第1話
女の子はみんな、きょとんとするのが上手だ。目をぱっちり見開いたり、小首を傾げたり、愛らしく口を開いたりする姿は、とても無防備で可愛らしい。
だけど私は、いつも3秒早く気づいてしまう。誰かが何かを言い終わる前に。皆が反応する前に。ひとりだけ別の時間軸を生きているかのように。
私はきょとんとすることができない。
「三崎さんってさ、テレビとか見たりするの?」
配られたレジュメをファイルに片付けていたら、うしろの席に座っていた同じ寮の女の子たちに、いきなりそんなことを言われた。座学続きの研修の1日が終わった。午後の題目は、原子力発電の歴史と現状について。火力発電の授業より長い時間を割いているということは、会社としては新入社員のうちにプライオリティを刷り込んでおきたいのだろう。
「見るよ、普通に。なんで?」
ゆっくり言葉を選びながら、微笑みとともに答える。質問には端的に回答し、「普通に」で武装を解き、疑問形で終わることで会話する意志を表したつもりだった。
きゃー、ほらさ、と彼女たちは楽しそうに互いを向き合った。
「三崎さん、フランス映画とか見てそうな雰囲気あるなって、みんなで話してたの」
「『日本のドラマなんてくだらない』みたいなセリフが似合いそうだなって。あ、褒めてるよ!」
いったい何を褒めているつもりなのかわからなかったが、一緒になって笑う。
「ドラマも見るよ。最近は疲れちゃって、テレビをつけずに寝ちゃうことが多いけど。来週提出の課題、みんなもう終わらせた? 私、ついつい先延ばしにしてて」
課題という単語に、女の子たちはひときわ高い声で反応した。
「やってなーい! よかった、三崎さんもまだで。結構めんどい設問多いよね」
「このあとみんなで、カフェで一緒に課題やろうって話してたんだ。よかったら、三崎さんも来ない?」
まばたきをするあいだに、頭の中で数える。先週似たような誘いを受けたときは断わっていた。連続で断わるのは避けるべきだった。それに金曜には新入社員の飲み会がある。その前に女の子たちのサークル内で波風立てるのは、得策ではないだろう。
「ありがとう。行くね」
「えー、女子たちだけ? 俺も行きたい」
振り返ると、村林悠太が立っていた。
「ヤッシーも来る? いいよ」
女の子たちが声を弾ませた。「村林だから、大学ではヤッシーって呼ばれています」と内定式で自己紹介して以来、彼はそのあだ名で呼ばれていた。続けて言った「でも、田中康夫ほどエロくありません!」という発言は、同期はともかく、中年の上司には大いにウケていた。
「じゃあ、日誌書き終わったら下に集合しよ」
「わかった。俺のほうでも、適当に男に声かけとくね」
話はトントン拍子にまとまっていた。私は笑みを浮かべて黙ったまま、それが過ぎるのを待っていた。
「あとでね、三崎さん」
村林がチラリと私を見て、男の子たちの集団に混ざって行った。多目的ルームからぞろぞろと男女が移動していくさまは、大学時代を思わせる。違いと言えば、みんな地味なスーツを着ていることくらいだ。新入社員研修。もう学生ではないけど、配属までしばらくこんな日々が続く。宙ぶらりんな身分の私たち。
廊下の窓の外では、強い西日が5月の新緑を照らしていた。桜の木はその枝先に、鮮やかな緑色を繁らせていた。
残念ながらというか案の定というか、課題もそこそこに、勉強会はおしゃべりタイムへと突入した。
「でさ、その事業所に配属になった先輩、歓迎会でブリーフ一丁で踊る羽目になったんだって」
村林の一言に、ドッと場が盛り上がる。女の子たちが口を押さえて「やだあ」と笑った。
同期はとにかく人数が多い。関東一帯に電力を供給する会社だから当然かもしれないけど、高卒と大卒、さらに高専や短大からの採用もあるので、総合すると私が通っていた大学の学部の人数を余裕で超えていた。今は大卒・総合職採用のみの研修を受けているが、それでも100人近い人数がいる。入社して1か月半経つとはいえ、配属先の噂、先輩の噂、同期の噂……話のネタは尽きることがない。
