最終話 当日•後編── 7300日目
会場は、思っていたよりも小さかった。
椅子は二脚だけ。
正面には、白い布に包まれた小さな台と、一本の花。
結婚式と同じようで、
でも決定的に違うのは、
祝福のざわめきがないことだった。
その静けさが、二人には心地よかった。
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司会役の女性が、穏やかな声で言った。
「本日は、お二人が共に歩んだ20年間、
7300日に感謝し、
それぞれの人生へ進むための式です」
亮介と美沙は、並んで立った。
20年前と同じ並び方。
でも、肩に入る力はまるで違っていた。
「それではまず、
結婚生活を振り返る時間を持ちましょう」
スクリーンに映し出されたのは、
写真でも映像でもなく、
ただの日付の羅列だった。
2005年、2006年、2007年……
淡々と流れていく数字。
それなのに、美沙の目には、
その一つ一つに情景が浮かんでいた。
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◆
「お二人それぞれ、
感謝の言葉を一言ずつ、お願いします」
最初に促されたのは、亮介だった。
亮介は一度、深く息を吸った。
「……20年間、
俺は“守ってるつもり”で、
ちゃんと向き合ってなかったと思います」
言葉は、飾らなかった。
「それでも美沙は、
俺の隣に立ち続けてくれた。
それだけで……十分すぎるほどでした」
少し間を置いて、続ける。
「ありがとう。
7300日、俺と一緒に生きてくれて」
美沙は、ゆっくりと頷いた。
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◆
次は、美沙の番だった。
「私はね……
あなたに“わかってほしい”って思いすぎて、
ちゃんと伝える努力を怠ってた」
声は震えていなかった。
「でも、
あなたと過ごした時間がなかったら、
今の私はいない」
美沙は、指輪に目を落とした。
「結婚は、終わるけど。
感謝は、終わらない」
そして、はっきりと言った。
「ありがとう。
私の7300日を、あなたと分け合えてよかった」
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◆
「それでは、
指輪を外す儀式に移ります」
係の人の声が、静かに響く。
二人は、同時に左手を見た。
20年間、外すことのなかった指輪。
美沙が、先に外した。
少しだけ、ためらってから。
亮介も、それに続く。
金属が小さな台に置かれる音は、
驚くほど軽かった。
重かったのは、指輪じゃない。
時間だった。
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◆
「これにて、離婚式は終了です」
拍手はなかった。
代わりに、深い静寂があった。
それが、この式にふさわしい終わり方だった。
会場を出る前、
美沙が立ち止まった。
「ねえ、亮介」
「ん?」
「私たち、失敗した夫婦だったと思う?」
亮介は、少し考えてから答えた。
「いや。
役目を終えた夫婦だったんだと思う」
美沙は、微笑んだ。
「それ、いいね」
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◆
外に出ると、空は澄み切っていた。
20年前と、同じような青。
「じゃあ……ここで」
「うん」
握手も、抱擁もない。
でも、背を向ける前に、二人は同時に言った。
「元気で」
「あなたも」
そして、それぞれの方向へ歩き出す。
振り返らなかった。
それが、二人なりの誠実さだった。
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こうして、
二人の7300日は終わった。
けれど、
それは“失われた時間”ではない。
調和の取れた別れ――
それは、
人生の次の章へ進むための、
静かで確かな終止符だった。




