第7話 前夜──最後の夜
離婚式まで、あと一日。
結婚記念日まで、あと一日。
夜のキッチンに、湯を沸かす音だけが響いていた。
美沙はマグカップを二つ並べ、いつものようにコーヒーを淹れる。
「……砂糖、いる?」
「いや、大丈夫」
こんな何気ないやりとりが、
もう“最後”なのだと意識すると、不思議と胸がざわついた。
二人は向かい合わず、横並びに座った。
テレビもつけず、ただ夜の音を聞いていた。
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◆
「ねえ、亮介」
「ん?」
「明日さ……結婚記念日だね」
「……ああ」
声は落ち着いていたが、
その一言に、20年分の時間が詰まっていた。
「10周年のとき、何してたか覚えてる?」
「……喧嘩してた」
「そうそう。15周年は?」
「俺、出張中だったな」
「18年目は……」
美沙は言葉を切った。
「……いいや、やめとく」
亮介は、それ以上追わなかった。
聞かない優しさも、今の二人には必要だった。
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◆
寝室のクローゼットの前で、美沙は指輪を手に取った。
結婚指輪。
20年間、外すことのなかった指輪。
「……明日、これ外すんだよね」
亮介は黙って頷いた。
「不思議だね。
外すって思うと、急に重く感じる」
美沙はそっと指にはめ、しばらく眺めた。
「でもさ」
少し笑って言う。
「この指輪、私の人生そのものだったと思う」
亮介は、初めて目を逸らさずに言った。
「……俺もだ」
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◆
布団に入ってからも、二人は眠れなかった。
同じ部屋、同じ距離。
なのに、心の距離だけがはっきりしている。
「ねえ、亮介」
「どうした?」
「もしさ……明日、何かが変わったらどうする?」
亮介は少し考えてから答えた。
「変わらないと思う。
でも……後悔はしないようにしたい」
「うん。それでいい」
その言葉に、嘘はなかった。
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◆
深夜。
亮介はそっと起き上がり、ベランダに出た。
冷たい空気が肺に入る。
20年前の同じ夜、
彼は結婚式を前にして、緊張で眠れず、
“一生この人を守る”と本気で思っていた。
(……守り方、間違えたな)
そう思っても、
過去は書き換えられない。
ベランダの向こう、
街は何事もなかったように眠っている。
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◆
亮介が部屋に戻ると、美沙は起きていた。
「眠れない?」
「うん。あなたも?」
「ああ」
二人は、何も言わずに並んで横になった。
手を伸ばせば触れられる距離。
だが、触れなかった。
それが、今の二人にとって
いちばん自然な“優しさ”だった。
時計の秒針が、静かに進む。
あと数時間で、
結婚20年目の記念日が始まる。
そして、
二人の7300日が、終わる。




