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キセル  作者: 佐井 識
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第2話

 19時を回ったところで、会はお開きとなった。気を効かせた女の子たちが、全員のグラスを集めて返却カウンターに持って行った。私はその気遣いに甘えることにして、荷物を持って先に店を出た。

「君、“紫野ちゃん”?」

 突然下の名前を呼ばれて驚いて振り返ると、黄色いネクタイを締めた、短髪のサラリーマンが立っていた。見覚えのある顔だった。

「あ、やっぱり。いきなりごめん。変質者じゃないよ?」

 彼は自分で言ったことに対して、ハハハと笑った。

「憶えています。兄が……いつもお世話になっています」

 小さく会釈した。兄が会社で仲良くしているらしい先輩だった。3月に子どもが生まれたばかりで、赤ちゃんと一緒に映っている写真を私は見たことがある。

「大人っぽくなったね~! スーツ似合ってるよ。ほら、高校生のときのイメージが強いからさ」

 村林が興味津々といった顔で様子をうかがっているのが目の端に映る。それに気を配りながら、私は微妙に身体の角度を変えた。

「君の兄貴が淋しがってるよ。『紫野ちゃんが家を出てから、まだ一回も会えてない』って」

 私は苦笑した。そんなことまで話しているのか。

「まだ2か月しか経っていないですし、メールや電話はたまにしていますよ」

 冗談っぽく言ったつもりだったけど、我ながらどこか言い訳じみていたかもしれない。だが彼は特に気にかけることもなく快活に笑った。

「まあ、元気そうでなによりだ。香田に伝えておくよ。引きとめて悪かったね」

 彼は遠巻きにこちらを見ている同期たちを見やった。それから「そうだ、一応ね」と言ってポケットから名刺入れを取り出した。研修で最初に習った名刺のやり取りを思い出し、両手を出して受け取る。

「ごめんなさい、私はまだ名刺がなくて」

 名刺の右肩には「香田製薬」のロゴがプリントされている。医療用医薬品から風邪薬、健康飲料まで展開する製薬会社で、いわゆる大企業だ。同じ名字の兄の父が専務取締役で、兄の伯父が社長をしている。だけど私は他人事のようにロゴを眺めた。実際、彼らとはほとんど関係がない。私が繋がっているのは兄ただひとりだった。この関係を他人に説明するのはとても困難なので、自分から明かすことはない。

「じゃあ、配属決まったら祝いがてら飲もう。もちろん香田も一緒に」

 そう言って笑うと、彼は歩き始めた。私は後ろから声をかけた。

「お子さん……、ご出産おめでとうございます」

 びっくりしたように振り返ったあと、彼は照れた顔をした。


「今の人、誰? 知り合い?」

 待っていた同期のもとへ戻ると、さっそく村林が聞いてきた。

「兄の会社の先輩」

「お兄さんいたんだ」

 村林が意外そうな顔をした。私は同期の前で家族の話をしたことはなかった。 

「なんて会社?」

 香田製薬と答えると、サークルの先輩でひとりいるよ、MRだからめっちゃ忙しそうだけど給料はかなりいいみたいで、と聞いてないことをつらつら喋り始めた。私は返事することなく、黙ったまま駅への道を歩いた。

「お兄さんとはいくつ離れてるの?」

「……8つ」

「結構年の差あるね! 他に兄弟いるの?」

 私はしばし思案してから、口を開いた。

「姉がひとりいる」

「じゃあ三人きょうだいだ。俺も三人きょうだいの真ん中でさ」

 駅に着いていた。村林の能天気な声を遮るように、Suicaで改札に触れて電子音を立てた。男子と女子の寮は別の場所にあるので、乗る電車は違う。

「違うよ、三人じゃない」

 行きかう人たちの流れをくぐりながら言った。

「うちはふたりきょうだいなの」

 村林がぽかんとした。彼が何か言う前に、私はやってきた電車に乗った。

 

