第6話 18年目──届かなかった声
離婚式まで、あと二日。
結婚記念日まで、あと二日。
夜更け、リビングのソファに座ったまま、美沙はスマートフォンを見つめていた。
画面には、三年前の日付。
「……18年目、だったね」
誰に向けるでもなく呟くと、キッチンから亮介が顔を出した。
「何か見てたのか?」
「昔のメッセージ。ほとんど残ってないけど……これは消せなかった」
亮介はそれ以上聞かなかった。
聞く勇気がなかった。
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◆
結婚18年目の春。
美沙は体調を崩していた。
大した病気ではなかった。
ただ、原因不明の不調が続き、夜も眠れず、仕事にも集中できなかった。
「病院、行ったほうがいいんじゃない?」
亮介はそう言った。
言葉だけ見れば、優しさだった。
「……一緒に行ってくれない?」
美沙の声は、ほんの少し震えていた。
「え? ああ……悪い。今週はどうしても外せない会議があって」
その瞬間、美沙は分かった。
(ああ、もう頼れないんだ)
責める気持ちは、不思議と湧かなかった。
代わりに胸に広がったのは、静かな諦めだった。
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◆
病院の待合室。
白い壁と、番号を呼ぶ機械音。
一人で座る美沙は、ふと周囲を見回した。
隣には、夫に肩を支えられた女性。
その向こうには、手を握られている人。
自分だけが、一人だった。
診察結果は、軽い自律神経の乱れ。
医師は笑顔で言った。
「少し、休みましょう」
美沙は頷いた。
でも本当は、“休みたい”のではなかった。
「そばにいてほしかった」
それだけだった。
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◆
その夜、亮介は遅く帰宅した。
「どうだった?」
「……大丈夫だった」
「そうか。よかった」
それで、会話は終わった。
亮介は疲れて眠り、
美沙は眠れないまま天井を見つめていた。
その天井を見つめる時間の中で、
美沙は一つの決意をした。
“もう、この人に期待しない”
期待しなければ、傷つかない。
それは、自分を守るための選択だった。
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◆
その年の冬。
二人は何事もなかったように年を越した。
笑顔で年賀状を書き、
揃って親戚に顔を出し、
“問題のない夫婦”を演じ続けた。
だが、心の奥で何かが確実に終わっていた。
壊れた音はしなかった。
ただ、聞こえなくなっただけだった。
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◆現在──深夜のリビング
「……あの時さ」
亮介が初めて口を開いた。
「一緒に病院、行けなくて……悪かった」
18年越しの謝罪だった。
美沙は、しばらく黙ってから言った。
「ううん。謝らなくていい。
あれで、私、覚悟が決まったから」
「覚悟……?」
「一人でも立てるって覚悟。
そして、あなたに“何かを求めない”覚悟」
亮介は唇を噛んだ。
その言葉の重さが、今になって胸に落ちてきた。
「……遅すぎたな」
「うん。でも、気づけただけでも、いいよ」
二人の間に、責める空気はなかった。
あるのは、受け入れる静けさだけ。
離婚式まで、あと二日。
結婚記念日まで、あと二日。
7300日の中で、
一番小さくて、一番決定的な出来事は、
声が届かなかった、あの一日だった。




