとアレかな」

 この研修のテーマは末端の現場の感覚を知ることであって、くまなく集金してくることは元々求められていない。実際、1~2軒からしか集金できないこともよくあるのだという。逆にあまりにもうまくいきすぎた者は、営業所への配属が内定するのだという噂がまことしやかに流れていた。

「村林君なら心配ないんじゃない? 人見知りしなさそうだし」

 褒めたつもりではなかったが、村林は謙遜するように手を顔の前で振ってみせた。

「こう見えて俺、意外とシャイなとこあるからさ。三崎さんみたいに淡々としてるほうがホンモノの取り立て屋っぽいじゃん! 『レオン』みたいにさー」

 本物の取り立て屋など私は見たことなかったし、村林も同じだろうが、確かにおしゃべりな男には向いてない職業だろうと思った。だが、これから行うのは債務の回収などではなく、ただの新人研修だ。ついでに『レオン』は殺し屋の話であって、取り立て屋ではないはずだが、突っ込まないでおいた。

「行きましょう」

 鞄を肩に引っかけ、歩き始めた。13時までに最寄りの営業所に行かなければならない。

「しっかし北東エリアが当たるとは……。結構、ガチで払えない系が多いんじゃね? 俺も三崎さんも、運ないね」

 村林が言った。それは同感だった。村林と組む羽目になったのも大概不運だったが、行き先を思うと気持ちが翳った。

 千葉県にほど近い、東京23区北東部。よく言えば下町、悪く言えば粗雑な町々。23区といっても広い。渋谷や新宿といった繁華街からはだいぶ離れているし、いわゆる東京のイメージとは違う、土と川の匂いのする土地。東京に住んでいたって用事がなければ気に留めることもないし、よそ者を受け付けない独特の空気を持つエリアだった。

 私はかつて、そこで姉と暮らしていた。


「4軒目終了、っとぉー」

 村林が手元の一覧表に赤ペンでチェックをつけた。私は腕時計を見た。15時半を回ったところだった。

 最寄りの営業所で集金の方法と注意事項を教わり、地図のコピーと行き先の一覧表を手渡された。営業所の人から「無理はしないように」とアドバイスを受けていたが、1軒目は不在、2軒目は子どもしかいなかった。3軒目は明らかな居留守だった。これでは無理のしようもない。

 ようやく、この4軒目で最初の集金に成功した。アパートに住む独居老人らしきお爺さんは、何度も謝りながら、玄関脇の引き出しに手をかけた。茶封筒を取り出すと、そこから直接現金を抜き出し、私たちに渡した。ついでに甘露飴もくれたので、有り難く受け取った。

 駅までの道を戻る。5月末の日差しは強く、梅雨に入る前に太陽が照らせるだけ照らしてしまおうとしているようだった。おかげで歩くだけで汗が流れ、白いシャツが肌に張り付く嫌な感覚がした。

「電車に乗る前に、ちょっと休憩しない?」

 疲れていたのか珍しく黙っていた村林が、我慢できないというふうに言った。私もいい加減喉が渇いていたので、頷いた。

「このへんにタリーズないかな」

 ないことがわかっていて、村林は冗談めかして言った。彼もまた、額に汗がたまっている。

「あそこに喫茶店があるけど」

 私が指差した先には、クラシックな――というより古めかしい喫茶店が鎮座していた。ガラスの色が薄く茶がかっていて、「自家焙煎」と大きく書いてある。都心ではあまり見かけない雰囲気の店だが、ここの街並みには馴染んでいた。

「うーん、正直、今まで入ったことないタイプの店なんだけど」

 村林がバツの悪そうな顔をした。

「でも三崎さんが好きなら……」

「そういうんじゃないよ、言ってみただけ。気にしないで」

 見知らぬ土地でいちいち店を選びたがる村林に一瞬腹が立ったが、見知らぬ土地だからこそ、村林は拒否反応を示したに違いなかった。私はつとめて軽い口調で提案を取り下げた。彼にそのつもりはなかっただろうけど、私がこの手の喫茶店に行き慣れているような言い方をされたのも少し癪に障った。だからこそ余計に、この話ははやく終わらせてしまいたかった。

 結局、駅前のマクドナルドで落ち着いた。村林は上着を脱ぐと、キャスターマイルドをわざとらしいくらい美味しそうに吸った。

「すっげ疲れたあ。全然集金できないのに、歩き回るから体力ばっかり使うし。ああ、はやくビール飲みてー」

 今日の夜は新入社員の飲み会が予定されていた。来週いよいよ配属先が決まり、皆バラバラとなる。その前の最後の金曜日ということで、慰労会も兼ねた大規模な飲み会だった。

「さっきのお爺さんさ」

 村林は携帯電話をいじりながら、口元をほころばせた。

「あんなところに金置いてたら、玄関から丸見えだよね」

 こらえきれないというように、くっくっく、と笑みがこぼれる。

「甘露飴とか、ベタすぎでしょ。俺、笑いこらえるのに必死だったよ」

 同じことを私も感じていた。だが、私は笑えなかった。

 小刻みに震えていた、皺だらけの指先。テレビの大きすぎる音が響いていたアパートの部屋。あの老人はもっと私たちと喋りたそうにしていたが、上手いこと言ってさっさと引きあげた。滞在時間は5分にも満たなかったと思う。なすべき仕事をしただけなのに、思い返すと、何とも言えない暗澹たる気持ちになった。私は黙って氷抜きのアイスコーヒーをストローで吸った。

「そういえば三崎さんってタバコ吸わないんだよね。結構意外」

 2本目に火をつけながら、村林が訊いた。

「また取り立て屋のイメージとか言うんでしょ」

「だって、似合いそうじゃん。女子たちが騒いでる横で、黙って一服してそうな雰囲気があるよ」

 私は苦笑した。愛想良くしているつもりだったけど、まだ足りないのかもしれない。

「タバコなんて吸ったことすらないわ。一生吸わないと思う」

「げっ、もしかして嫌煙家? 副流煙とかにも気使ってる系?」

 村林は大袈裟に反応したが、そういうわけではなかった。むしろ、誰がいつタバコを吸っていようが、私にはどうでもいいことだった。

「住まわせてもらってるところに、匂いをつけたくなくて」

 15歳から私の家になった、白い一軒家が目に浮かんだ。はじめて足を踏み入れたとき、オーダーメイドの家具や真新しいカーテンを見て、モデルルームのように感じたことを思い出す。木造のアパートに住んでいた少女にとって、ドラマの中みたいな世界だった。だがそれは新婚の兄と姉のために用意された家で、私はオマケで住まわせてもらえるのだということもわかっていた。いつ追い出されるかも知れないこの家を、なるべく綺麗に使おうと誓った。

「俺も、ベランダで吸え!って母親にしょっちゅう怒られるよ。冬なんか寒くてさあ。親父と男ふたりで、わざわざダウン着て吸ってたりする」

 我ながら情けない姿なんだこれが、と村林は笑った。その情景を想像すると素直に微笑ましくて、私は今までで一番、この男に好感を抱いた。同時に、やはり違う種類の人間なのだとも感じた。家庭の話をこれほど屈託なくすることができる。姉の話も兄の話もしない私とは、まったくかけ離れていた。


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