「さすが、ヤッシーの先輩って感じ。早稲田のイメージ通りだね」
「俺はブリーフじゃなくボクサーパンツ派だけどね」
大袈裟に肩をすくめつつ、村林は「ぶっちゃけ宴会芸には自信あるけどね」と笑う。
「今なら絶対、AKB48を完コピする。スカートはいて、『会いたかった~会いたかった~イェス!!』」
村林が右手を振り上げ、裏声で決めポーズした。男の子も女の子も噴き出した。私は口の端を上げながら、ぼんやりとテーブルの上に並ぶ飲み物を見ていた。アイスカフェラテ、アイスキャラメルラテ、アイスコーヒー、アイスカフェラテ、アイス抹茶ラテ、アイスメープルミルクティー、アイスカフェモカ。
私の手元にあるのはアイスカフェラテ。氷が溶けて薄まってしまっていた。ホットにすればよかったかもしれない、と思った。
「配属発表、マジで不安」
向かいに座っていた女の子が長い髪を耳にかけながら言った。小ぶりのピアスがきらりと光った。
「どこに配属になるかで、人生変わるよね。生まれたときからずっと杉並の住人なのに、いきなり茨城の山奥とかになったらどうしよう」
「杏奈は可愛いから絶対本社だって! 広報部行けると思うな」
私を誘った女の子たちが頷く。本人は否定しつつも、満更でなさそうな表情を浮かべた。私はそっとグラスに口をつけた。広報部に行きたいという女の子は多い。もしくは秘書部。確かに彼女は美人だから、希望の部署に行けるのかもしれない。嫌味でなく、それは素晴らしいことだなと思った。美しかろうと賢かろうと、追い立てられて目の前の仕事をするしかない人間もいるのだから。
たとえば、私の姉のように。
グラスについた水滴が、一瞬汗に見えた。記憶の中の姉はいつも、額に汗を浮かべて笑っていた。冬でもそうだ。何故なら、ひたすら働き続けていたから。朝6時に起きて工場に出かけ、夕方アパートにいったん戻り、自転車で場末のクラブへと出勤し、夜中に帰ってきた。それらはすべて、幼い私を食べさせるためだ。今思い出しても、気が遠くなるような作業だった。
「そういえば、三崎さんは何志望なの?」
突然話を振られて、現実に引き戻される。うーん、と考えるふりをしながら、私は記憶を頭の隅に追いやった。
「どこでも。なんでもいいよ」
それは正直な意見だったのだけど、彼らを驚かせてしまったらしい。
「えー、すっごい田舎に配属されたら嫌じゃない?」
「あたし、営業でも怖いもん。いきなり外回りとか、ほんと無理だし」
私は笑いながら少しうつむいて、指先でストローを素早く動かした。カラカラカラと、氷がグラスに当たる音がする。
「仕事って、自分で選ぶものだと思ったことないから」
インフラ系をメインで受けていたのは事実だけど、別にこの会社に思い入れがあったわけじゃない。たまたまはやめに受かったのがここだったというだけだ。なるべく潰れなさそうで、安定していて、女でもずっと働けて、寮に入れる会社ならどこでもよかった。誰の手も借りずに生きていくことさえできたら。
仕事に出かけていく姉の後ろ姿が脳裏をよぎった。
姉がいなくなって、もう7年以上が経つ。
「なんか……。三崎さんって、大人っぽいよね」
誰かが感心するように言った。周りの子たちも頷いた。全員が私を見た。
みんなよく似ていた。
新しいスーツを身にまとい、カフェに集まって、おしゃべりする新入社員たち。出身地も、境遇も、大学のランクも似たような人間が、選り分けられ、同じような格好で、一堂に会している。工場の事務員と場末のホステスという職業を彼らは一生知ることはないだろう。
その中に私がいることが、とても奇妙なことのように思えた。