第5話 15年目──離れられなかった理由
離婚式まで、あと三日。
結婚記念日まで、あと三日。
洗濯物を畳みながら、美沙はふとカレンダーを見つめた。
赤く丸がつけられたその日付は、20年前と同じ曜日だった。
「……偶然って、残酷ね」
小さくつぶやくと、背後で亮介が「何が?」と聞いた。
「結婚記念日がさ、今年も同じ曜日なんだって思って」
亮介は少し黙ってから、ゆっくり言った。
「……15年目も、そうだったな」
美沙は手を止めた。
忘れるはずのない年だ。
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◆
結婚15年目。
ふたりの生活は“安定”という言葉で包まれていた。
大きな喧嘩は減り、会話も最低限。
それは平穏に見えたが、内側は静かに乾いていた。
その年の春、亮介に転勤の話が持ち上がった。
地方都市への単身赴任。期間は未定。
「……行くの?」
美沙がそう聞いた夜、亮介は即答できなかった。
「会社的には……行く方向だと思う」
「そう」
それ以上、言葉は続かなかった。
本当は聞きたかった。
“私についてどう思ってるの?”
本当は言いたかった。
“一緒に来てほしいって言って”
でも、二人とも言わなかった。
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◆
単身赴任が始まって、家は驚くほど静かになった。
洗濯物は減り、冷蔵庫はいつも半分空いていた。
夜、テレビをつけたまま、美沙は一人で食事をした。
亮介からの電話は、週に一度。
「元気?」
「うん。そっちは?」
「まあまあ」
それだけで、通話は終わった。
ある夜、美沙は勇気を出して言った。
「ねえ……このまま、ずっと別々?」
電話の向こうで、亮介が息を吸う音がした。
「……わからない。でも、今は仕事が——」
「うん、わかってる」
“わかってる”という言葉は、
理解ではなく、諦めに近かった。
電話を切ったあと、美沙は泣かなかった。
泣くほどの期待を、もうしていなかったからだ。
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◆
その年の結婚記念日。
亮介は帰ってこなかった。
代わりに届いたのは、宅配便だった。
中には、シンプルな腕時計。
メッセージカードには、短い文字。
「いつもありがとう」
それだけ。
美沙は時計を手に取り、しばらく動かなかった。
「……ありがとう、ね」
嫌いになったわけじゃない。
憎んでもいない。
でも、一緒にいる意味が、わからなくなった。
それでも、その日、美沙は離婚を考えなかった。
なぜなら——
“ここまで来た時間”を、壊す勇気がなかったから。
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◆現在──夜のリビング
「15年目、離婚しなかったの……怖かっただけだと思ってた」
美沙が言う。
「俺は……楽だったんだと思う。
離れる決断をしなくて済む場所が、そこにあったから」
亮介の言葉は、言い訳でも弁解でもなかった。
「でもさ」
美沙が続ける。
「それでも一緒にいたのは……無意味じゃなかったよね」
亮介は静かに頷いた。
「ああ。無意味じゃなかった。
だから、ちゃんと終わらせたい」
時計の秒針が、静かに進む。
15年目に贈られた腕時計は、今も時を刻んでいた。
その時計を外す日が、もうすぐ来る。
離婚式まで、あと三日。
結婚20年目の記念日まで、あと三日。
二人は、過去を抱いたまま、
“終わりの日”へと静かに歩いていく。




