第4話 10年目──初めての大喧嘩
離婚式まで、あと四日。
そしてそれは、二人の結婚記念日まであと四日でもあった。
夕飯のあと、食卓の上に残った湯気がゆっくり消えていく頃、
亮介がぽつりとこぼした。
「……10年目のこと、覚えてるか?」
美沙は箸を置き、静かに息をついた。
「忘れられるわけ、ないよ」
その声には、少しだけ痛みが残っていた。
結婚10年目──二人が初めて、本気で傷つけ合った年のことだ。
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◆
その頃、美沙は仕事に復帰したばかりだった。
ずっと興味のあった企画職に抜擢され、日々が新鮮で、忙しくて、それでも楽しかった。
「最近、帰り遅いな」
亮介が言う。
その言い方には悪気はなかったが、美沙には棘のように刺さった。
「あなたも帰り遅かったじゃない。私だけ言われるのは……変だよ」
「別に責めてるわけじゃ……」
だが、亮介の溜め息まじりの言い方は、美沙の不安に火をつけた。
ある晩、事件は起きた。
美沙は会社でトラブルに巻き込まれ、疲れ切った状態で帰宅した。
玄関を開けると、リビングの電気はついている。
亮介がテレビをつけたまま座っていた。
「おかえり……遅かったな」
その声は、ただの言葉のつもりだった。
だが、美沙の耳には“またか”という非難に聞こえた。
「……遅くなるって言ったよね? ライン見てないの?」
「いや……見てたよ。でも……連絡、もっと早めにできたんじゃないか」
“もっと早めに”
その一言が、美沙の中で何かを切った。
「私ばっかり責めるの?」
「責めてるんじゃないって」
「じゃあ何? 私は家のことも全部やって、仕事だって頑張って……
あなたはただ帰ってきて不満だけ言うの?」
「不満なんて——」
亮介の声も荒くなった。
「美沙だって変わったよ。仕事の話ばっかりで……
前はもっと俺の話、聞いてくれたじゃん」
「前って何? 私が働く前のこと?
じゃあ仕事辞めたほうがよかったって言いたいの?」
火花が散るような、初めての本気の衝突だった。
言わなくていい言葉ばかり出て、
互いの“疲れ”がそのまま“怒り”に変換されていた。
その夜、二人は別々の部屋で眠った。
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◆
翌朝、亮介は出勤前に小さな紙袋をテーブルに置いた。
中には、美沙が前から欲しがっていたブランドのボールペンが入っていた。
付箋が一枚。
「がんばりすぎるなよ」
その一言を見て、美沙は泣いた。
本当は責めたいんじゃない。
本当は理解したいだけ。
それは分かっていたのに、すれ違いは重なり続けた。
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◆現在──相沢家のリビング
「……10年目のあれ、一番つらかった」
美沙が静かに言う。
「俺もだよ。あの日、謝りたかったのに……結局言えなかった」
「うん。でもね、付箋の“がんばりすぎるなよ”は嬉しかった」
「あれで……許してくれたのか?」
亮介が目を伏せる。
「許すとかじゃなくて……“ああ、この人、私をちゃんと気にしてるんだな”って思ったの」
亮介は少し笑った。
「……あれ書いたくせに、その後また喧嘩したよな」
「したね。何度も」
二人は同時に少しだけ笑ったが、
その笑いはどこか寂しげだった。
10年目は、
“互いを思う気持ち”と“自分の生活”が初めて強くぶつかった年だった。
そして、その傷は完全には塞がらないまま、
20年目の離婚という選択へ少しずつ近づいていった。
離婚式まで、あと四日。
結婚記念日まで、あと四日。
二人は今、かつてよりずっと静かに、
それぞれの“半分だけ残った愛”を抱えている。




