第3話 5年目──すれ違いのはじまり
離婚式まで、あと五日。
夕食の食器を片づけながら、美沙はふと手を止めた。
今日は久しぶりに亮介が早く帰ってきて、二人で同じ時間に夕食を囲んだ。
だが、会話らしい会話はほとんどなかった。
静かな食卓。その沈黙は、ある“時期”を思い出させた。
「……ねえ」
「ん?」
「5年目ってさ。今思うと、あそこで狂い始めてたよね、私たち」
亮介はしばらく考えて、静かに頷いた。
「たしかに。あの頃から、俺は家より仕事の方ばっかり向いてたな」
ふたりは、ゆっくりと20年前の“5年目”へ心を戻した。
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◆
社会人として脂の乗った30代に差し掛かった亮介は、営業部の中心選手になっていた。
深夜帰りが増え、休日も資料を抱えていた。
家にいても、いつも“何かを考えている顔”をしていた。
「おかえり」
「ただいま……悪い、また遅くなった」
「ううん。お疲れさま。お風呂まだ沸いてるよ」
美沙はいつも通り迎えた。
だが、待つ時間は長くなる一方だった。
食卓の上の料理は、気づけばすっかり冷めている。
亮介は申し訳なさそうに食べるが、疲れで会話は少ない。
「最近、帰り遅いね」
「悪い……大きい案件抱えてて」
「そうなんだ」
それ以上は、聞けなかった。
聞けば聞くほど“自分が負担になるんじゃないか”と感じてしまったからだ。
その一方で、亮介も思っていた。
(……もっと頼ってくれていいのにな)
心ではそう願っていたのに、口から出る言葉はいつも簡単な説明だけで、疲れた顔を隠すことで精一杯だった。
ふたりの沈黙は、互いを思っての沈黙だった。
なのに、その沈黙が距離を作っていった。
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◆
ある夜、美沙が静かに言った。
「ねえ、亮介。たまには一緒に出かけない?」
「出かける?」
「うん。どこでもいいんだけど……最近、話してないなって思って」
その時、亮介は疲れで尖った声を出してしまった。
「悪いけど……今そんな余裕ないんだよ」
美沙の表情が、一瞬でしぼんだ。
亮介もすぐに後悔したが、謝れなかった。
その夜、二人の寝室には重たい沈黙だけが流れた。
(話したかっただけなのに……)
(誘ってくれたのに……なんで断ったんだ俺は)
気持ちは互いに向いているのに、方向だけがずれていた。
その小さな“ずれ”は、やがて何年も続く大きな“距離”となる。
◆現在──二人のリビング
「5年目って、悪気があったわけじゃなかったよね」
美沙がぽつりと言う。
「ああ……俺、仕事の方しか見えてなかった」
「私も……何でも一人でやらないとって思ってた。
あなたに頼るのが悪いことみたいに感じてた」
亮介は箸を置き、少しだけ美沙の方を向いた。
「頼って……ほしかったよ。本当は」
「……ごめん」
謝罪の言葉が、ようやく20年越しに届いた気がした。
だがそれは、修復ではなく“整理”のための言葉でもあった。
「ねえ、亮介」
「ん?」
「離婚式で話すこと、少しずつ決まってきた気がする」
「……そうだな」
5年目の夜のように、もう互いを誤解することはない。
けれど、距離はあの頃よりも静かに、深く、広がっていた。
離婚式まで、あと五日。
二人は今日も、7300日を一つずつ解きほどいていく。