 混んでいるのを理由に、女の子たちの固まりから距離を取り、ひとり扉付近に立つ。彼女たちと遮断されたのを確認すると、スーツの背中が重なる隙間に自然とため息が漏れた。

 村林への返答。誤魔化してもよかったけど、なるべく嘘をつかないというのが自分の中のルールだった。嘘をつき通すのは体力を使う。それでも絶対に、と思える嘘しか私はつきたくなかった。本当に自分に必要な嘘、と言い換えられるかもしれない。でも、それだって綺麗事で、嘘なんて実際のところは自己中心的な保守や思い込みにすぎないことも知っている。

 15歳のときから7年間、私はひとつの嘘をつきとおしてきた。おかげで私の身体の内側には、いびつな空洞が作られている。真実を閉じ込める代わりに嘘に食い潰された穴だ。嘘はこの春終わりを迎えたけど、だからといって空洞が埋まるわけじゃなかった。もしふさがるとすれば――そんなことがあれば、の話だけど――少なくとも7年以上かかるだろう。成長とともに広がった、光の差さない暗い穴。

 電車が揺れて、私の身体も揺れた。意識を取られた隙に、穴の中の反響が大きくなる。私は舌打ちしたくなった。この空洞の中では、いつも誰かの言葉が果てしなくこだまし続けているのだ。今、この瞬間にも。

「「わが社は日本における原子力発電のパイオニアとして……」」

「「どこに配属になるかで人生変わるよね」」

「「三崎さんって、大人っぽいよね」」

 電車の扉に背中でもたれかかりながら、私は目を閉じた。

 ああ、どうでもいいことばかりだ。


 私には姉と兄がいる。

 血が繋がっているのは姉で、でも彼女はもういない。何もかも置いて、7年前にいなくなった。はやくに両親を失ってから、たったひとりで私を育ててくれた姉。玉の輿が決まったのに、別の男の子どもを身ごもって突然出奔した。いまだに消息はつかめていない。だから私の記憶の中の彼女はいつまでも23歳のままだ。その輪郭もだんだんと薄れていくような気がしていた。

 姉とバトンタッチするように、私の人生にやって来たのが兄だ。姉の婚約者だった人だ。私は姉がいなくなった理由を知っていたけど、何も知らないふりをしていた。ひとりでは生きていけなかったし、いつか姉は帰ってくるんじゃないかという期待を捨てられずにいたからだ。兄は血縁関係も姻戚関係も何もない私を引き取った。それから7年同じ家で一緒に暮らした。

 本当ならこの春、すべての関係を終わらせるつもりだった。嘘がタイムリミットを迎えたからだ。何も知らない子どものふりをして、いつまでも庇護下にいることはもう限界だった。兄には自由になる権利があった。みなしごはみなしごに戻るべきだと思ったのだ。

 だけど兄は私を離さなかった。嘘を告白した私を、信じがたいことに彼は許した。そんなわけで何故かまだ、私たちは兄妹を続けている。

 ただし言われたとおり、3月の末に家を出てからは戻っていない。週末に実家に戻る同期は多いけど、私は寮にとどまっていた。

 帰れない理由があるわけじゃない。だけど同期たちのように、親や地元の友だちに会いに帰るのとはやっぱり違う。6月になって配属先がちゃんと決まったら、報告がてら帰ろう。勝手にそう決めていた。

 さっき久しぶりに「紫野ちゃん」と呼ばれて、変な気持ちがした。入社以来、私はずっと名字で呼ばれている。私をその名で呼ぶのは兄しかいない。天然で、ドジで、お坊ちゃん。そして私が知る限り、世界で一番のお人好しだった。

 懐かしい匂いがした。2か月会ってないだけで、人はもう懐かしいなんて思うらしい。何故だかそれを悲しいと思った。不思議な感覚に、私はしばらくのあいだ身をゆだねた。



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