母が終わらせた物語、娘が選んだ人生
母の物語は、そこで終わった。
王太子に愛され、
聖女として讃えられ、
そして――何も残らなかった。
「奇跡は、もう起きません」
それが、母の最後の言葉だった。
祈っても、光は降りない。
人々は失望し、
父は責任を問われ、
私たち家族は、静かに王都を去った。
私は、その背中を覚えている。
俯き、何も言えなくなった母を。
***
――それから、十五年。
「ねえ、これ見て!」
私は笑いながら、畑で育った作物を抱えた。
ここは辺境の町。
奇跡も、王族も、物語も関係ない場所。
でも、私は知っている。
祈らなくても、
手を動かせば、実りは生まれることを。
母は、私に何も教えなかった。
けれど、背中で教えてくれた。
期待に応え続ける苦しさ。
役割に縛られる怖さ。
そして――「自分で選ぶ」ことの大切さを。
「あなたは、祈らなくていいの?」
そう聞かれたことがある。
私は首を振った。
「私は、働くの」
誰かの願いを背負うのではなく、
自分の足で立つために。
***
夕暮れ時。
隣に立つ彼が、そっと手を差し出す。
「今日も、いい一日だったな」
「ええ。とても」
母は、奇跡になれなかった。
でも私は、日常を選んだ。
物語の中心じゃなくていい。
拍手なんて、なくていい。
それでも――
私は、幸せだ。
母の物語は、確かに終わった。
けれど。
私の物語は、ここから始まっている。
***
母は、自分の過去を語らなかった。
祈りの話も、
王都の話も、
聖女だったという事実さえ。
だから私は、知らなかった。
――知ろうともしなかった。
それを知ったのは、母が倒れた翌日だった。
「あなたが……あの聖女の娘さん?」
薬草を取りに行った先で、年老いた行商人が、私の顔を見てそう言った。
「奇跡の聖女様。
光を降ろして、人を救った方だ」
胸が、ひどくざわついた。
帰宅すると、母は眠っていた。
浅く、静かに。
私は、押し入れの奥にしまわれていた小箱を見つけた。
中にあったのは、一枚の布切れと、古い手紙。
――聖女就任の証。
そして、震える文字で書かれた一文。
『奇跡は、私の意思ではなかった』
『願われることが、怖くなった』
指先が、冷たくなる。
母は、奇跡を失ったのではない。
奇跡を、手放したのだ。
誰かの期待に応えるためではなく、
自分と、家族を守るために。
夜。
目を覚ました母に、私は静かに聞いた。
「……ねえ。母さんは、幸せ?」
母は少し驚いた顔をしてから、
ゆっくり、微笑んだ。
「ええ。今はね」
その笑顔は、
かつて世界に祈られていた人のものではなく、
ただの、一人の母のものだった。
私は、母の手を握る。
奇跡なんて、なくていい。
物語の中心じゃなくていい。
この人が選んだ終わりが、
こんなにも穏やかなら――
私は、次の物語を、
胸を張って始められる。
これは、母が終わらせた物語の、
その先の話。
***
母の過去を知ってから、私は考えるようになった。
もし、奇跡が私に宿っていたら。
もし、誰かに期待される力を持っていたら。
――私は、どうしていただろう。
「祈りなさい」
そう言われた未来が、ふと頭をよぎる。
でも私は、首を振った。
私は、母の背中を見てきた。
奇跡を失って、ようやく眠れるようになった夜を。
誰にも縋られず、誰にも裁かれない朝を。
それが、どれほど尊いかを。
畑に出る。
土に触れる。
芽吹いた葉を、指でなぞる。
これは、私が選んだ仕事だ。
誰かに与えられた役割じゃない。
「ねえ、町に残らない?」
彼がそう言ったとき、私は迷わなかった。
「ううん。ここで、生きる」
静かで、派手じゃなくて、
でも――自分の足で立てる場所。
母は、何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を細めて、頷いた。
その仕草が、祝福だった。
私は、奇跡を起こさない。
世界を救わない。
誰かの物語の中心にもならない。
それでも。
私は、私の人生を選んだ。
母の物語は、ここで終わった。
でも私の物語は――
誰にも奪われず、
誰にも決められず、
ここから、続いていく。
***
夜、ランプの灯りの下で、母は縫い物をしていた。
昔、聖女だった人の手だとは思えないほど、
少し荒れていて、温かい手。
「ねえ、母さん」
私が声をかけると、母は顔を上げた。
「なあに?」
私は少し迷ってから、聞いた。
「……奇跡を、失って後悔しなかった?」
針が、止まる。
でも母は、すぐに微笑んだ。
「いいえ」
迷いのない声だった。
「奇跡があった頃、
私は“選ばれている”ようで、
何一つ、選べていなかったの」
母は、私を見る。
まっすぐに。
逃げ場を残さない目で。
「でも今は違う。
ここにいることも、
あなたの母でいることも、
全部――私が選んだの」
胸が、熱くなる。
「あなたはね、私みたいにならなくていい」
母は、そっと私の手を包んだ。
「誰かを救わなくてもいい。
期待に応えなくてもいい。
ただ、自分の人生を生きなさい」
それが、母の祈りだった。
光も、奇跡も伴わない。
でも、何より強い願い。
私は、笑った。
「うん。そうする」
母は安心したように目を細め、
また針を動かし始めた。
その横顔を見ながら、思う。
母は、世界を救わなかったかもしれない。
でも――
私を、救ってくれた。
母の物語は、静かに終わった。
そして。
娘の物語は、
誰にも奪われることなく、
幸せの中で、続いていく。




